相去(2)(2022)
2 「相去」
「相去」は岩手県北上市の南端にある町の名称である。現在は「相去町」だが、1954年の昭和の大合併まで「相去村」と呼ばれている。ただし、相去村には胆沢郡金ケ崎町六原も含まれている。平成27年版国勢調査によると、面積は16,445,198.401平方メートル、人口総数は4,615人、世帯総数は1,584世帯である。東京の中野区より少し広い面積にそのおよそ70分の1の人口規模だ。
GoogleEarthやストリートビューを使えば、相去がどういう地域なのか知ることができる。GoogleEarthで検索すると、ほとんどが緑色か茶色で、森林と田畑が広がっていることがわかる。また、人家が密集していたり、工場と思われたりするところがわずかに認められる。
『コトバンク』は相去について次のように解説している。
岩手県中南部、北上(きたかみ)平野の中央部、北上市の一地区。旧相去村。藩政時代、奥羽街道に沿う街村で、伊達(だて)領の北端に位置し、南部領の鬼柳(おにやなぎ)に接した。1642年(寛永19)に伊達藩(仙台藩)は相去に境塚を築き、屯田足軽を配置し藩境防備集落をつくった。これが現在の三十人町であり、藩境塚の一部も残っている。
内容に間違いはないが、子どもの頃から聞いてきた話で、少し補足が必要と思われる。この相去は伊達藩の直轄地である。藩士の武頭が仙台から100日交代で派遣されている。藩境にあるため、相去は特殊な事情のある地域だ。
その相去の中心は旧奥州街道沿いの相去百人町である。三十人町は相去のはずれに位置し、平らな草地が広がっている。南部藩の住民も草を求めて入ってくるため、藩を超えた交流があったとされる。相去を語る際には、百人町が欠かせない。
伊達藩と南部藩の国境が相去=鬼柳に決まったことにはt次のような伝承がある。
昔あったずもな〜。伊達ど南部で国境争ってらっだど。こごがらおらのどごだど伊達が言えば、んでね、そごでねぐ、こごがらがおらのどごだど南部も負げでね。どっちも譲らねかっだど。
ある日、南部さ伊達がら手紙届いたど。そごさ、こったなごど書かれてでらっだど。
いづまでもこったなごど続けででも国境は決まらね。どっつも文句の出ねやり方で国境決めねが。時間決めで、城下町がら街道を牛《べご》走らせで、出会っだどごを国境にすねが。
それ読んだ南部は喜んでお受げすますど返事したど。南部ったら、ほれ、牛の産地だおな。これは勝でると思ったど。
約束の時間に南部は盛岡がら自慢の牛走らせだど。走るっだども、牛だがら歩いでらおんだ。牛引いでな、伊達さ負けでらんねど奥州街道急いだど。
歩いで、歩いで、歩いだど。なんぼ歩いだべな〜。すたら、伊達の姿見えできだど。
だども、伊達は馬さ乗っでらっだど。
なんじょすたごどだ。なして馬さ乗っでらおんだ。牛って書いてらっだえじゃ。南部は話違うんでねがど伊達さ怒っだど。
伊達藩は、何怒っでらおんだ、おらだ約束通り馬で走ってきたおんだと涼しい顔だったど。南部は、なんじょしたって、牛走らせるべどおめだぢがら言ってきだべやとカンカンになっだど。
すたら、伊達は、いやいや、おらだは「午《うま》」ど書いてらっだども、おめたぢそれを、「牛」と見間違えたんだべど笑っだど。
伊達はわざど「午」の縦棒なんぼか長く引いで、横棒の上さなんぼが出てるように書いでらっだおんだ。
南部はそれ聞いでごしゃぐこどごしゃぐごど。んだども、伊達は、馬は走るども、牛は歩ぐおんだがら、そごでわかるえじゃど笑うごどわらうごど。
すかだねがら、南部も、最後には、わがったどなったど。おもしぇぐはねども、すかだねおな。牛は走らね。走るのは馬だおんな。
こったなごどあっでからな、こごのごど「相去」と呼ぶようになったど。「相去る」だがら、「相去」になったおんだ。
