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傷ついた果実たち─寺山修司の抒情詩(4)(2002)

4 寺山修司とその時代
 誰でも特定の時代・社会に生きる以上、その背景に限定される。寺山修司も例外ではない。しかし、寺山修司の不運はあまりにそこに限定されすぎている点である。一九六九年、寺山修司と天井桟敷の若者たちが記録した家出をめぐるドキュメンタリー『ドキュメンタリー家出』を刊行している。一九六〇年代末、寺山修司は「家を出よ!」というアジテーションを発している。これは当時の社会でセンセーショナルな話題となったが、彼は「家出の実践は、政治的な解放のリミットを超えたところでの、自立と自我の最初の里程標をしるすことになるだろう」と言っている。家出が目的なのではなく、家出を通じて、社会や家族、自我を解体し、新たな価値を創造することを提唱している。

 時代も社会も、寺山修司の影響力があった頃とは、大きく変わっている。ストーカーも、今では、ソートン・ワイルダー(Thornton Niven Wilder)の演劇『恋わずらいのなおし方(Love and How to Cure It)』(一九三一)に描かれるような分別さを失い、法的規制対象である。こういった優れた作品でさえ上演するのも難しくなっている。

 二〇〇一年くらいから、マスメディアで「プチ家出」という言葉が使われるようになっている。それは、ティーンエージャーが友人の間を四、五日から一〇日間前後の短期間、泊まり歩くことを指している。その当初はそう呼ばれていなかったが、高校では、一九九三年頃から、中学では、一九九九年頃からこうした行動が見られている。「援助交際」なる言葉が巷に広まった時代において、寺山修司の名を知っていることさえ怪しい彼らが家出のアジテーションに共感して、プチ家出をしているわけではない。

 一九九〇年代、プリクラが流行したように、小さな自己表現が主流となっている。大きな流行に抗うことはそれに飲まれることと同じであり、むしろ、密やかな自己表現の方がいい。同様に、彼らはプチ家出を簡単にできて、さほどの危険性がないと思い、アクセサリーのような自己表現として、行っている。寺山修司の主張する大いなる決意を持って家出をしていない。寺山修司の唱える「家出」は、現在から見れば、大きい。

 さらに、この傾向は日本にとどまらない。二〇〇四年、子どもの人身売買や児童ポルノ問題に取り組む国際的NGOのエクパット(ECPAT)は九〇年代半ば頃から日本で深刻化した「Enjo Kosai現象」が韓国や中国、フィリピン、シンガポール、タイにも広がっていると報告している。こうした子どもたちは「中流家庭の属し、外見上は社会的にも金銭的にも問題が見られない」けれども、「親などの過保護で息苦しかったり、逆に家族とのコミュニケーションが欠けていたりして、孤独感を抱えている子供が多い」。この報告に比べると、ポイントが外れている宮台真司の分析を日本のメディアが受容してきたのは、無駄の見本だと言わねばなるまい。

 また、寺山修司は、『戦後詩 ユリシーズの不在』は、アレン・ギンズバーグの『咆哮』から青島幸男の『これが男の生きる道』まで広い領域に及ぶ多くの詩について批評している。「戦後詩の(戦前との対比におけるというような)歴史的な意味づけではなくて、同時代の詩人たちへの『話しかけ』」である。戦後詩の序列を目的としていないので、その選択は恣意的であり、寺山修司の「批評(クリティーク)もまたたやすく受容れられないものと思われる」。ユリシーズは不在だが、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームのような詩人は数多く登場する。寺山修司は、無数の戦後詩を読み、「詩人たちはみな『偉大な小人物』として君臨しており、ユリシーズのような魂の探検家ではなかった。詩のなかに持ちこまれる状況はつねに『人間を歪めている外的世界』ではあっても、創造者の内なるものではないのだった」と感じている。

 「偉大な小人物」の一人である青島幸男は、一九九五年、東京都知事に当選している。七〇年代と違い、現代は「小人物」の時代が定着している。「この本の続きの仕事を、私は私自身の詩の実作によってはたすつもりである。まだ何ひとつとして終わったわけではない」。しかし、彼は、一九八三年、あまりに早すぎる死を迎えてしまう。

