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生きられた超人─長嶋茂雄(7)(1992)

第2節 "If you build it, he will come."
 長嶋が忘れっぽいのはあまりに有名である。それを非難するものはいない。長嶋は一切のものを忘却する。忘却はルサンチマンを発生させない力だ。忘却は、子どもにおいて、最も発揮される。ルサンチマンを持たないものはすべてを忘却する。この忘却の力は恐るべき肯定の力だ。

 忘却の力について、ニーチェは、『ツァラトゥストラ』において、精神が遂げる「三段の変化」として次のように語っている。

 わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。
 精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
 どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。
 わが兄弟たちよ! なんのために精神において獅子が必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?
 新しい価値を創造する、──それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること──これは獅子の力でなければできない。
 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。
 新しい価値を築くための権利を獲得すること──これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。
 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。
 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?
 幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

 「駱駝」は「多くの重いもの」、すなわち思想上の重荷を負い、それに「辛抱強い」精神でもって耐え、そのことによって自らの「強さ」を感じるものである。「孤独の極みの砂漠」の中、第二の変化が生じ、「駱駝」から「獅子」へと精神は移行する。「獅子」は「自由」な精神である。それは自分の背負っていた重荷がいかなるものであるかを解明・認識し、この「巨大な龍」と闘うようになるのだ。しかし、「最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬ」ことを認識する「獅子」は「新しい価値を築くための権利を獲得する」ことができても、それを創造することは不可能である。

 「新しい価値」を創出するためには、「獅子」から「幼な子」へと精神はさらに第三段目の変化をする必要がある。「幼な子」は「無垢」と「忘却」の力を持っている。その力によって「幼な子」は「然り」という「聖なる」言葉を持つに至るのである。「創造の遊戯」のためには、「聖なる肯定」、すなわち「然り」がなければならず、その肯定によって「自分の意志を意志する」とき、「世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」。「幼な子」は生がどれだけ生き難いものとして現われても、にもかかわらず、過ぎ去った一切のことを「忘却」して、つねに現にある瞬間を最大限に生きようとする「無垢」に立ち返る力を持っている。「幼な子」になるとは、この「無垢」の力に立ち返ることである。「獅子」や「駱駝」はまだ反動的な評価の圏内にいるが、反動的な力を克服している「幼な子」はよいことを求め、わるいことは「忘却」する。

 「幼な子」は他人にとってよい子ではなく、自分にとってよい子になろうとする。つまり、ただたんに深く、または広く物事を認識する精神の力よりも、「生」に対する「聖なる肯定」によって「新しい価値」を創造することこそが必要なのだ。

 長嶋の思い描いてきた野球とはいたって単純で、健康的なものである。けれども、永遠回帰は単純再生産ではないし、「戦争は物事を単純化する」が、個々人の生の充実を目指す長嶋の単純志向は戦争とはかけはなれたものだ。「個々人の無差別と個々人の義務。人間性にさからう義務的な行為──すばらしく教訓的な葛藤。戦争をおこなうのは『国家』ではなくて、君主ないしは大臣である。言葉でもって騙してはならない」(ニーチェ『生成の無垢』)。

 勝つことは野球の目的であっても、すべてではない。ところが、「勝てば官軍」的思考が日本のプロ野球には蔓延している。倒錯しているのだ。一九世紀イギリスのマナーの本には次のような教えがある。「下品はいけない。しかし、下品になるまいとの努力を見せつけてしまうのもみっともない。失敗しないように、と冷や汗をかくくらいなら、失敗をした方がいい」。マナーとはタブーではなく、いささかユーモアを含んでいる。日本のプロ野球は「下品」極まりない。まったく「失敗」をしようとしないものはファシストだ。

 リダンダンシーにあふれている長嶋はこの「遠近法主義的倒錯」を批判する。長嶋は「理想」を「個々の生存をいかに肯定するか」に置く。野球の生み出すものが現実的にさまざまな生の苦しみを支え、見るものや携わるものを楽しく健康的に生かすようにプレーすること、野球をそう育成することである。それは「悦ばしきスポーツ(The Gay Sports)」になろう。

 この「ゲイ・スポーツ」は、オランダのヨハン・ホイジンガがメニッポス的諷刺の遊作『ホモ・ルーデンス』において指摘した現代のスポーツが失っている「遊びの内容のなかの最高の部分、最善の部分」の回復であり、さらなる創造である。遊びは腐敗してしまっている。「遊びはあまりに真面目になりすぎた」挙げ句、「真面目が遊びとなっている」。遊びは物事を多面的にする。文化の反対語が組織であり、自然や野蛮ではないように、遊びの反対語は真面目ではない。文化を創造する力は遊びである。

