
持続可能社会と詩(1)(2010)
持続可能社会と詩
Saven Satow
Jun. 30, 2010
“Study nature not books”.
Jean Louis Rodolphe Agassiz
第1章 「荒地」の消失
1947年9月、月刊誌『荒地』が創刊される。終戦を機に、雑誌の復刊・創刊ラッシュが起きるが、紙の統制が1950年まで続き、その対象外だった仙花紙を用いたカストリ雑誌が人気を博している。こうした時代的・社会的背景の下でスタートした現代詩の専門誌が埋没することはない。トマス・スターンズ・エリオット(Thomas Stearns Eliot)の『荒地(The Waste Land)』(1913)から借用したこの同人誌は58年6月まで発刊され、鮎川信夫や北村太郎、田村隆一、吉本隆明などの現代詩人が参加し、彼らは「荒地派」と呼ばれる。
彼らは、鮎川信夫作とされる『荒地詩集1951』の「Xへの献辞」において、時代と詩について次のように述べている。
あまり人目につかぬ僕たちの仕事を、好意をもって見守ってくれる君は、今までどのような詩によっても、心から満足したり感動したりしたことがなかったであろう。そして君はほんの偶然から、僕達の詩を読んでみることになったのかも知れない。(略)撲達と同じように、現代を荒地と考えている君は、(略)自己の現実の悩みの方が遥かに未来を孕んでいることに気づいている筈である。
「親愛なるX…。」(略)僕達が共通に抱いている荒地の観念について深く知ってもらいたいと、熱烈に願うのである。
現代は荒地である。(略)
そして彼が、さらにこの二〇世紀の半ばに立つ人間の運命について深く考えるならば、そこに人類の遺産と罪の伝承を認めることによって、荒地に生きているという暗い経験世界の終末的な幻滅感から一条の光を摘みとることであろう。亡びの可能性は、一種の救いに外ならぬ。(略)破滅からの脱出、亡びへの抗議は僕たちにとって自己の運命に対する反逆的意思であり、生存証明でもある。僕達や君に未来があるとしたら、現在の生に絶望していないことによってである。罪の実在を認識することは、絶望を精神の起点に於いて回心せしめる動機となる。一条の光線は、暗黒にむかう時、いよいよその光を増す。
1950年代から60年代、時代や社会と葛藤しながら、この荒地派を始めとして現代詩のブームが起きている。左翼思想が若者の間で支配的になると共に、抽象的で思想性を強く帯びた現代詩は芸術の前衛であると読者を獲得する。詩人は文学者であるだけでなく、オピニオン・リーダーとしても見られるようになる。その最大の存在が60年代のカリスマ吉本隆明だろう。
『荒地』が刊行されていた時期は、「政治の季節に」当たる。47年1月、2・1ゼネストがGHQにより中止、5月に日本国憲法が施行、社会党委員長の片山哲を首班とする連立内閣が成立している。『荒地』が創刊されて以降も、国内外で大きな政治的出来事が相次ぐ。東京裁判で15被告に有罪判決、中華人民共和国成立、ソ連核実験に成功、警察予備隊発足、社会党左右に分裂、朝鮮戦争勃発、対日平和条約・日米安保条約調印、バカヤロー解散、第五福竜丸被爆、社会党の左右の統一、保守合同、日ソ共同宣言、憲法調査会設置、スプートニク・ショックといった具合に、『荒地』の出版されていた時期は東西冷戦が国内外の政治を支配するフレームとして形成されている。