 一方で、寺山修司は時代の流れについて的確に把握してもいる。「書を捨てよ、町へ出よう」というテーゼは、かつてパラドキシカルなアジテーションと見なされていたが、寺山修司にとって、最もふさわしいメディアはインターネットである。一九六八年のアメリカ訪問記『アメリカ地獄めぐり』を「もっと、小新聞を。パルチザン・レビュー状況を」と寺山修司は閉じているが、UCLAの報告書”Surveying the Digital Future”によると、今日、全米では新聞やテレビ、ラジオ以上にインターネットが重要な情報源として認識されている。「パルチザン・レビュー状況」は当然の状況になっている。

 さらに、一九六六年、寺山修司は唯一の長編小説『あゝ、荒野』を刊行している。家出してボクサーになった通称「バリカン」は、ジムの窓から夜の新宿に輝くネオンの荒野に目を向けて、「西口会館のSUNTORYのネオンのYの字だけが後れて点くのは何故か?」という疑問にとらわれる。このバリカンの他に、彼のライバル新宿新次や好色な曽根芳子、自殺研究者の川崎敬三、裏町の実業家宮木太一らが新宿歌舞伎町を中心に繰り広げる物語である。それは伊東四朗が歌う『西口物語』を思い起こさせる。

 寺山修司は、「あとがき」の中で、「この小説を私はモダン・ジャズの手法によって書いてみようと思っていた。幾人かの登場人物をコンポ編成の楽器と同じように扱い、大雑把なストーリーをコード・ネームとして決めておいて、あとは全くの即興描写で埋めてゆくというやり方である。したがって、実に行き当たりばったりであって、構成とかコンストラクションとはまるでほど遠いものとなった」と言っている。この小説は、日本で、最初のポストモダニズム小説であり、寺山修司の先見性を多く発見することができる。

 寺山修司の「即興描写」は意味ではなく、俳句や短歌同様、リズムを優先させていることを表わしている。即興的アプローチ、いわゆるインプロヴィゼーションは、インスピレーションと同様、短いアドリブであって、創造行為における一つの神話にすぎない。それは、よく聞くと、ある傾向を類型化・変奏化しているだけだ。Wie aus der Ferne. 即興演奏は完全に無の状態から演奏するのではなく、演奏を効果的に行うための決まりに従うことが多い。ミュージシャンは演奏中の音楽様式の規則を理解していなければならない。

 コード進行やリズム・パターン、メロディ・モチーフなどがミュージシャンにとって了解事項である。それらを結合・変化させながら、完結させることなく、新しい即興演奏の出発点になる。これは二つに大別される。まず、楽曲全体を即興的に演奏するもので、与えられた主題や形式に基づいて曲が構築される。前奏曲や幻想曲、変奏曲、フーガなどがこれに含まれる。第二は、既存の楽曲に即興的に装飾を加えたり、声部を加えたり、挿入句を加えたりするものである。協奏曲のカデンツァやジャズのインプロヴィゼーションもこの一種である。

 また、ある音楽文化では、即興演奏に特定の秩序が設けられていることがある。インド音楽のラーガやアラブ音楽のマカームには、典型的な旋律型、終止形、中心音が定められており、即興演奏が習慣的な方法に沿って展開される。他にも、アフリカのドラマーは複雑なリズムやアンサンブルの伝統にのっとって即興演奏する。けれども、即興演奏自体が権威化してしまうこともある。

 一九五〇年代半ば、コード進行を基本にして即興演奏を展開していくビー・バップの方法論が行きづまりを見せ、セロニアス・モンクが発見され、さらに、ジョン・コルトレーンが「シーツ・オブ・サウンド(Sheets of Sound)」の奏法を考案している。寺山修司にとって、インプロヴィゼーションは音楽に対する音の優位を指している。彼の方法は、とすすれば、「シーツ・オブ・ワーズ(Sheets of Words)」と理解すべきだろう。

 「国民」という抽象的な存在のための言文一致化された後の「共通語」と呼ばれる日本語に対して。方言は具体的なイメージを抱きやすい。寺山修司はこの小説の中でそれに自覚的である。けれども、「歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的の出来事を積み重ねたことのデペイズマン」がこの小説には見られるが、寺山修司の理想を真に実現したのは、むしろ、中上健次である。寺山修司は「東京新宿区歌舞伎町」を「共作者兼批評家」と呼んでいる。中上健次にとって、それは熊野を代表とした「路地」であり、「そこから肉声で『話しあえる』場所へ到達する近道」である。

 寺山修司は日本近代文学の系譜から離れている。しかし、中上健次以降の日本文学を考える際に、『あゝ、荒野』は初歩的ながらすべてがある極めて示唆的な小説である。

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