【『逃げ上手の若君』全力応援!】(76) 当時の戦のリアルは知らないことだらけ…非戦闘員や「一揆(いっき)」や「首実検(くびじっけん)」といった語をめぐって
「正々堂々の一騎討ちだから 渋川にこれ以上怒りで強化される恐れがない」「敵の潜在能力を引き出させず こちらは全開」「海野殿はまさしくこの役に最適 頼重殿の配役の妙だ」
自分が求める武士の美学から逸脱する相手に対して怒りで自己強化する渋川義季と、かたや、女性と仲良くする妄想で自己強化する海野幸康との一騎討ち。
海野の強さの秘密を知ったら渋川はどう思うのだろうか……と思いつつ、海野の強さに時行はじめ諏訪軍の士気は高まる『逃げ上手の若君』第76話。
そんな中、決して楽観視をしない冷静な人物がいます。ーー諏訪頼重は、実際に戦っている海野幸康と同じタイミングで、義季の「若さゆえの強さ」を見抜きます。
洞察力もまた、諏訪氏の能力であるのはこれまでも触れてきましたが、戦場ですのでなおさら慎重なのだと思いました。そして、不安を感じた矢先に、斯波孫二郎の策にやられてしまいます。
そして、はっと気づきました。これは戦なんだ。卑怯か否かは実際のところ問題ではなく、勝つこと、そしてできうる限り、自軍の死傷者・損害を最小限におさえることしかない世界なのだと。
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今回、戦における非戦闘員を「北条軍の裏方」として紹介してあったのが興味深く思われました。
古典『太平記』を読んでいると、多くの「陣僧」(従軍僧)が登場します。井原今朝男氏の『史実 中世仏教 第3巻』には次のように記されています。
鎌倉後期には内乱や戦闘が多くなり、僧侶も戦場に従軍した。従軍僧は武士や兵士に平家語りや口承文学を噺して戦闘の恐怖心を取り除いたり、戦病者に十念を授けたり、戦死者を埋葬・供養するようにもなった。戦死者の遺品や手紙・辞世をを遺族に届けるのを専門とする僧侶集団が登場した。これが「陣僧」といわれる中世の従軍僧である。
※十念(じゅうねん)…南無阿弥陀仏の六字の名号を10回唱えること。
※辞世(じせい)…この世に別れを告げること。死ぬこと。また、死に際に残す偈頌(げじゅ/仏教の真理を詩の形で述べたもの)・詩歌など。
彼らは、武将たちが身を守る鎧・兜などの装着の手伝いはしてもよいけれども、弓矢・兵杖 などの「殺生の道具」には手を触れてはいけないというルールも定められていたそうです。だからこそ、武士たちも彼らは非戦闘員として攻撃を加えない原則だったのですね(このルールを破って水主(かこ/船をこぐ者)を攻撃して壇ノ浦を制したのが源義経です。『鎌倉殿の13人』でも、周囲が義経のその命令に戸惑っていました場面が思い出されます)。
それならば、真っ先に女を求めて諏訪の陣の奥へと乗り込んできた岩松は、いろいろな意味でアウト?ではないかと思うのですが……(栄さん、光さん、誉さんの美人巫女三人がいますし、まさかまだ子供の雫までと思うと……やめて!!)。
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また、「白旗一揆」や「首実検」という語も出てきました。
『日本国語大辞典』によると、「一揆」とは次のように記されていました。
参加者の一味同心を目的にして結ばれた集団。また、そのような集団をつくること。中世、同一の目的を有する武士や農民の集団。小領主たちの結合(白旗一揆・平一揆・上州一揆・武州一揆等)や、室町時代の幕府や守護大名に対する地侍・農民・信徒たちの結合(土一揆・馬借一揆・徳政一揆・法華一揆等)などがあった。
もともとは、「程度、種類、やり方などが同じであること。」を意味し、そこから「おのおのの心を一つにすること。行動を共にすること。一致団結。一味同心。」意味が生じて、今回使われている、今で言えば〝チーム〟とか〝グループ〟のような意味となったのですね。
「白旗一揆」についても『日本国語大辞典』に項目がありました。
南北朝・室町時代に組織された党的結合(一揆)の一つ。上野国(群馬県)・武蔵国(東京都、埼玉・神奈川両県の一部)の在地領主らで結成され、四条畷の合戦や上杉氏の小山討伐などに加わった。戦場で白旗を旗印にしたのでこの名がある。
「首実験」については、「討ち取った首がその者の首であるかどうかを確かめること。また、その儀式。」〔日本国語大辞典〕とあります。単に「実験」だけでも「首実験」のことを指すこともあるようですが、『太平記』には、新田義貞が自軍の戦傷者を確認している「手負ひの実検」という語もあります。「手負い」について詳細に記録して軍奉行に提出したという文書も読んだことがあります。いずれにせよ、戦における功績を認めてもらうためにあったのが「実検」というわけです。
さて、『逃げ上手の若君』では、塩原五助という人物が雫たちの所に敵将の首を持ってきた様子が描かれていますが、名乗らなかったために素性がわからないというので、その持ち物で推測をしていますね。
またまた話は新田義貞なのです。義貞は後に北陸の地で斯波高経(孫二郎のお父さんです!)の軍と戦うのですが、思いがけない形で敗死し、誰なのかわからないまま敵に首を取られてしまいました。
首を手にした斯波高経は、「あな不思議や、よに新田義貞の顔付に似た所のあるぞや。もしそれならば左の眉の上に、箭の疵あるべし」と言って、その首の髪の毛を櫛でもって掻き上げると、はたして、左眉の上に矢傷がありました。
続けて、高経はその首の持ち主が身に着けていた持ち物を検分します。そして、新田の当主が持つべき「鬼切」「鬼丸」の二本の太刀、義貞の武功を讃えた後醍醐天皇直筆の手紙から、その首が新田義貞の物であると確信するのです。
ーー高経は「不覚の泪」を流し、その死を悼みます。
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戦をしないで済むならしたくない、世の中から争いがなくなってほしい。ーー当時の人々だって現代人と同じように、そう願うのはと変わらないと思います。
長い長い月日を諏訪の地で過ごし、一族と領民の平和と繁栄を願ってきた諏訪氏のその思いは一段と強かったのではないでしょうか。
それでも立ち上がったというのは、時行を擁して戦う確固たる理由と強い動機や信念が、諏訪氏と諏訪神党にはあったのではないか。そして、それが一体何であるのか。ーー史実と創作の交錯するところに松井先生が描くそれらを待ち望む自分がいます。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、今井今朝男『史実 中世仏教 第3巻』(興山舎)を参照しています。〕