歴史や古典を学ぶ意味(2013年5月19日)
昨年の大河ドラマ「平清盛」の視聴率が史上最低というので、脚本がよくない、時代考証がよくない、画面が汚い、主役がよくない等々、酷評され、作品の大ファンであった私としては非常に残念に思いました。視聴率の挽回を狙って、幅広い層で支持率の高い綾瀬はるかさんを起用した「八重の桜」も、最初は高視聴率をおさめながらも、徐々に前作に迫るか!?くらいの低視聴率となっていると聞いています。
そうだとすれば、単純に作品が良くないから、魅力がないから見る人が少なくなったというだけの問題であるのかと、ふと考えてしまいます。大河ドラマ自体、歴史がわからないから見る価値もないという人が増えているとも考えられないでしょうか。
最近、生徒たちの歴史離れ・歴史嫌いは顕著になっています。そう遠くはない将来、国民全体の歴史離れ・歴史嫌いは拡大し、国・民族の根幹を揺るがすのではないかと危惧しています。
さて、私は現代文では小説より評論が好きです。最近の教科書に載っている評論は、学問分野も様々で、読み応えのあるものが多く、教え甲斐もあります。
多くの教科書や入試問題に採用される経済学者の岩井克人氏のレトリックはなかなか巧みです。
「未来世代への責任」(「朝日新聞」2001年8月3日・夕刊 )という評論の冒頭にはうならされます。
私は経済学者です。そして、経済学者とは現代において数少ない「悪魔」の一員です。
人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動を取ること――それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。
経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共の〉目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。
「人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。」とは、ブッタやキリストを意識しての表現にちがいありません。そういう意味では、18世紀の経済学者アダム・スミスなどはたかだか二百年前くらいの、思想界にはとっては〝ぽっと出〟のヒヨっこなのかもしれません。
その彼が、「利己心(=自己利益の追求)の何が悪い。それはこれまでの「倫理」にもとってかわる良い(=社会全体の利益を増進する)ものだ」と述べているのです。良心の痛みを伴わずに利己心をおしすすめ、持てる者の死角に弱者を追いやる点が、これぞ筆者の言う経済学の「悪魔」性なのでしょう(しかしながら、生徒たちはアダム・スミスの言っていることのほうがしっくりくると言っていました……!)
この評論はこのあと、経済学の論理が先進諸国の温暖化ガスの排出枠の問題にも応用され、それは一見すると問題解決ともとれるのであるが、実のところは「未来世代」の存在が完全に抜け落ちているのであるということを述べていきます(完璧に見えるものほど、何か根本的に大事なものが抜け落ちるのかもしれません……)。
ここで、歴史を学ぶこと・古典を学ぶことの重要性が見えてきます。
〝ぽっと出〟の思想は、同時代的な横の軸の思考しか持っていないのではないかということです。「倫理」というのは、人類の営みの蓄積の中から見出される普遍的な何かであるとすれば、私たちが歴史や古典を学ぶ意味というのは、過去から現在、そして未来を見通す縦の軸を自らの中に作り出すことなのだ考えます。
本教材の前の教材で「英知」の問題も扱ったのですが、大学で学問を修めた後、政治・経済・社会・文化のあらゆる面でリーダーとなる人々に求められる責任とは、その縦の軸の思考であり、その基盤となるものが歴史・古典に記し残されている「倫理」であり、「倫理」を見通して人類・世界全体の幸福を求める力である「英知」なのだと私は考えます。
だから、どの学問分野に進んでも、それがために歴史・古典を学ぶ必要があるのだと私は子どもたちに伝えていきたいと思います。
政治・経済はもちろんなのですが、個人的には、テレビ局やネット配信の企業に縦の軸の思考を十分に身に付けたリーダーが多く送り込まれ、良質な番組やアプリといったものを提供してほしいと願ってやみません。
岩井克人氏ご本人の著書ではありませんが、最新のドキュメンタリー番組(インタビュー)をまとめた本を紹介いたします。
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