情報化社会と協律す(1)(2007)
情報化社会と協律
Saven Satow
Feb. 28, 2007
「人間とは克服されるべき何ものかである(Der Mensch ist Etwas, das überwunden werden soll)」。
フリードリヒ・ニーチェ『ツァラツゥスツゥラはかく語りりき』
第1章 情報化社会とリテラシー
サダム・フセイン元大統領の処刑の一部始終がウェブ上に流出したとき、それはこの戦争が新たな時代に属していることを端的に物語っている。湾岸戦争を象徴するメディアがCNNだったとすれば、アフガニスタン戦争ではアルジャジーラがそれに相当する。イラク戦争は、その意味で、『タイム』誌のアナ・マリー・コックスが命名した通り、「ユーチューブの戦争(The YouTube War)」と呼ぶことができよう。
イラクで行われている戦闘の模様がすぐにユーチューブなどの動画共有サイトにアップロードされ、時には、生中継さえされている。合衆国政府は、ベトナム戦争の経験に基づき、開戦当初から新聞や通信社、ラジオ、テレビなど産業メディアの取材を厳しく制限している。フリーのジャーナリストは情報操作や世論誘導を覆すために、その隙間を縫うように、伝えている。しかし、ユーチューブで公開されている映像はジャーナリストと言うよりも、武装グループや一般民間人、兵士自身によるものである。
第二次世界大戦はラジオ、ベトナム戦争は地上波テレビ、湾岸戦争及びアフガン戦争は衛星放送が銃後に戦況を伝えている。しかし、イラク戦争は史上初のネット戦争である。個々は小さいが、その総体はかつてないほど巨大なネットワークである。戦争報道が放送ではなく、通信が主体となっているのであり、それは、アマチュアによる報道が銃後の世論の動向を左右するという事態を招いている。
1990年代に入り、インターネットが世界中に普及していったが、コフィ・アナン前国連事務総長が「内戦状態」と断言した戦争までは、戦争報道の中心的映像メディアとは見なされていない。確かに、現実の戦争に対応する以外のテロリズムでは、ウェブはすでに活用されているし、体制側による対応がその後を左右することも少なくない。アルカイダのメンバー自身もしくはその支持者がネットを通じてその成果を伝え、恐怖の連鎖反応を狙っている。しかし、それはあくまでもプロパガンダである。
各国政府はテレビに対する情報操作のノウハウを蓄積している。たんに強圧的に規制するのではなく、利用する。記者を現場の兵士と寝起きを共にさせれば、彼らに同情的な報道をしてくれるだろうとペンタゴンは目論み、事実、そうなっている。
けれども、インターネットについてはそれがまだ確立できてはいない。しかも、ユーチューブに動画を投稿しているのは兵士自身である。彼らはデジタル・カメラや携帯電話を使って、参加している戦闘の様子を撮影しているが、その目的は厭戦気分を紛らわすためでも、反戦運動に賛同しているためでもない。それは故郷にいる家族や友人に今の自分の姿を見せるためであり、動画のブログである。開戦前夜にネットを通じて呼びかけられた非戦運動とも違う。
9・11の報復として始まった頃のアフガニスタンでの戦争を取材するために、ジャーナリストは、デジタル・カメラで撮影した動画や画像をノート・パソコンに取りこみ、圧縮して、衛星電話のインマルサット衛星端末を用いてテレビ局に送っている。これは、手間の点でも、費用の点でも、業界人でなければ困難である。それと比べると、わずか数年であるにもかかわらず、隔世の感がある。
けれども、他愛もないポートレートであったとしても、映像にはさまざまなものが映し出されており、敵側にとって重要な情報源となりうる。15年戦争を通して、日本の軍部は戦地からの兵士の手紙を一通一通検閲していたが、ネット上で公開される映像は膨大であり、検索機能を使って調べたところで、完全に規制することは不可能である。第一、兵士から携帯電話を取り上げても、イラクの人々からの動画公開をとめることはできない。ベトナム戦争当時のペンタゴン同様、今の各国政府もインターネットの利用方法をつかみきれていない。
2007年3月2日、BBCはユーチューブとの連携を発表する。放送局は著作権をめぐってしばしばユーチューブと敵対関係にあるが、この英国の公共放送はその意義を認め、協力していくことを決断している。この流れは止められないだろう。
このように、イラク戦争は過去の戦争と決定的に異っている。現代社会はしばしば情報化社会やICT(Information and Communication Technology)社会と呼ばれる。放送がメディアの主体の時代から、通信が主体の時代、もしくは通信と情報が融合しつつある時代が到来している。それ以前と違い、メソポタミアで続けられている戦闘は情報化社会の戦争だと言って過言ではない。
オンラインから入手できる動画を加工するのはさほど難しくはない。ウェブ上で公開されている映像は、そのため、何らかの意図に従って編集されているのではないかと留保をつけて視聴しなくてはならない。ネットにアクセスするには、批判的に真偽を検討する能力がかつて以上に必要とされる。
つい最近、それが再確認される出来事が起きている。2007年1月、米バーモント州のミドルベリー大学(Middlebury College)は、レポートやテストではウィキペディアからの引用は認めないとする措置を決定している。
同大学で日本史を担当するニール・ウォーターズ教授(Prof. Neil L. Waters)は、2006年12月に実施した学期末テストで複数の学生が共通の間違いを犯すことに不審を抱く。と言うのも、数人が島原の乱をイエズス会が支援したと答案に記していたからである。同教授が調べてみると、それは英語版ウィキペディアの「島原の乱」の項目に依拠していたと判明する。