どんど晴れ。
Googleで馬と牛の速度を検索すると、前者がおよそ時速88km、後者はおよそ時速40kmである。また、盛岡駅から北上駅までの走行距離が47.8kmであるのに対し、仙台駅からは135.7kmとなっている。相去は北上駅からさらに南に位置するが、その差を大きく短縮する距離ではない。
もっとも、この話はあくまで伝承である。実際は異なっていて、Googleで検索しても、ある程度事情が理解できる。
1590年(天正19年)の豊臣秀吉の天下統一により、南部氏と伊達氏が領地を接することになる。その後、両氏は度々国境をめぐって争いを始める。江戸時代に入ると、両藩は幕府に裁定を求めることにする。1641ねん(寛永18年年)、老中立ち会いの下、両藩は絵図 図面に点を打ち、藩境を確定する。翌年以降、両藩の役人が立ち会い、奥羽山脈の駒ヶ岳から釜石の唐丹湾までの間におよそ120の藩境塚を置く。特に重要な地点では境を挟んで対の大塚を築いている。
この塚は自然現象にさらされるため、動いたり、消えたりしないように工夫されている。その一つが北上川の西岸に設置された赤石鼻である。相去の東端には北上川が流れている。この一級河川は水流が緩やかだが、それでも氾濫することはある。こうした不測の事態に備えて、高さ2.5m・幅10mの天然の露出岩に盛り土して塚が築かれる。これが赤石鼻である。
奥州街道の藩境に、伊達・南部藩は共に枡形(城郭の入口)を土塁で囲い、10間(約20m)の距離で対峙する。枡形から150間(約300m)の位置に南部藩は鬼柳番所(関所)、伊達藩は相去番所を設置する。番所には槍や鉄砲が装備されている。
奥州街道の相去部分は、現在、県道254号線となっている。関門の藩境塚は今も下り車線側に保存されている。また、上り車線側には藩境の標識が立てられている。
関所のあった辺りで県道が洗面台の排水管のように曲がっている。これは南部藩と伊達藩がお互いを見えなくするためである。ここは板門店だ。
写真家が暮らしていた1970年代当時、下り側には北から蕎麦屋・郵便局・薬局・床屋、上り側には床屋の向かいに魚屋が営業している。この理髪店に行くと、必ず坊ちゃん刈りにされるので嫌だったが、『ゴルゴ13』が揃っているので、待ち時間にそれを読むのが楽しい。また、薬局には、下組の酒屋と同様、雑誌が売っていたので、本屋として利用している。さらに、郵便局では通帳の作り方や郵便小為替の書き方、国際郵便の送り方を局員から教わったり、記念切手を買ったり、置いてある老眼鏡をかけて目を回したりしている。今も続けているのは薬局と床屋だけである。郵便局は仲町に移り、他は閉店している。
相去の南端付近の七里に住む写真家が北端まで足を運んだことがあるかどうかはわからない。ただ、その文章の通り、1970年代に営業していた店舗の多くが閉店したことは確かだ。
番所は塚から一つ目の横断歩道の下り側にあったとされ、案内板が設置されている。1970年代、そこは商店が営業している。仮面ライダーカードやヨーヨーが流行した時、この店でスナックやコーラを買ったものだ。また、佃煮陽のイナゴを買い取ってくれるので。田んぼで捕まえて売りに行ったが、あまりの費用対効果の悪さに弟が憤慨していたことを覚えている。店は、その後、道路の向かい側に移ったが、今はもう営業していない。
もっとも、この商店を含めこれまで触れてきた店舗は名残がある。元郵便局も建物が残っている。だが、跡形もなくなった店もある。横断歩道の登り側にあった畳屋と自転車屋がそれだ。前を通ると、畳屋からは作業音とイグサの香り、自転車屋からは空気の圧縮音とゴムやオイルの匂いがしたものだ。子どもなので畳屋とは縁がなかったが、自転車屋では補助輪の取り付けや取り外しをやってもらった記憶がある。今は思い起こさせるものは何も残っていない。
