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【『逃げ上手の若君』全力応援!】㊾「なぜなら我等は天下の北条だからな!」…異次元のイケオジぶりを発揮!? 北条泰家の「凄み」を古典『太平記』に見る

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2022年2月13日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 電車の中とかで今週の週刊少年ジャンプを読んでいなくてよかった。
 『逃げ上手の若君』第49話の、北条泰家が涙と鼻水と唾の垂れ流しで憐れみを乞う場面、見るだけで笑えて……。
 6ページ前の、吹雪の鬼気迫る「おなか…減った…」でも微妙に笑ってしまったのですが、泰家の「凄み」は異次元過ぎました(このカットで1ページまるまる使う松井先生のセンスにもやられましたけどね)。
 泰家が登場した当初より、南北朝界隈の友人から〝泰家、ミエミエすぎてヤバいんじゃないのか?〟という懸念の声は上がっていたのですが、泰家本人がまず余裕の想定内だったというオチ。

 「天下人の弟北条泰家は 初めて上京する田舎侍を装って京に潜入したという

 この解説にある泰家の様子を、古典『太平記』で確認してみたいと思います。

 故相模入道宗鑑そうかんの弟、四郎左近大夫さこんのだいぶ入道惠性ゑしょうは、元弘げんこう鎌倉合戦の時、新田義貞に一家皆滅ぼされしかども、この人独りのがれて、自害したる真似をして、ひそかに鎌倉を落ちて、しばらくは奥州に隠れ居しが、人に見知られじと還俗げんぞくして、京師けいしに上り、西園寺殿を頼み奉り、田舎侍の始めて召し仕はるる体にてぞ候ひける。
 ※相模入道宗鑑…時行の父である北条高時。
 ※四郎左近大夫入道惠性…北条泰家。
 ※入道…剃髪・染衣して(坊主頭と僧衣を着て)出家の相をなす者。
 ※元弘…年号(1331年9月11日~1334年3月5日)。
 ※還俗…一度、出家した者が、再び俗人にかえること。
 ※京師…首都。ここでは京のこと。

 引用の前半部分については、『逃げ上手の若君』第47話中でも、泰家本人が語っていました。

 作品中で何度か登場した北条高時(「病弱」だったという高時とエネルギッシュな泰家とはその点は似ていませんが、顔の形が似ていて、松井先生やっぱり芸が細かいです…)は、確かに出家した姿です。
 『太平記』によると、正中3(1326)年3月上旬に高時は病で重篤な状態となり、その際に、高時を傀儡にしていたというので有名な側近・長崎円喜えんきの考えで出家させられたとあります。
 その間「様々な事」、泰家も出家しています。執権職をめぐってのドロドロな政治権力争いがあったんですね(長崎氏がからんでいます…)。ここではその件について詳しく記しませんが、幕府のトップ2が出家したことによって、「両家の家僕・被官人ことごとく出家せしかば、十五已上いじょうの若入道鎌倉中に充満して」と『太平記』では語られています。
 この泰家の出家は、抗議と反発の意をもっての一種の示威行為であり、それに同調した人が多くいたというのが、「若入道鎌倉中に充満」の核心です。ーー鎌倉中が坊主だらけというビジュアルは笑いを誘いますが、その滑稽な描写の背後には、北条氏と泰家に忠誠を誓う者が多くいたことがわかるという、そうした意味を持つエピソードでしょう。

 そして、作品中の泰家のセリフに「西園寺公宗さいおんじきんむね」という具体的な名前が出てきますが、これについても『太平記』では説明があります。
 今、NHKの大河ドラマで『鎌倉殿の13人』がちょうど放映されていますが、その主人公・北条義時の代に話はさかのぼります。おそらく、ドラマの中でも「承久の乱」がその山場となるのでしょうが、この戦いに義時が勝利したのは、乱の当時に太政大臣であった西園寺公経きんつねが鎌倉幕府に内通したからだというのです。
 ※承久の乱…承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱。

 義時は「我が子孫は七代まで西園寺殿を頼り申し上げるようにと、言い残した」とかで、北条氏は「西園寺殿」に対して、幕府が滅亡した現在に至っても「他家とは違う思い」を抱いていました。西園寺家の方でも、北条氏の復活とともにまた一族に繁栄をと望んでいた(上記のようないきさつがあるため、幕府は西園寺家を何かと優遇していました)ので、両者の思惑も一致したわけです。
 泰家は「刑部正輔時興ぎょうぶのしょうときおき」と名前を変えて、西園寺公宗と「明暮あけくれはただ謀反むほんの計略をぞ廻らされける」のでした。ーーオッさん二人で濃密すぎだろって、この箇所を読むたびに苦笑します。
 そして、二人で練りに練った「謀反の計略」がビックリ仰天なのですが……ネタバレになってしまうので、今回はここまでにします。ヒントとして、この謀反を描く章段の古典『太平記』の題名が「西園寺温室の事」となっているということでとどめておきます。

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 「ひと時の哀れさで素性を隠す事などなんでもないぞ時行殿 なぜなら我等は天下の北条だからだ!

 これまでずっと泰家のコミカルなところばかり紹介してきましたが、私は泰家はすごく好きなタイプの男性です(笑)。泰家のこのセリフ、カッコよすぎる……。
 『逃げ上手の若君』でも、「北条泰家はこの時代屈指の寝業師である」と泰家を評していますが、戦いにおいては〝実〟を取ることが肝心であり、プライドとか体裁をとりつくろうことなど、それに比べたらまるで意味がないということですね。
 ※寝業師…尋常の手段によらず、人の虚をついたり、裏面から工作したりなどして、物事を巧みに取り運ぶ人。

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 〝戦いは最後に勝つことが最重要〟〝死んだらそこでおしまい、Never Give Up!〟ーー泰家に見られる「凄み」とは、おそらく、物事の本質をシンプルにえぐって行動してみせる姿勢だったのかもしれません。

 そして諏訪氏もまた、体裁よりも実を取る一族であると思います。諏訪氏が北条氏の有力な御内人となり、幕府滅亡後も厚くその忠誠を持ち続けた理由の一つはそこにあると私は推察しています。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕

 

 私が所属している「南北朝時代を楽しむ会」では、時行の生きた時代のことを、仲間と〝楽しく〟学ぶことができます!


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