 遊びには愛が不可欠であるが、一三世紀のブラバンドの尼ハーデウィヒは、適切にも、愛は遊びと次のような詩を書いている。

愛こそ遊びなれ
そは何人もよくなし得ざる
よしこの遊びなせし者よくなし得ば
このわざを解する者のみぞ悩みを免れむ

 「愛こそ遊び」は「いき」、すなわち「無力・欠如・怨恨を“洗練”にすりかえるような倒錯」(柄谷行人『「いき」の構造』)を意味しない。「いき」なるものは無への意志だ。「官能性の精神化は愛と呼ばれる」(ニーチェ『偶像の黄昏』)。それが遊びと文化を結びつける。と言うのも、愛によって人は「おのれの苦を、おのれの受苦能力を、罪の解釈によって礼節あるものたらしめる必要がない」(ニーチェ『反キリスト者』)からである。

 プロのスポーツ選手である長嶋はホイジンガの問いに完璧に答えている。ホイジンガは、あの著作の中で、日本や日本語に関しても分析しているが、そこまで好意的にしなくてもいいよと苦笑したくなる。長嶋は「笑うことによって厳粛なことを語る」(ニーチェ『ワーグナーの場合』)。この長嶋的な回復を受けとめているのは、メニッポス的諷刺の体現者、あるいはグレン・グールドの化身イチローである。遊びは「幼な子」にしかありえない。「子供の遊びと彼が呼んだものは、人間のさまざまの思想のことであった」(ヘラクレイトス)。6と28はその約数の和がそれ自身に等しい完全数であり、その背番号を落合と江夏がつけていたことは象徴的であるということを考えるのも、楽しい遊びだ。遊びは祝祭ではなく日常の一部であり、日常が機能するには欠かせないものだ。日常への憎悪はルサンチマンの表出である。超人は究極の「ホモ・ルーデンス」、すなわち「ホモ・リーデンス」であろう。

 長嶋の遊びは真実である。しかし、これは先に提示した「大いなる虚」と矛盾しない。虚は大いなる虚と積極的になろうとすることによって、力の意味において、真実だからである。ゴルフの「パッティング・イズ・リッスン」をもじって、長嶋は「バッティング・イズ・リッスン」と言い、耳あてつきのヘルメットを被ろうとしない。あまり知られていない話だが、長嶋は、眼がよくない。メディアの前以外では眼鏡をかけている。長嶋は、そのため、老若男女を問わず、体に触れる。この触覚という感触が抽象的な長嶋の力の具体性を意味している。長嶋は抽象性と具体性が混在している。長嶋はすべての感覚を、第六感を含めて、動員する。ニーチェも視力が弱い。近代では、眼というものが偏重されている。眼の偏重は真実への盲点をもたらす。真実は具体性と抽象性の融合である。古代ギリシアでは、具体性を手放さないために、見ること以上に触れることが大切だ。遊びは具体的である。人間はどうしても眼というものに極端に頼ってしまう。実在はしていないが、ホメーロスは盲目だったと伝えられている。真実を知りすぎたものは視力を奪われてしまうのだ。神が嫉妬してしまうからである。

 キリスト教徒の青田“ブケノファールス”、あるいは“塩原多助”昇は、長嶋が監督に復帰したとき、「長嶋茂雄とは一つの“運命”なのだ。プロ野球そのものの存亡が問われる重大な危機に、プロ野球全体が、この男をもう一度呼び戻したのだ」と言ったている。立教大学経済学部経営学科を卒業しつつ、リック・クルーガーが『聖書』を読んでいた姿に、怒りをあらわにした長嶋は、ニーチェの『この人を見よ』を引用しながら、「なぜ私は一個の運命であるのか」という理由について次のように答えるだろう。

 わたしはわたしの運命を知っている。いつかわたしの名に、ある巨大なことへの思い出が結びつけられるであろう──かつて地上に例をみなかったほどの危機、最深処における良心の葛藤、それまで信じられ、求められ、神聖化されてきた一切のものを粉砕すべく呼び出された一つの決定への思い出が。わたしは人間ではない。私はダイナマイトだ。──だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもない──
 ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」──なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだから──わたしの語るところのものは真理なのだ──しかし、わたしの真理は恐ろしい。なぜならこれまで真理と呼ばれてきたものは嘘なのだから。──一切の価値の価値転換、これが、人類の最高の自覚という行為をあらわすためのわたしの命名である。
 わたしは不可避的にまた宿命を担った人間である。なぜというに、真理が数千年にわたる虚偽と戦闘をはじめる以上、われわれはさまざまの激動に出会わざるをえないであろうから。
 この道徳の真相を説き明かす者は、一個のやむにやまれぬ力、一個の運命である──彼は人類の歴史をまっ二つに断ち切る。すなわち人は彼以前に生きるか、彼以後に生きるかのどちらかだ。……真理の稲妻は、まさに、これまで最高の座を占めていたものを打ったのだ。それによって何が破壊されたか、それがわかる者は、そもそもまた何か自分の手中に残っているものがあるかどうかを、よく目をとめて見るがよい。
 ──わたしの言うことがおわかりだろうか?──十字架にかけられた者 対 ディオニュソス……

