「あづま人は、わが方なれど」(2014年8月10日)
春に引っ越して当初は、西日本という違う文化圏に来たということをあまり感じることがありませんでした。あえて言えば、食パンの8枚切りが近所のスーパーに置いておらず、かわりに4枚切り、5枚切りが置いてあるのに度肝を抜かれました(6枚切りは東西ともに置いてあります)。
*写真で比較! 異文化コミュニケーション 関東 関西編
しかし、関東を離れて4ヶ月が過ぎようとした今、いわゆる東西の“気質”の違いというものも感じられるようになりました。
私は今まで自分がドライであるなどと思ったことがありませんでした。これまで勤めていた環境がゴリゴリの“男社会”だったことも影響しているのかもしれませんが、事実を伝えること以上の正直でまっとうなあり方あないと信じて疑いませんでした。問題が起きれば、聞き取りによる照合や証拠集めの結果わかったことを、ありのままにぶつけることが相手にとっても重要だというスタイルが貫かれてきました。
“事実をぶつけちゃいけないんですか?”と、地元の方でもかなりくだけてお話できた方に正直な気持ちをぶつけると、“いい。だけど嫌われる”とさらっと言われました。
関西人はおせっかいだとかはっきり物を言うだとか言われるけれども、裏や含みがある。この土地では、うじうじ内に隠して、陰で物言う――そうとも言われました。
それを聞いて、“なんて卑怯な! 言いたいことがあるなら私に直接言ってくれ!!”と思うのも、きっと東国気質なのですね。
そこで思い出したのが、『徒然草』の第百四十一段です。
京都の「悲田院の堯蓮上人」は、東国出身の「そうなき(=並ぶものもない)武者」でした。ある時に、「故郷の人」がやって来て、「あづま人こそ」という話題になります。
「あづま人こそ、いひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、実(まこと)なし。」
「東国の人は言ったことが信頼せられる。都の人は、早速承諾はしても誠実性がない」と、「故郷の人」は、堯連上人に話します。すると、堯連上人は次のようにこの知人をたしなめます。
「それはさこそおぼすらめども、おのれは都に久しく住みて、なれて見侍るに、人の心おとれりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情ある故に、人のいふほどのこと、けやけくいなびがたくて、萬えいひはなたず、心よわくことうけしつ。偽せむとは思はねど、ともしくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。」
「あなたはそうお思いになるでしょうが、私は都に長らく住んで、さて馴れてみると、特に都の人の心が劣っているとも思いませぬ。都人は一般に、心が温和で情が厚いために、人が頼んだりすることははっきりとは断りかねて、何でもずばりとはいえないで、心弱く承諾してしまう。偽ろうとは思わないが、貧乏で思うようにならない人ばかりだから、自然自分の思う通りにならないことも多いに相違ない。」
堯蓮上人は、「都の人」が「実なし」と見えてしまう原因を「心やはらかに情ある故」だと分析しているのです。さらに続けて、「あづま人」をこのように見ています。
「あづま人は、わが方なれど、げには心の色なく情おくれ、ひとへにすくよかなるものなれば、はじめよりいなといひてやみぬ。にぎはひ豊なれば、人には頼まるるぞかし」
「これに対して東国人は、私の生国ではあるが、実を言うと心にやさしさがなく、人情味が少く、むやみに朴直(=実直)だから始めからいやならいやといいきってしまう。一般に東国人は裕福だから、その点では人からも信頼せられるのだ」
東国人が信頼される理由は、「にぎはひ豊なれば」であると言うのです。つまり、お金を持っていて、それを周囲があてにしているだけだと分析しているのです。
本文における「健(すく)よか」こそ、現代関東人の「ドライ」に相当する語ではないでしょうか。心身ともに頑丈で、「きまじめでそっけないさま。無愛想だ。ぶこつだ。」(旺文社「全訳古語辞典」)という存在感そのもののような気がします。確かに、私は京都やらの友人からこれまでも「強い」とか「タフ」だとか言われてきましたが、それが何を意味しているのかよくわかりませんでした。
兼好は、「このひじり、声うちゆがみ、あらあらしくて、聖教(しゃうげう)のこまやかなることわり、いとわきまへずもやと思ひしに、この一言の後、心にくくなりて…」とコメントしています。
堯蓮上人のことを“関東訛りの荒っぽい奴に、仏教の機微なんかわかるもんかいな”くらいに思っていたのに、「心にくし(=奥ゆかしい)」という評価に変わったというのですね。“京都で役職に就くだけあるなあ”というわけです。
兼好のこのコメントは「故郷の人」が東国優位を語るように、兼好自身が西国優位を疑いもしていない発言のような気がしますが、皆さんはどう思われますか。
二十一世紀の今、どちらの文化もよき日本の気質として認めあえるといいなと私は思います。何より私自身、関東育ちの「健よか」さの良い面を否定したくはありません。「ひとへに(=ひたすらに。むやみに。)健よか」でなければいいわけです。
この年にして、古典に記されている内容について身をもって知ることができたのは、貴重な経験と言わざるをえません。
※引用(「 」内の本文および現代語訳は、今泉忠義訳注『改訂徒然草』(角川文庫)による。
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