アサイラム(2018)
アサイラム
Saven Satow
Feb. 16, 2018
「映画会社は、夢の工場と呼ばれていたんだ」。
黒澤明
毎年3月のアカデミー賞授賞式が近づくと、CATVは過去の受賞作など関連映画を放映します。ところが、ムービープラスは、そうした作品の他に、2017年11月から「アサイラム・アワー」という特集を続けています。同社の映画は日本で比較的人気がありますが、アカデミー賞とおよそ縁がありません。アカデミー賞関連の大作・名作の並ぶ中で異様な雰囲気を醸し出しています。
「アサイラム(The Asylum)」はアメリカの映画製作スタジオ兼映画配給会社です。1997年に映画プロデューサーのデヴィッド・マイケル・ラットやデヴィッド・リマゥイー、シェリー・ストレインによって設立されています。
なお、「アサイラム」は、むしろ、日本ではフランス語の「アジール(Asile)」の方がなじみであるかもしれません。「聖域」や「自由領域」、「避難所」という意味があります。
同社の作品は、はっきり言って、B級映画です。低予算・短期間撮影の作品を月1本というペースで世に送り出しています。ただ、それは劇場公開を前提としていません。日本流に言うと、Vシネマです。多くはメジャー映画の便乗・模倣です。こうしたモックバスターに加え、エロ・グロ・ナンセンスの表現・演出という特徴があります。
いくつか例を挙げましょう。2011年の『 バトル・オブ・ロサンゼルス (Battle of Los Angeles)』は『世界侵略: ロサンゼルス決戦(Battle: Los Angeles)』から拝借しています。”:”を”of”に取り換えています。また、2012年の『リンカーンvsゾンビ (Abraham Lincoln vs. Zombies)』は『リンカーン/秘密の書(Abraham Lincoln: Vampire Hunter)』の便乗です。さらに、2013年の『バトル・オブ・アトランティス(Atlantic Rim)』は、『パシフィック・リム (Pacific Rim)』のもじりです。「太平洋」を「大西洋」に変えています。2016年の『PLANET OF THE SHARKS 鮫の惑星』に至っては、原題も説明も不要でしょう。アサイラムはこんな調子です。
お客に映画を見てもらうためには、まず気を惹かなければなりません。それにはすでに名の知られた作品に便乗することが手っ取り早いやり方です。また、既成の作品のパロディであれば、短期間に作成できますから、量産も可能です。こうした手法は近代以前の芸能にはよく見られます。クリーム・スキミング、すなわちおいしいとこどりも珍しくありません。当時は消耗品であって、芸術とは思われていません。アサイラムは映画を愛していて、夢を続けるためには手段を選ばないというところでしょう。
同社の作品に対する米国の一般的な評価は、当然、芳しくありません。むしろ、バッタもんや剽窃など酷評が正確です。ただ、日本におけるサイラム作品の受容は少々不健康です。ダメな作品だから面白いというロマン主義的アイロニーが伺われるからです。
確かに、巨額の製作費・宣伝費を投じた話題作や評論家好みの先鋭的な問題作だけが映画ではありません。実際、低予算・短期間撮影作品であっても、莫大な興行収益を上げたり、映画史に残る名作になったりする者も少なくありません。『ジョーズ』が好例でしょう。今でも低予算・短期間撮影でありながら、高品質の作品が製作されているのです。
また、粗悪なB級映画から名監督やスターが羽ばたくこともあります。代表例はクリント・イーストウッドです。彼は黒澤明監督の名作『用心棒』をパクったマカロニ・ウェスタン『荒野の用心棒』に主演、これを足掛かりに偉大な映画人へと育っていきます。
ところで、『荒野の用心棒』は『用心棒』にあるカットを真似たところは非常に構図がいいのですが、ないものはそれが甘くなっています。これは予算や撮影期間の制約のせいではありません。黒澤明監督の方法の持つ効果や意味を理解した上で使っていないからです。
実は、粗悪なB級映画の重要な意義が他にもあります。それは映画の豊かさを保障するということです。文化が発展・継承されていくには、すそ野の広さが必要です。映画は娯楽性・芸術性・社会性を持った幅広い大衆文化です。名作や傑作だけでは草の根が弱いために、それが難しくなります。
映画を離れて別の例を示しましょう。能や狂言、茶の湯、生け花といった日本の伝統芸能の多くは室町以降に誕生しています。それ以前に生まれたものは、和歌などを除けば、庶民への広がりがなく、伝承が極めて限定的です。伝統芸能と言うよりも、蹴鞠がそうであるように、文化遺産と見なす方がふさわしいでしょう。
古代や中世において社会は上中下の三つの階層によって構成されています。上は公家や朝廷、中は武家や幕府、下は町や在地です。
室町以前はこの三階層の相互交流が乏しく、それぞれ比較的自立しています。鎌倉時代、武家は統治権力を握りましたが、文化的覇権は依然として公家の下にあります。その貴族は武士や庶民を見下しています。また、武士は、貴族と違い、全般的に教養がなく、庶民を搾取の対象としか見ていません。
一方、室町時代に入ると、階層をめぐる状況が変化します。三つの階層が相互に交流しています。文化現象が特定の階層にとどまらず、全体に浸透します。なるほど、蓄積された教養がありますから、品や洗練という点では上に下は遠く及びません。けれども、数の多い庶民が草の根となり、それを社会に定着させ、世代を超えて継承させていきます。今日の伝統芸能はこうした共時的・通時的共有に基づいています。
映画にも同様のことが言えます。これまで見たこともないような斬新な作品だけでは映画の土壌は痩せてしまいます。どこかで見たことがあるような類型的な作品が大量にあって、それは豊かになります。両者が分離せず、相互に交流して映画が全体として発展・存続していくのです。
その生きられた好例がクエンティン・タランティーノやロバート・ロドリゲス、ティム・バートンらです。彼らはB級映画を愛し、その方法論を自覚的に用いてA級作品を撮っています。すぐれた作品とくだらない作品が融合しているのです。彼らは映画の豊かさを体現しています。
映画は幅広い大衆文化です。アサイラムは映画の豊かさを示す一つとして等身大で評価するべきでしょう。あれも映画なら、これも映画で、それも映画、どれも映画なのです。
〈了〉
参照文献
ムービープラス、『アサイラム・アワー』
http://www.movieplus.jp/feature/asylum/