 要するに、一つの力、一つの永遠である長嶋が教えたことによるならば、「長嶋茂雄」などどこにも存在しない。長嶋は一つの生成である。長嶋がONについて語る際、王自身を称えるのではなく、ONの関係を賞賛するように、彼は力への意志によってすべてを解釈する。長嶋は人の名前も間違えるが、それこそが彼の解釈の力である。ちょっとしたジョークだ。長嶋とは誰かという問いそのものを、プロ入り直後、ホテルにチェックインする際、書類の職業欄に「長嶋茂雄」と記したように、長嶋は成立できないようにしているからだ。長嶋は問いではない。エピソードだ。長嶋は、むしろ、今ここを生きている自分自身に向きあって、それを完全に肯定する何ものかなのである。長嶋といかなる関係を結ぶことこそ重要だ。

 青田も長嶋を発見した人物である。彼もそれにより最大限の経験をしたことは間違いない。長嶋からいろいろな意味を読みとるのはかまわないが、長嶋に頼ることなく、自分自身として生きることこそ望ましいのだ。

 発狂した年に、ニーチェは次のような書簡を書き送っている。

アリアードネ王女、わが恋人へ
 私が人間であるということは、一つの偏見です。しかし私はすでにしばしば人間どものあいだで生きてきました。そして人間の体験することのできる最低のものから最高のものまですべてを知っています。私はイン土人のあいだでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした、──アレクサンダーとシーザーは私の化身で、同じものでは詩人のシェークスピア、ベーコン卿。最後にはなお私はヴォルテールであったし、ナポレオンであったのです。多分リヒャルト・ヴァーグナーでも……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやってきて、大地を祝いの日にするでしょう……時間は存分にはないでしょう……私のいることを天空は喜ぶことでしょう……私はまた十字架にかかってしまったのだ……
(一八八九年一月三日コージマ・ヴァーグナー宛書簡)

 当然かもしれませんが、私はフィガロとは割合親しい関係にあります。私がどれほどお人好しでいられるものか、ご理解いただくために、私の駄洒落の初めの二つをお聞かせしましょう。プラドーの事件を余り重大に考えないでください。私はプラドーであり、また父プラドーでもあります。あえて申せばレセップスでもあります。──私はわが愛するパリジャンに、ある新しい概念を与えようと思いました、──つまり、端正な犯罪人という概念をです。私はまたシャンビージュ──つまり、端正な犯罪人でもあります。第二の駄洒落。私は不滅なる者たちに挨拶を送ります。ドーテー氏はアカデミー・フランセーズの会員です。
Astu
 私の謙虚さを圧迫し、また不愉快でもあることは、結局、私が歴史のなかのあらゆる名前であるということです。
 私はどこへいくにも学生上着を着て、あちこちで誰彼の区別なく肩をたたいては、こういいます、──俺たちは満足しているのか? 俺は神だ、俺はこんなカリカチュアをしてしまったのだ……と。
 明日、息子のウンベルトが可愛いマルゲリータを連れてやってきます。私もここでシャツ一枚になって歓迎してやります。
 コージマ夫人……アリアードネ……のために残された物がときどき魔法にかけられます。
 私はカイバスを鎖につながせてしまいました。私も去年ドイツの医者たちにひどく長ったらしいやり方で十字架にかけられました。ヴィルヘルム・ビスマルクとあらゆる反ユダヤ主義者は罷免されよ!
 バーゼルの人たちから尊敬を受けている私をみくびることもないこの手紙を、貴兄は利用できます──
(一八八九年一月六日ヤーコプ・ブルクハルト宛書簡)

 長嶋とは、今ここに生きるわ人にとっての自分自身を代理するものだ。草野進が、フィールドに彼の姿の影さえ認められない状況で、「ナガシマー」という叫び声を耳にしたことが二度もあると報告しているように、「長嶋茂雄」は「歴史のなかのあらゆる名前である」。それは単独的な固有名詞を取り戻す試みである。大衆の時代では、固有名詞は、メディアによって、デリバリーされている。そのため、偽の固有名詞はすぐに消滅してしまうが、真の固有名詞は、むしろ、反復され、増幅する。記憶の中にも、密かに、それは増殖している。長嶋を忘れたとき、あの問いが回帰してくる。その問いに対して、映画『フィールド・オブ・ドリームス』のあの言葉を思い出せばよい。"If you build it,hee will come."永遠に、「歴史のなかのあらゆる名前である」長嶋を使い捨てることはしない。長嶋茂雄は永遠に流通し続ける力なのである。「変化する者だけがあくまで私と親近である」(ニーチェ)。

 長嶋茂雄──alias 力への意志、永遠回帰、あるいは生成の無垢……
〈了〉

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