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音楽の行方─宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』(3)(2014)

第2楽章 Andante feroce
 夜中になると、ゴーシュの元に動物たちがやってくる。登場する動物と曲はそれぞれ楽章を意味している。猫は『印度の虎狩』、かっこうはドレミファ、狸の子は『愉快な馬車屋』、野ねずみは『なんとかラプソディ』であり、これはベートーベンの『運命』の楽章に相当する。第1楽章はAllegro con brio、第2楽章はAndante con moto、第3楽章はAllegro (Scherzo)、第4楽章はAllegroである。

 賢治は、『国立公園候補地に関する意見』で、『運命』の楽章を次のように喩えている。

しまひはそこの三つ森山で
交響楽をやりますな
第一楽章 アレグロブリオははねるがごとく
第二楽章 アンダンテややうなるがごとく
第三楽章 なげくがごとく
第四楽章 死の気持ち
よくあるとほりはじめは大へんかなしくて
それからだんだん歓喜になって

 ベートーベンはクライマックスに向けて盛り上がるように作曲する。彼以前は第1楽章を重視し、第4楽章は閉めでしかない。猫は「ははねるがごとく」ゴーシュをからかい、かっこうは「ややうなるがごとく」ドレミファを練習し、狸の子は「なげくがごとく」小太鼓を教わりに現われ、野ねずみの親子は「死の気持ち」でゴーシュの元を訪れている。「はじめは大へんかなしく」していたゴーシュは彼らとの出会いを通じ、本番に向けて、「だんだん歓喜になって」いく。

 『愉快な馬車屋』がジャズ、『なんとかラプソディ』がダヴィッド・ポッパーの『ハンガリアン・ラプソディ』であるとすれば、「第六交響曲」は、「特徴ある交響曲、田園生活の思い出」と作曲者自らが付記しているベートーベンの『田園』をイメージしなければならない。

 交響曲第6番と言えば、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの『悲愴』が思い浮かぶ。けれども、ショスタコヴィチも『田園』をイメージして、『第6交響曲ロ短調作品54』を作曲している。『田園』の第2楽章Andante molto mossoにおいて、フルートがカナリア、オーボエがウズラ、クラリネットがカッコウを演じている。プロコフィエフの『ピーターと狼』でも、フルートが鳥、オーボエがアヒル、低音クラリネットのスタッカートが猫、バスーンがお爺さん、3本のホルンが狼、弦楽4重奏がピーター、ティンパニーとバスドラムが猟師を演じている。このカタロニアの祝歌の中で、嬰児(みどりご)を歌い迎えるのは鷹、雀、小夜啼鳥、そして小さなミソサザイです。鳥たちは嬰児を甘い香りで大地を喜ばせる一輪の花に喩えて歌います」(カザルス)。

 交響曲第6番として、この作品を考察する際に、より重要なのはグスタフ・マーラーの『悲劇的』である。このモダニズムの曲は西洋音楽史に挑戦している。

 伝統的に西洋音楽は楽音中心主義である。これは重要な本質の一つだ。人工音だけで構成し、物音や自然音、雑音を排除する。聴衆はコンサート会場では静聴していなければならない。そこは楽音だけで占められる理想空間だ。この慣習を大胆に破ったのがマーラーの交響曲第6番『悲劇的』である。この第2学習では弦楽器がメロディを奏でていると、カウベルの響きが入ってくる。従来であれば、これはノイズである。しかし、この曲ではカウベルが自然の風景を想像させる音として機能している。サウンドスケープが人工空間に自然空間を招き入れる。

 マーラーはロマン派に属している。それはウィーン古典派の克服である。ウィーン古典派は「調性音楽(Tonality)」を確立している。その基礎となる原理が「機能和声(functional harmony)」である。調性音楽において和音は「主和音(Tonic chord)」・「下属和音(Subdominant chord)」・「属和音(Dominant chord)」の三系統に分類される。