ウィキペディアを利用して答案を書いたと思われるケースは以前からあったが、今回、同大学の史学部は、学生と言えども、依拠する情報源の信憑性に責任を持つべきであると問題視する。ウィキペディアを情報ソースの一つではなく、丸呑みしてしまう学生が少なからずいるため、思い切って引用禁止を学生に通達している。
この一件で問われているのはリテラシーの能力である。情報源を一つにせず、複数にあたり、照らし合わせて、その真偽を判断するというのは学問研究に限らず、ジャーナリズムであろうと、議会の質疑応答であろうと、不可欠な過程である。
デジタル技術の登場時にはデジタル・デバイドが問題となっていたが、今日ではそれがリテラシーに取って代わっている。検閲・自粛・捏造が頻発する日本ではともかく、産業化した出版・放送媒体であれば、それぞれにメディア特性と編集権があり、受け手は信憑性にある程度の信頼を抱ける。市民運動もテレビの文法や論理、修辞法を研究し、それに従い、利用することが求められる。しかし、エドワード・W・サイードが『イスラム報道』でアメリカのメディアの報道姿勢を痛烈に批判した通り、バイアスがかかって放映されてしまうことは多々ある。一方で、放映に値する公共性ならびに公益性があるかどうかも局内でチェックされる。公の媒体たるものとして伝える内容や手法に責任を持つのは当然である。
ユルゲン・ハーバーマスは、『公共性の構造転換』において、公共性をコミュニケーションから捉えたが、それにはリテラシーも欠かせない。リテラシーが伴わなければ、コミュニケーションの拡充は困難である。現代社会は、テオドール・W・アドルノが指摘しているように、「大道徳(マグナ・モラリア)」ではなく、「小道徳(ミニマ・モラリア)」の時代である。その都度、直面する道徳的ジレンマの意味を読み解き、生きていかざるを得ない。それには、その意味を理解し、ネットワークを利用して、構築するというリテラシーとコミュニケーションが不可欠かつ不可分である。公共性がリテラシーとコミュニケーションによって成立・変容すると主張しなければならない。
リテラシーの基準は時代的・社会的状況によって決定される。国民国家体制の世界化により、少数言語の抹殺を伴いながら、識字率は量的に向上している。近代以前の識字率を調べる際に、自分の名前の読み書きができるかを尺度にしているが、公教育の制度化は初等教育程度の3R’sまで識字率の基準に押し上げ、さらに、現代では出版物の読解力という技術的な能力もその定義に含まれている。先進国では、リテラシーの量的拡大の段階に代わり、質的向上へと移行している。
昨今、リテラシーは、全般的に、意味の読解力を指すとして用いられている。「情報リテラシー」、「メディア・リテラシー」、「科学リテラシー」、「インターネット・リテラシー」、「リサーチ・リテラシー」、「健康リテラシー」、「金融リテラシー」など現代社会における必須のリテラシーは増える一方である。
1989年に出版された『すべてのアメリカ人のための科学(Science for All Americans)』のイントロダクションにおいて「科学リテラシー」は次のように定義されている。
科学リテラシー──自然科学や社会科学、ならびに数学とテクノロジーを含包するもの──には多くの事実があるが、それらとして次のような点が挙げられる。自然界になれ親しみ、その統一性を尊重すること。相互に左右される数学、テクノロジーおよび科学における重要な諸方法に気がつくこと。科学の鍵となる概念・原理を理解すること。科学的な思考法のための能力があること。科学、数学やテクノロジーが人間の営みであり、それに伴う強みと限界が何であるかを知っていること。個人的・社会的目的のために科学的な知識・思考法を使えること。
健康情報を裏付けているのが科学なのか似非科学なのかを見分けるというのは、こうした科学リテラシーの一例である。
このようにリテラシーはたんなる読み書きの能力でもなければ、暗記したことを思い出して答案を埋める能力でもない。事象から意味をどれだけ読み取ることができるかという本質的な認識力にほかならない。
リテラシーは「社会と教育」の問題と密接に結びついており、それをろくに論じない世界でも最もお粗末な反動的な教育改革を行った日本は別としても、コミュニケーションと並んで、最優先的な教育課題である。
インターネットに象徴されるネットワーク電子機器が普及し、膨大な情報が氾濫しているため、人々は全体像が把握できずに、それに惑わされたり、振り回されたりして自分を見失うと同時に、不明瞭さを忌避し、自分の興味や意見、欲望を強化するものにのみ没入して、排他的・攻撃的・自尊的・刹那的な態度に陥るっている。したり顔でこう情報化社会の影の部分を憂いても、日本の政財界やメディアはリテラシーの重要さにほとんど言及しない姿を見ると、その向上が不可欠であるのは間違いない。
リテラシー基準の変遷の歴史が明らかにしているように、リテラシーは社会の変化に応じているとすれば、求められるべきは固定的な尺度ではもはやない。情報化社会は変化が激しく、予測もつかない。これだけのことが出来れば十分という量的基準を示すことは困難である。その激変の中で、自分で考える態度や自らをより成長させていこうとする意欲の育成が教育の目標となる。変化そのものの意味を読み解ければ、それに追従したり、うろたえたりすることはない。「教わる」から「学ぶ」への学習の変容は他律から自律への発展でもある。インフォメーションはそうしたインテリジェンスなくしてはたんなる記号にすぎない。
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