席車と番所の中間地に病院があり、これは昔も今も続いている。初代は旧制弘前高校から東北帝国大学を卒業している。相去村における旧制高校卒業生はこの先生くらいだ。1970年代は、洗い出しの石造の外壁の建物で、2代目の老先生と3代目の若先生が診療している。若先生はソフトだけれども、老先生は元軍医で、診てもらうと、必ず気合を入れられる。今は相去小学校に在籍したことのある4代目が診療に当たっている。病院も鉄筋コンクリート建築に代わり、以前はほとんどなかった駐車場も広く用意されている。
1656年(明暦2年)、伊達班は相去に102人の藩士・足軽を派遣する。それにより、相去は百人町と呼ばれ、北から上組・仲町・下組と分けられる。この範囲は、現在で言うと、藩境塚から自動車修理工場跡地の隣の一軒までである。藩境から県道を南に進み、一つ目の横断歩道までを上組、そこから次の横断歩道までを仲町、その先が下組だ。距離にしてちょうど岩手県交通のバス停三つ分である。
この百人町の南端から奥州街道は県道と違うルートを通っている。上り側の南端に北上川へ向かう道がある。これがかつての奥州街道である。藩境塚からここまで直線だが、県道はこの地点から急にカーブしている。旧奥州街道は、県道になる以前、国道4号線である。道路建設に際してルートが変更されている。こうした経緯により地元民はこの南端に位置する家を「どで(土手)」と呼ぶ。
伊達藩は北上川に向かう道に六軒町と川口町を作り、仲町から足軽を移住させている。さらに、川岸に北上川舟運の関所を設置する。ただ、当時は堤防がないため、この地区は度々洪水被害に遭っている。戦後の堤防建設に伴い、いくつかの世帯が百人町に移住している。
下級武士は番所に勤務する。相去は藩の備集落である。配属された足軽は密輸の取り締まりを主な任務にしている。南部藩は北に位置するため、伊達藩の農産品を持っていくと、高く売れる。この密輸を取り締まることが彼らの仕事である。
こうした足軽の子孫が百人町に今も住んでいる。藩境塚から県道線沿いを眺めていくと、道路より高い土地に建てられた住宅を目にする。そこが足軽に由来する家である。彼らはいかに下級とは言え、名字帯刀を許された武士である。身分が農工商より上なのだから、街道より高い土地に住まなければならない。前近代は公私が一体化している。外観で身分がわかるようにしていなければならない。もっとも、足軽なので、刀は象徴的な意味でしかなく、彼らが扱うのは鉄砲や槍である。
県道の下り車線側の仲町バス停で、1970年代当時、かなぐづ屋と呼ばれる駄菓子屋が営業している。この店は道路より低い土地に立っている。「かなぐづ」は「金沓《かなくつ》」、すなわち蹄鉄のことである。ここはかつて工の職人が住んでいたため、土地が低くされている。職人・商人の居住区なので、「組」と呼ばれない。
江戸時代の前期からの居住地域なので、自然災害の被害が受けにくい。東日本大震災の際も地震の被害は少なかったと聞いている。
かなぐづ屋の向かい側は今は相去郵便局であるが、かつて馬は喰宿《ばくろうやど》である。地元民はここを「ばくらいど」と呼ぶ。馬喰は牛馬の取引をする商人のことである。郵便曲の北隣には床屋が以前は営業している。2建ての鉄筋で、壁面が蔦に覆われた姿が特徴的だ。かなぐづ屋同様、店を閉じ、蔦ももうない。
安全保障目的の村落なので、分配する土地がない。そのため、本家分家制度がこの地区にはない。何らかの事情で跡取りがいなくなると、百人町の中で養子縁組を迎え入れる。従って、古くからの住民の多くが縁戚関係にある。
こんな相去の写真展を開くというのだから、その人物は奇特だ。あまりに奇特だ。なぜなのか不思議でならない。