60年安保闘争の敗北によって政治の季節が終わり、経済の季節が訪れる。もっとも、所得倍増計画のアイデアは第2次岸信介内閣の福田赳夫政調副会長が提案している。自民党が社会民主主義政党の主張するはずの「福祉国家」の実現を掲げ、「計画」経済の政策を閣議決定する。外交政策はともかく、国内問題におけるイデオロギー対立が弱まる。この頃の石炭から石油へのエネルギー転換やイノベーションによる大量生産方式の導入が始まり、それが60年代の驚異的な経済成長を用意している。岸は政治的手法では乱暴と言うほかないが、経済政策に関しては先見性が認められる。1920年、東京帝国大学法学部を優秀な成績で卒業した岸は、花形の内務省や大蔵省ではなく、農商務省を就職先に選んでいる。戦前の日本は経済力が弱く、国際競争力のある産業が一向に育たない。岸は、現状を考えるならば、日本が発展していくには産業政策の拡充が不可欠であり、これからは経済官庁の時代が到来すると予測している。彼の見通しは、今にしてみれば、非常に的確である。戦後の日本の官庁を代表するのは、農商務省の後胤に当たる通産省だろう。通産省は自ら報告書を積極的に公表するなどしてアジェンダ設定を行う。「霞ヶ関のシンクタンク」の別名通り、貪欲にあらゆる方面に関心を寄せ、それが他省庁の所管に属する場合であったとしても、遠慮なく、問題提起する。
こうした時代の流れにあっても、左翼思想が若者の間で受容されている間は、現代詩は健在である。けれども、彼らは荒地を草木が生えず、石や砂だらけの不毛の地と誤解し、それを自分たちが置かれている状況に譬えている。しかし、前近代や近代の初期において、荒地は燃料や生産物を天日や風で乾燥させるために欠かせない場所である。高度経済成長以前の彼らの前に荒地があったとすれば、それは恵まれている。
高度経済成長が日本の景観を激変させたことは、文学者ならずとも、その前後を経験したものにとって荒れ果てた野山や汚濁した河川、埋め立てられた海岸、均質的な人工物の乱立と認識されている。けれども、小林茂大阪大学大学院教授は、九州の大宰府の過去200年間における景観の変化に関する実証研究を行い、それを思いこみにすぎないと指摘している。高度経済成長のもたらした風景の変容はそうした素朴な二項対立で把握することはできない。それは、荒地の喪失として現われている。
景観の変化を実証的に明らかにしようとすると、古文書や地誌、地図、航空写真、聞き取りなどを収集し、丹念に検証して、コンピュータを用いて定量的に分析する必要がある。けれども、昔のこととなると、残っている史料が少なく、実証的と呼べるほどの研究にまで仕上げることが難しい。大宰府は、幸い、史料が比較的残存しており、困難は伴ったものの、充実した成果が実現している。
水田や畑、農場など農地面積が縮小し、代わりに近代インフラや住宅、駐車場などが出現したことは確かである。しかし、高度経済成長以後、大宰府の森林面積は増加している。それどころか、過去200年の間で最も森林面積が増大、荒地が喪失している。けれども、それは環境保護の結果ではない。放置されたためであって、環境破壊の一例である。
戦乱の世が終わり、パックス・トクガワが訪れると、日本各地で開墾が始まる。あまりにも乱開発だったために、幕府は何度か禁止令を出している。江戸時代、村落の資源利用において最も重要な機能を果たしていたのが里山である。これは大宰府も例に漏れない。村人は燃料や刈り敷きを里山から採取する。大宰府の場合、主に、燃料は柴、刈り敷きは肥料・飼料用の草である。しかし、大宰府はすでに自給システムだけでは十分ではなく、石炭や飴粕、干鰯を購入したり、博多の下肥を米と交換したりしている。しばしば資源利用と保全の均衡した循環型社会として言及される江戸時代であるけれども、部分的にではあれ、すでに化石燃料が生活に組みこまれている。
明治に入り、近代的所有権に基づく民法が導入され、それと相反する里山は入会地と位置づけられる。刈り敷きとる荒地は、野焼きによって、その植生が維持される。しかし、明治末期には、大豆粕などの肥料が普及し、そういった草地の利用が衰退、大正期には、県行造林制度によって植林が進められる。入会地は町村有地に転換され、この造林作業は村民の機会を提供、伐採して上がった利益を町村に配分して自治体の財政を潤す。第二次世界大戦後、この規制がさらに緩和され、造林が各集落レベルで行われるようになる。
