【『逃げ上手の若君』全力応援!】(58)名和長年に結城親光ら「三木一草」とは…? そして、西園寺公宗と北条泰家の後醍醐天皇暗殺未遂事件を古典『太平記』に見る
時行が尊氏に屈辱的な敗北を喫していた頃、西園寺公宗と北条泰家の後醍醐天皇暗殺計画も諏訪頼重が予知したとおりの結果に終わろうとしていました。
「名和 千草 結城 楠木… どこの草木かもよう知れぬ成り上がり共 帝頼みのそなたらの栄華も長くは続かぬわ」
名和と結城は公宗を捕らえに来たので名前があがっても不思議はないと思いますが、作品には登場していない千草や、公宗とのからみがない楠木の名前をなぜ公宗が出しているのか……。
三木一草(さんぼくいっそう)
建武新政の樹立に尽くした功労によって後醍醐天皇に重用され、新政のもとで権勢をきわめた四人を合わせて呼んだ称。三木は結城(ゆうき)親光・名和伯耆(ほうき)守長年・楠木(くすのき)正成、一草は千種(ちくさ)忠顕をさす。『太平記』一七に女童部(おんなわらんべ)のいった言葉としてみえ、京都ではかなりはやったらしい。親光は御家人の庶流、長年・正成は商人的な地方豪族、忠顕は学問を家業とする中級貴族の出身で、新政による旧体制の崩壊がなければ栄達などとうてい望めなかった、成りあがり者ばかりである(四人とも確実な生年は不明)。側近として後醍醐天皇とのきずなは堅く、新政の創出した諸機関では常に重要なポストを占め、天皇の専制支配の手足となって活躍した。それゆえ彼らが新政の挫折と運命をともにしたのは必然で、建武三年(一三三六)の前半に相ついで戦死する。三木一草は建武新政を象徴する言葉として、今もひろく知られている。〔国史大辞典〕
端的に言って、後醍醐天皇のお気に入りというので、分不相応に重用された人たちのことなのですね。
ちなみに、「木」は「ゆうき」「ほうき」「くすのき」のそれぞれ「き」を、「草」は「ちくさ」の「くさ」を取って語呂合わせと植物の意味で統一した上で、「三木一草」という熟語に仕立てて音読しているようです。
名和長年と千種忠顕、そして楠木正成については、このシリーズでも過去に紹介している回がありますので、参考にしてください。
結城親光(ゆうきちかみつ)
南北朝時代の武将。通称九郎、左衛門尉・大夫判官。宗広の次男。親朝の弟。元弘の乱に幕府軍に従って西上したが、後醍醐天皇の隠岐脱出後まもなく討幕側に身を投じ、元弘三年(一三三三)四月二十七日、男山・山崎で三百余騎を率いて六波羅の軍勢と戦った。後醍醐天皇の信任を得て、建武元年(一三三四)恩賞方一番局寄人・雑訴決断所衆に補せられるなど厚い処遇をうけ、楠木正成・名和長年・千種忠顕とならぶ、いわゆる「三木一草」の一人として京都で羽振りをきかせた。親光は検非違使に任ぜられ、二条富小路内裏の近くに居住して、後醍醐天皇のいわば親衛隊長として、その身辺護衛にあたった。〔日本人名大辞典〕
名和長年は、隠岐を脱出してきた後醍醐天皇を船上山まで背負って一族で立てこもり、そこでの戦いが大きなきっかけとなって倒幕へとつながっています(兜の〝宝船〟の家紋も、海運業を営んでいたという長年に対して、後醍醐天皇が特別に与えたものだということです)。
『逃げ上手の若君』では、長年と親光を「後醍醐天皇の側近」としていますが、二人はまさに、後醍醐天皇のボディーガードの役割を果たしていたと言えるでしょう。
それに対して、やや冷酷な表情を見せる公宗はどうだったのでしょうか。
西園寺家(さいおんじけ)
藤原氏北家閑院流の公実の男通季を始祖とする堂上公家。家格は摂関家に次ぐ清華家。琵琶の家。公経(きんつね)が将軍源頼朝の姪(一条能保女)をめとって武家に心を寄せ,承久の乱をいち早く幕府に内報したことから幕府の信任を得て,一躍権勢を振るうに至り,乱後,家例を超えて従一位太政大臣に昇り,公武間のことを取り次ぐ関東申次(もうしつぎ)の職につき,また孫姞子を後嵯峨天皇の後宮に入れ,姞子の生んだ後深草・亀山両天皇の外戚となったことから,摂関家をしのぐ勢威を得るに至った。家名は,公経が北山第に建てた西園寺(現在の金閣の地)による。公経以後も代々関東申次の職を継承し,持明院・大覚寺両皇統に分裂後も,皇位継承のことを幕府に取り次ぐ家として,超然としていることができ,女子を両皇統の后妃とすることにより,外戚であることを保った。しかし公宗のときに鎌倉幕府が滅び,建武の新政となるや,若い公宗は退勢挽回のため謀反を謀ったが,弟公重の密告によって誅され,家は公重が継いだ。〔世界大百科事典の「日本大百科全書」項目より〕
説明の冒頭の部分を読んでいただければ、用語がよくわからなかったとしても、「藤原氏」「家格は摂関家に次ぐ」といったあたりで、〝トップ・オブ・貴族〟、現代日本の感覚だとまさに〝セレブ〟だというイメージが湧くのではないかと思います。
古典『太平記』では、後醍醐天皇が夢を見たり、出かける間際に不思議な出来事が起こったりして、西園寺家の新築のお風呂に入るのは中止すべきではないかと迷っていたところに、公宗の弟の公重が駆け込んできました(足利尊氏に負けず劣らずのラッキー&スピリチュアル体質な後醍醐天皇です(笑))。
名和長利と結城親光は三千騎で邸を取り囲んだので、暗殺計画など知る由もない使用人たちはパニック状態に陥りました(「時興」と名前を変えて邸にいた泰家もですね…)。しかし、公宗だけは「のどやかに御座しける」とあります。
※のどやか…落ち着いているさま。平気であるさま。
大納言殿は早この間の隠謀露れにけりと思ひ給ひしかば、中々騒ぎたる気色もなし。
※大納言殿…西園寺公宗。
※中々…かえって。むしろ。
※気色…様子。ありさま。態度。そぶり。
古典『太平記』では、公宗が謀反を決心したであろう時期に、北野天満宮に七日間参籠して琵琶の秘曲を毎晩演奏し、満願の七日目には禁じ手と言われる手を弾じたことが語られています。
「我が野望を手伝ってくれて感謝します泰家殿 貴方は貴方の野蛮な武士の戦を続けて下さい」
さっきまで「アゴつかみづらい」という文字を額に浮かべて、ともに逃走することを必死で説いていた泰家もその一言で居住まいを正しています。ーー「名門西園寺」の誇りと、それを最期まで貫く覚悟に対し、泰家は「敬意」を表したのです。
かの余類、東国・北国に逃げ下つて、なほ素懐を達せんことを謀る。
※かの余類…例の北条の残党。泰家のこと。
※素懐…以前からの望み。かねてからの願い。
これが、西園寺卿への泰家の答えです。懲りずに、行きと同じ方法で関所を通過してもいます(「クビになってしまったんですぅ」に、私も懲りずに爆笑…)。
そして、古典『太平記』の次の章の題名は「相模次郎謀反の事」です。「相模次郎」とは、時行のことです。
「時は満ちました 天下を取り戻す戦を始めましょう」ーー時行の手を取る諏訪頼重は静かに伝えます。
いよいよ、時行が鎌倉を目指しての「中先代の乱」に突入です。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