 ハ長調を例にとって機能和声を説明してみよう。

 和音の基礎となる音を「根音(Root)」と呼ぶ。主和音は主音を根音とする。「主音(Tonic)」はド、すなわちハあるいはCである。主和音は、長調または短調の旋律で終始音となる主音の上に3度上の音と完全5度上の音が重なってできている。完全5度は全音三つと半音一つからなる音程である。ハ長調の場合、主和音はド=ミ=ソとなる。ただし、このミは半音四つからなる音程の長3度である。次に、主音のドから完全4度上の音ファを「下属音(Subdominant)」と呼ぶ。その音を基準に構築された長3和音が「下属和音」であり、ド=ファ=ラである。また、主音ドから完全5度上のソを「属音(Dominant)」と言い、これを根音とする長3和音が「属和音」である。ハ長調では、シ=レ=ソが該当する。

 この三種類の和音は性質が異なっている。主和音と下属和音は次にどんな和音がきても構わないが、属和音を鳴らしたときは、その後に必ず主和音が続く。この理由は、強いて言えば、長音階にあるに箇所の半音の求心力であろう。ミはファ、ㇱはドへと進もうとするからとされているが、究極要因ではない。属和音は主和音に向かおうとする和音であり、下属和音は、それと違い、中立的である。逆に言えば、主和音は属和音を招き入れる。曲は、主和音や下属和音が鳴っている間は事実上動いておらず、属和音が響くと次に主和音がくるので、動き出す。ハ長調の和音をピアノで弾いてみる際に、ド=ミ=ソ→ド=ファ=ラ→シ=レ=ソ→ド=ミ=ソと循環するのはこの規則に基づいている。

 アルノルト・シェーンベルクは、『和声法(Structural Functions of Harmony)』(1948)において、この機能和声の特徴を要約している。彼は、和音の連結の中で、一方向に向かって曲を進ませるタイプを「進行(Progression)」、特にそうした方向性のないタイプを「連鎖(Succession)」と命名し、両者を区別すべきだと注意喚起している。シェーンベルクは、第二次世界大戦中にアメリカに亡命しており、これは在米時代の著作であるため、英語表記とする。西洋の調性音楽はこの和声体系に基づいて作曲されている。個々の和音はあくまでもこの和声の流れの中で理解される。和音の構成が異なっていたとしても、同一の機能を果たす場合もあるし、同じ和音でも違う機能を持っている場合もある。機能和声と呼ばれるのは、そのためである。なお、音楽の進行と連鎖に関しては、他にも、協和音=不協和音や転調があることを付記しておく。

 クラシックは19世紀の西洋音楽と要約できる。それはフランス革命から第一次世界大戦に至るまでの「長い19世紀」(エリック・ホブスボーム)である。制限選挙によるエリート民主主義の時代である。身分や職能に代わり、財産と教養に政治参加の根拠が認められている。産業革命と資本主義が進展し、科学万能主義が浸透する19世紀、音楽はそれに抗うロマン派が活躍する。

 ロマン派は機能和声の客観性を超えるべく主観性を追及する。それは半音の多用として端的に言い表せる。ウィーン古典派にとって半音は、言わば、句読点である。ハ長調の音階を例にすれば、ミトファ、シとドが半音の関係にあるだけで他は全音である。半音は全音を強調する役割がある。主役はわき役によって明瞭になる。ところが、半音が多用されると、中心が曖昧になる。これが主観性を表現する。反面、まとまりが悪くなり、場合によっては終われなくなってしまう。フランツ・シューベルトの『未完成交響曲』が好例である。

 これは音楽だけではない。絵画にも同様の傾向が見られる。錯覚を利用したり、複数の遠近法を同時に描いたりして、中心を曖昧にしている。それは一つの遠近法という客観性への挑戦であるけれども、まとまりがなくなってしまう。

