急進右翼と日本の右傾化(2013)
急進右翼と日本の右傾化
Saven Satow
Jul. 09, 2013
「民主主義をめざして日々の努力の中に、はじめて民主主義は見出される」。
丸山眞男
戦後日本は移民・難民の入国を厳しく制限している。そうした背景もあって、欧州で見られるあからさまな外国人排斥を叫ぶ政治行動は起きないとされている。けれども、近年、国内外で懸念される右傾化には、そのような通説を覆す特徴がうかがえる。中韓の成長が著しいが、それは日本が不公正な立場に貶められているせいだといったメッセージがヘイト・スピーチから読み取れる。
右傾化には日本固有の事情もあるだろう。しかし、欧州の急進右翼と共通する傾向もある。ここでは急進右翼の特徴を検討して、今日の右傾化の一つの側面を明らかにしてみよう。
冷戦終結に伴い、西欧に移民や難民が押し寄せ、彼らをめぐる問題が政治争点化する。外国人排斥を主張する政治勢力が台頭し、既存の右翼政党が活発化するのみならず、新たに結党する動きも現われる。それらは代議制を認めない政治結社ではなく、選挙に参加して既存の政党システムに食いこむ。イタリアの北部同盟やオーストリアの自由党が選挙で躍進したのを皮切りに、各国で急進右翼政党が政界進出を果たしている。
急進右翼政党のイデオロギーには大きく四つの特徴がある。
第一がナショナリズムである。彼らは文化的に同質な「国民」の集団が政治的単位として国家が構成されるべきだと考える。これは19世紀以来の歴史的ナショナリズムの延長線上にある。
第二が排外主義である。偏狭なナショナリズムのコロラリーとして外国人を敵視・憎悪する。内部の同質性を強調すれば、外部との差異が固定化され、両者は断絶していると見なせる。それは外部を攻撃する反動によって内部を規定する倒錯である。
第三が権威主義である。70年代にフェミニズムやエコロジーといった新しい社会運動が生まれたが、それらは権威への不信が認められる。一方、急進右翼は権威を強く信頼し、法と秩序を過剰なまでに重んじる。権利より義務を優先させるのがその一つの現われである。権利はオプションであり、行使するかどうかは個人の裁量に属している。それに対し、義務は果たさなければならない責務である。個人に裁量はない。ここからのコロラリーとして急進右翼は権威による法規制の強化と厳罰化を何かと主張する。
第四がいわゆるポピュリズムである。急進右翼は既成政治を二項対立として捉える。人民から離れたエリートやエスタブリッシュメントの「特殊意志」によって動いているのが従前の政治である。人民の「一般意志」の実現を図らねばならない。
このうち、中核となるのが排外主義である。「急進右翼(Radical Right)」という概念が用いられるのは、戦間期のファシズムのようにあからさまに議会制民主主義を否定した極右と区別するためである。しかし、排外主義は現代民主主義における重要な原理である多元主義や少数者の尊重を否定する。その意味において移民排斥を掲げる右翼政党は急進主義である。
保守主義は自由民主主義の枠内で主張を行ったり、統治を目指したりする。急進右翼は選挙に参加しても、その原則を認めるつもりがない。民主的手続きは自らのイデオロギーを実行するための正当性獲得の手段でしかない。現代民主主義の原則を順守してこそ、選挙は有意義な統治選択の機会となり得る。それを拒否する急進右翼の伸長は建設的施策につながらない。保守主義と右翼の違いはここにある。
急進右翼のイデオロギーはステロタイプの認識に基づいている。「国民」や「外国人」は言うに及ばない。法に関しても同様の傾向が見られる。法は一般的・抽象的規範であり、個別的・具体的事例に適用するために、解釈を必要とする。行政・司法の統治行為は多様性を考慮しなければならない。犯罪にしても、原因は多種多様であり、厳罰による規範意識の覚醒を通じた治安回復には限界がある。応報感情を一時的に満足させるだけであって、犯罪の予防・減少に必ずしも効果的ではない。急進右翼にはこうしたルールの適用のルールを認知していない。
ステロタイプであるがゆえに、急進右翼の主張は民衆に受容されやすい。こうした政党の支持者層は男性や労働者、宗教的帰属意識を持たない人などである。その時々の課題に対して過激で無責任な言動を展開し、既成政党への抗議票を集める。
社会不安が生じると、急進右翼は客観的根拠なく、それを外国人と主観的に結びつけて非難する。外国人は自分たちから職や利益を収奪しているとか、治安を悪化させているとかと叫んで排除しようとする。その際、ナショナリズムや権威主義、いわゆるポピュリズムも用いられる。見解はステロタイプであり、人々は熟慮しなくても、直観的に理解できる。
社会不安だけが急進右翼清朝の理由ではない。既成政党が社会を必ずしも代表していなかったり、議会勢力が似通ったりしているなどの条件も必要である。大連立が繰り返されたオーストリアがこの好例である。
急進右翼の言動は場当たり的であり、矛盾に満ちている。強い個性を持つ党首によるセンセーショナルで挑発的な発言が既成政治への批判として世間の耳目を集めているのが実情である。この政党はよく組織された団体と言うよりも、党首が主催するサークルというのが実態だ。党首が死亡したために解散したり、リーダーによる強引かつ恣意的な党運営をめぐる内部対立が起きたりする。
社会不安がある限り、急進右翼が勢力を伸ばす余地はある。けれども、急進右翼政党は社会の空気に依存している。有力な議会政党として安定的な勢力を維持する可能性は低い。
翻って日本を見てみると、長期不況やグローバル化などによる社会不安と政党政治への不信を背景に、21世紀を迎えた頃から急進右翼的言動の政治家が注目を浴びる。苦境にあえぐ日本の周辺国は国際的な存在感を増している。そんな最近、新設のみならず、既成政党にも同様の主張や精神性が認められる。欧州では既存政党が批判されながらも、あくまで代議政治の理念を尊重して振る舞っている。日本の現状は、残念ながら、そうではない。現代民主主義の原則に反した公人が活動しているようでは、コロラリーとして世間の右傾化は促進される。
さらに、右傾化に否定的な勢力もそれが育つ土壌に浸食されている。いわゆるポピュリズム的傾向に関しては、自称リベラルにも見られる。
東浩紀はジャン=ジャック・ルソーを援用し、インターネットを利用した「一般意志」の実現とその遵守を唱え、日本国憲法を「護るもの」でしかなかったと「リベラル派」による改憲草案を提示している。先に述べた通り、この二項対立の発想は典型的ないわゆるポピュリズムである。いわゆるポピュリズムを批判するマスメディアは彼をあたかも時代の寵児として取り上げている。どちらにもその認知がいわゆるポピュリズムだと自覚されていない。いわゆるポピュリズムはそれだけ世間に浸透してしまったとも言える。右傾化が伸長する土壌はこういったところにもある。
明治期、欧州に範をとって日本の議会制民主主義は始まっている。試行錯誤と紆余曲折を経ながら、1世紀以上の歴史がある。しかし、依然として欧州の経験に学ぶ必要もある。
〈了〉
参照文献
小室直樹、『痛快!憲法学』、集英社インターナショナル、2001年
平島健司他、『改訂新版ヨーロッパ政治史』、放送大学教育振興会、2010年