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【『逃げ上手の若君』全力応援!】㉙古典『太平記』に見る〝即興(アドリブ)のチーム〟でここまでやるのか!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。  鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……? 〔以下の本文は、2021年9月5日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 第26、27、28話と登場した門番さんがどうなったかが気になる私なのですが、空腹で動けない吹雪にの口の中に孤次郎が突っ込んだ〝和田米丸饅頭〟も気になって仕方のない『逃げ上手の若君』第29話です。特製饅頭は雫や亜也子が作ってくれたのでしょうか。

 なお、米丸の率いる「国衙近衛《こくがこのえ》」のことを雫は「国司の私兵」と説明しています。
 「国衙」とは国司の役所のことを言い、「近衛」とはもともと中国で天子を警護する将兵のこと、日本では皇居の警護の人にあたった武官のことを言うようですが、ここでは麻呂(まろ)個人の親衛隊といったイメージでこの名称を用いているみたいですね。

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 さて、今回は孤次郎と、彼が協力を求めた「面倒臭《めんどくせ》え」保科党のおっさんたちの活躍が見どころの一つでした。

 この時代の軍は小さな武士団の集合体であり統率が緩い 一方で他家同士が即興《アドリブ》でチークを組むことがあり しばしそれが戦局を打開した

 これで思い出したのが、古典『太平記』の笠置城《かさぎじょう》の陥落の場面でした。
 討幕を企てる後醍醐天皇を遠国配流に処そうという鎌倉幕府の追跡を逃れ、御所から笠置山に入った後醍醐天皇は楠木正成と出会います。心強い後ろ盾を得た天皇のもとには味方の兵も次々と集まります。さらに、地形的に攻めづらく守りの堅い笠置城は、幕府の大軍をもってしてもなかなか落ちませんでした。そこで、鎌倉の北条高時は二十万以上の兵力を送り込むことを決めます。
 
 大量の援軍が送られることを知り、笠置城を攻めている武士の中にもある決心をした人たちがいました。ーー備中国の住人、陶山次郎義高《すやまじろうよしたか》と小見山次郎氏真《こみやまじろううじざね》です。
 二人は一族郎党を集めて言い放ちます。
 
 いかにいはんや、日本国の武士どもが集まつて数月攻むれども落し得ぬこの城を、我等が勢《せい》ばかりにて攻め落したらんは、名は古今の間に双《なら》びなく、忠は万人の上に立つべし。

 ーー二十万もの大軍が来て勝敗が決する前に、俺たちだけで命がけでこの城を落としてみせようでないか!

 風雨激しき闇夜、一族と若武者五十人は曼荼羅を描いた死装束に身を包み出発します。一丈ほどの縄に結び目を一尺おきに作り、さらにその先端に熊手を結び付けた道具を、行く手を阻む岩や木の枝に引っ掛けながら、険峻な城の北側を二時《ふたとき》かけてよじ登っていきました。
 ※一丈・一尺…一丈は約三.〇三メートル。一尺は一丈の十分の一。
 ※二時…約四時間。

 巡回中の味方の兵になりすまして城に入り込んだ彼らは、火を放って鬨《とき》の声を挙げます。ーーこうして、わずか五十人の陶山と小宮山の〝即興(アドリブ)のチーム〟の決死の覚悟が戦局を打開したのです。

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 陶山も小見山も、六波羅探題から招集された備中国の御家人です。
 ※六波羅探題(ろくはらたんだい)…承久の乱後に鎌倉幕府が朝廷の監視および尾張・加賀以西の諸国の政務・裁判を総轄した。
 ※御家人(ごけにん)…鎌倉時代、将軍と主従関係を結んだ武士。

 陶山氏は小田郡陶山、小見山氏は後月《しつき》郡の武士です。現代では、岡山県の隣同士の市に相当する笠岡市と井原市(高谷)を拠点としていたというので、まさに『逃げ上手の若君』における、川中島で「隣領」同士だという諏訪神党の保科と四宮、そして諏訪大社所属の孤次郎の関係に似ていますね。
 
 (なお、ここで活躍した陶山氏と小見山氏はこの後どうなったかというと、後醍醐天皇の隠岐脱出と足利高氏の裏切りによって劣勢となった鎌倉幕府と運命を共にします。ーー北条仲時が率いた六波羅探題の一行とともに、近江の番場《ばんば》蓮華寺で、自害を遂げています。)

 諏訪神党も、いわゆる諏訪本家に対して庶家といった血のつながりのある一族もあれば、諏訪氏と婚姻関係を結んで親族になった一族、信濃の武士であるからという一族もいたりと、いろいろなケースがあったようですが、何かのつながりで結びついて、一緒に難局を乗り切ろうというという発想は今でもあることだと思います。
 最初はただなんらかのきっかけに過ぎなかったとしても(諏訪神党を名乗るのに資格や条件はいらなかったということです)、戦いをともにする中で、お互いの関係はより強固になったことでしょう。

 弧次郎と保科党のおっさんたち、時行と保科弥三郎や四宮左衛門太郎との絆がこれからどのように強まっていくのか……とても楽しみです。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕


 私が所属している「南北朝時代を楽しむ会」では、時行の生きた時代のことを、仲間と〝楽しく〟学ぶことができます!


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