 この中心の曖昧さを推進したのがシェーンベルクである。彼は調性を放棄した曲を発表する。人々は、後に、それを「無調音楽(Atonalität: Atonality)」と呼ぶことになる。1920年代に入ると、シェーンベルクはその考えを徹底化し、音楽の集合論と呼ぶべき「12音技法(Zwölftonmusik: Twelve-tone technique)」を考案する。まず、作曲者は1オクターブの中に含まれる12の音を一定の順序に並べて「音列(Tonreihe: Tone row)」を設定する。次に、この「原音温列(Grundgestalt: Original)」を逆の順番にした「逆行形(Krebs: Retrograde)」と音列の上下を反対にした「反行形(Umkehrung: Inversion)」、さらに反行形の音列を後から読んだ反行形の逆行形の「逆反行形(Krebs der Umkehrung: Retrograde inversion).)」の三つの音列を求める。この四つの音列をオクターブ内の12音の各音から出発するように移調すると、12の4倍である48の音列が得られる。これらの音列を組み合わせて作曲する方法論が12音技法である。この理論に基づき、シェーンベルクとその弟子であるアルバン・ベルクやアントン・ヴェーベルンらは非常に抽象的な曲を発表していく。

 12音技法は管理性が強いが、作曲家は自己に囚われず、自由になれる。多くの作曲家がこの革命的な音楽理論を受け入れ、さらに拡張する。音高のみならず、音の長さである音価や音間の間隔である休符、加えて音の強弱だけでなく、楽器の音色に至るまで音列化した「セリー音楽(musique sérielle)」も登場する。近代音楽の基本原理が和音だったとすれば、現代音楽は音列である。これが20世紀を特徴とする音楽の流れの一つの「知」である。

 12音技法の系譜は知性によって管理された音楽であるが、その表われたものは極めて暴力的である。ピエール・ブーレーズが好例だろう。知性の暴力は科学技術、特に無過失責任の高度危険活動のもたらす惨劇によく表象される。それはチャレンジャー号事故に代表される宇宙開発とフクシマのような原子力利用である。この音楽は現代社会の負の側面を表具現する。

 先走り過ぎている。元に戻ろう。19世紀半ばから機能和声にとらわれない作曲法が登場する。その口火を切ったのがリヒャルト・ワーグナーである。彼は1859年に完成し、1865年に初演されたオペラ『トリスタンとイゾルデ』において機能和声では理解できない和音を多用している。特に、その前奏曲で最初に鳴り響く和音は、従来の理論からすれば曖昧で、分析不可能であり、もはや「トリスタン和音」と呼ぶほかない。作曲家たちは機能和声を用いなくても、作曲はできるし、新たな理論を使わなければ表現できない世界が生まれてきていると確信する。『トリスタンとイゾルデ』に保守主義者は顔をしかめたが、若者たちは熱狂的にこれを支持する。その中には、カール・マルクスやフリードリヒ・ニーチェも含まれている。

 ワーグナー以降、作曲家たちは新たな作曲法を模索する。セザール・フランクは調性以前の旋法を採用し、モーリス・ラヴェルやエリック・サティは長調短調にとらわれない曲を作り、ドニュッシーはすべての音程間が全音で構成された全音階を使っている。他方、ヨハネス・ブラームスやマーラーは機能和声を拡張して作曲している。このように、ワーグナーが登場してからも、機能和声をどうするかが依然として音楽的主題である。マーラーのノイズの採用はクラシック史上重要な意味がある。

 動物の鳴き声を模倣した曲がなかったわけではない。16世紀前半のクレマン・ジョヌカンは『鳥の歌』を始めオノマトペを使った曲を作っている。その内容は宮廷における道化と貴婦人の諷刺で、今日で言う音楽ではなく、スタンダップコメディである。

 動物たちとの交流のシーンはモダニズムのノイズの解放を表わしている。ゴーシュは動物たちにいささか乱暴に接している。西洋音楽において雑音は排除されなければならない。しかし、金星音楽団にとって、ゴーシュ自身が秩序をかき乱すノイズであり、迷惑そうに扱われている。ゴーシュは次第に動物たちを受け入れていく。それは音楽におけるノイズの効用の発見である。

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