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パンデミック下のリヴァイアサンの復活(2020)

パンデミック下のリヴァイアサンの復活
Saven Satow
Mar. 24, 2020

「私たちの団結、理性、お互いを思いやる心が試されているのです」。
アンゲラ・メルケル

 新型コロナウィルスのパンデミックが深刻化するにつれ、世界の中央・地方政府が保証してきた近代的な自由の権利の制限措置を打ち出している。中には、市民に守らせるために、警察・軍隊を動員したり、罰則を課したりしている。それは「リヴァイアサン(Leviathan)」の復活である。

 近代の政治・経済社会は主にジョン・ロックの社会契約説を基盤にしている。その際、トマス・ホッブズのそれは前提に位置づけられる。ところが、社会的に生命の危機が拡散するパンデミックはその前提であったホッブズの社会契約説を顕在化させる。移動や集会の自由の制約や経済活動の停滞はそうした例である。

 だが、パンデミックがリヴァイアサンを復活させることは思想史にはそぐわない。ホッブズが自身の社会契約説を主張したのは宗教戦争の経験が影響している。ペスト禍ではない。それは政治の目的に起因する。

 前近代は共同体が個人に先行しているとする共同体主義の社会である。共同体の規範が個人に内面化されている。前近代において政治の目的はよく生きること、すなわち徳の実践である。疫病がこれを覆すことはない。疫病を神罰とするからだ。もちろん、実際には規範に即して生きているか否かは感染症による生死を左右しない。一方、宗教戦争は自身の道徳の正しさを根拠に殺し合いを行っている。信仰心が戦争の根拠である。そのため、ホッブズは政治の目的を徳の実践から平和の実現に変更する。平和でなければ、よく生きることもできないからだ。平和の実現のために、人々は自由の権利の一部をリヴァイアサンに信託する。

 ホッブズの議論は近代の基本的原理を提供している。平和の実現のために、彼は政治と宗教を分離する。政治は公、道徳は私の領域に属し、相互干渉は許されない。個人には内面の自由が認められているのだから、それは共同体に先立つ。ここから政教分離=公私分離や個人主義など近代の基本的原理が導かれる。ロックはこれを敷衍して自らの社会契約説を展開、近代の政治・経済社会がそれに基づいて発展していく。

 リヴァイアサンが復活しても、それはロック以前への回帰ではない。このリヴァイアサンはあくまでロックを踏まえている。彼によれば、政府は社会のためにある。社会は依然としてあるのであり、リヴァイアサンはその防衛のために、個人の権利の制約を信託される。しかし、政府に信頼がなければ、人々がそうすることはない。パンデミックは個人の自由な活動が事態を悪化させ、生命の危険も増す。そのため、個人は自由の権利の制約を政府に委ねざるを得ない。だが、政府は信託された権力を社会ではなく、自身のために行使する危険性がある。パンデミックさえも政府は保身の口実にしかねない。だから、情報の公開性や意思決定の透明性が不可欠である。「私たちの下した政治的決定は透明性を持ち詳しく説明されなければなりません」(アンゲラ・メルケル)。

 ところで、パンデミックにおいては誰もが感染者になる可能性がある。マルサス・モデル流の拡大を見せる。しかし、経済ではそれがさらに進み、感染者と非感染者の区別なく、影響を及ぼす。経済は相互依存している。アダム・スミスは市場メカニズムを「神の見えざる手(The Invisible Hand of God)」と言い表している。利己的な行動が利他的な効用をもたらすことがある。逆に、利他的な行動が期待に反する結果を招くこともある。アダム・スミスが指摘した「神の見えざる手」は個人的合理性と社会的合理性が必ずしも一致しないということを意味する。個人がよいことをすれば、社会がよくなるというわけではない。これは「合成の誤謬(Fallacy of Composition)」と呼ばれ、相互性への想像力を欠いた認識である。選択の相互影響があるからだ。個人の総体が社会全体ではない。経済がグローバル化すれば、想像力にも地球規模が要求される。だから、感染者と非感染者の区別が経済においてはない。

 リヴァイアサンは相互性を断ち切るので、経済的停滞を悪化させる。しかし、パンデミックによる長期的な損失がリヴァイアサンの短期的なものよりも大きいと推定される。そうした合理的計算の下に、社会はリヴァイアサンの復活を時限的に容認する。その際、不安な気持ちをわかって欲しいという人々の声に耳を傾けることも不可欠だ。コミュニケーションも相互性だからである。その相互性を断ち切ることはリヴァイアサンの自己目的化につながる。

 新型コロナウィルスがパンデミックになった一因は、それを世界が自分の問題と考えなかったからだ。中国の武漢で新型肺炎が流行し始めた時、世界の多くの当局も人々もローカルな出来事と見なしていたにすぎない。しかし、その疾病が地球規模に拡大しなかったとしても、相互性があるのだから、他人事と思うのは不適切である。想像力のグローバル化は信頼のそれを意識することを促す。無関心はその信頼が崩れていることを物語る。そう思っているうちに、コヴィット19はグローバルな問題に拡大する。かくしてリヴァイアサンが復活せざるを得なくなる。事態を乗り切るのに最も必要なのは相互信頼である。だから、嘘つきの指導者の下、公文書を偽造、情報を隠蔽、恣意的な法の運用をする政府は論外だ。
〈了〉

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