ところが、高度経済成長を迎えると、里山の利用は急速に廃れていく。燃料は石油やガスに代わり、化学肥料が浸透し、農業の機械化が進展する。化学肥料の主成分である硝酸アンモニウムをつくるためにアンモニア合成を行うが、それには莫大なエネルギーを必要とする。加えて、安い外材に押され、木材価格が低下、林業も衰退する。生活の糧としての里山の機能は失われ、放置される。
遊林化した里山は森林の面積を増大する。荒地は自然に人間が手を加えた保全によって維持される。人が離れてしまった荒地は存続できない。植林された木々は間伐されずに生い茂り、しかも自然に樹木が回復して、明治期の荒地は喪失してしまう。現在、過去200年間で最も森林面積が広くなっている。この現象は大宰府に限らず、日本各地で起きていると見られている。
自然の豊かさは、うわべだけで判断できない。生物多様性の観点から見れば、日本の自然は、むしろ、貧弱である。インドネシアのボルネオ島の100平方km程度の密林は、日本全体を超す種類の動植物が生息している。また、日本は平地が少なく、山間のため、川の流れが急で、栄養が乏しく、動植物が生息しにくい。河川が澄んでいるのは、生物多様性に恵まれていないからである。
高度経済成長が終わり、ドル・ショックと二度のオイル・ショックに見舞われた70年代から現在に至るまでの詩壇を見回しても、この荒地の消滅を受けとめている作品は、残念ながら、認めることが困難である。意欲的な作品も少なくないものの、経済成長の矛盾に対する抗議や革命の希求、保守的な新中間階級の心のうずきへの自己嫌悪と自己憐憫に溢れた慰め、高度消費社会への悪乗り、シニカルな自閉性などが詩としてつくられる。中には、ろくに調べもせず、思いつきと思いこみで書いたぬるい姿勢のものもある。都市の住民は知らなかったかもしれないが、荒地は生活の糧にとってかつては不可欠の場所である。現代はその荒地の喪失した時代である。外的風景の変化を見つめるのではなく、内的風景をそこに見出すことを繰り返す。
言うまでもないが、内的世界を外的世界の描写を通じて暗示するのは文学における主要な表現方法である。かわいいから「かわいい」と直接記すのでは、精神的な深みに欠け、読者との共有もおろそかにしている。言語表現の中には、一見したところでは、見た目から発せられていと解釈したものの、行き詰ってしまうものも少なくない。その一例が「かわいい」である。これは内面の言葉であって、対象の見かけに対してであれば、「かわいらしい」という別の形容詞がある。恣意的と思えるほどに非常に広い対象に「かわいい」が用いられるのは、それが気持ちの問題だからである。主観的だから、外部にはその論理がわかりにくい。その対象に自分のテリトリーに入れたい愛情を持てるか否かが判断基準となって発せられる。テリトリーに入れるのだから、それは攻撃性・危険性・恐怖性がないと主観的に診断したものになる。ただし、ニュートラルでなく、あくまでも強い愛情がそこに働いている。それを表現する必要がある。この主観的な思いそのままでは読者が共有することは難しい。文学者であれば、「かわいい」を用いないで、その気持ちを読者と共有すべく、文学において直接的な字句が避けられるのは、読者との共有のためでもある。
とは言うものの、詩のみならず、20世紀文学の主観主義はそれとは目的が異なっている。第一次世界大戦の惨劇は近代科学や進歩への希望を打ち砕く。そこで、文学者たちは近代という一元化が進展していくのに対し、主観によるアイロニカルな多元化を試みる。けれども、いつの間にか、その手段と目的が入れ替わり、それは恣意性の蔓延に文学を陥らせてしまう。