西田幾多郎、あるいは暗黙知の研究(1)(2010)
西田幾多郎、あるいは暗黙知の研究
Saven Satow
Sep. 28, 2010
「イマダモッケイタリエズ」
双葉山定次
第1章 『善の研究』
ついさっきまでよろよろとふらつき、足ばかりついていたのに、突然、ペダルを続けざまにこげるようになる。よほどの心身の偏重が起きない限り、その人は自転車の乗り方をもう忘れない。ところが、それを言葉で説明することができない。言語による知識として習得したわけではなく、経験を通じてコツを獲得したからである。
西田幾多郎はそれを「純粋経験」と呼ぶ。
純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。
(『善の研究』)
純粋経験は集中して、無心になっている状態である。西田は、知識の上での真理と実践の上での真理とは一致しなければならないと主張する。いかに生きるべきかを問うには、そのため、「天地人生の真相」や「真の実在」を知ることから始めねばならぬ。この探求は、疑いようのない出発点、すなわち直接の知識を起点とする。それは自ら自分の意識現象を知覚する直接経験である。主観と客観、精神と身体、心と物という対立・分裂の根本にある。唯一の実在であるこの直接経験は、主客の対立も知情意の分離もない「独立自全の純活動力」であるという意味において、「純粋経験」と呼び得る。それは、身体化されながらも、全体的もしくは部分的に言語化できない「暗黙知」のことである。
暗黙知は繰り返しを通じて体得される知識である。身体に手続きとして内在化されるため、身体知や手続き的知識とも呼ばれる。反復練習によって否定や禁止、区別のポイントをつかみその行為ができるようになる。やり方を尋ねられても、「それは違う」としか往々にして答えられない。他方、言語化できる知識が明示知や形式知、宣言的知識である。自転車の乗り方は口で説明するのが難しいので前者、自転車のパーツの名称は後者に分類できる。
難解や深淵として語られる西田哲学であり、その解説書も数多く刊行されているが、率直に言って、大半は明晰さに欠ける。しかし、特殊な用語に気をとられず、彼のテキストを公理系と捉え、粘り強い論証を追い、そのエッセンスだけを汲みとれば、彼の哲学は暗黙知の研究に集約できる。どの作品を読んでも、そこで繰り返し登場してくる概念が具体性を欠いているため、理解のキーにならない。西田哲学の魅力は、暗黙知の謎と結びついている。内在を強調する宗教思想がしばしば西田を援用するのもそのためである。
西田は『善の研究』の序で「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」と言っている。自我の存立よりも経験の方がより根本的であり、「純粋経験」、すなわち暗黙知を唯一の実在としてそこから世界を説明し、主客の統合を見出している。
西田は、『善の研究』において、その自己について次のように述べている。
主観と客観とは相離れて存在するものではなく、一実在の相対せる両方面である、即ち我々の主観というものは統一的方面であって、客観というのは統一せらるる方面である、我とはいつでも実在の統一者であって、物とは統一せられる者である(爰に客観というのは我々の意識より独立せる実在という意義ではなく、単に意識対象の意義である)。たとえば我々が何物かを知覚するとか、もしくは思惟するとかいう場合において、自己とは彼此相比較し統一する作用であって、物とはこれに対して立つ対象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前の意識を見た時、自己を対象として見ることができるように思うが、その実はこの自己とは真の自己ではなく、真の自己は現在の観察者即ち統一者である。この時は前の統一は已に一たび完結し、次の統一の材料としてこの中に包含せられたものと考えねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決してこれを対象として比較統一の材料とすることのできない者である。
自己は純粋経験によって確立される。先の通り、純粋経験が唯一の実在であるとすれば、客観的世界の統一する力と主観的意識の統一する力とは同一であり、世界は同じ実在の分化・発現したものである。自己の内部にある統一力の根源において、実在の根底であり、精神と自然の合一に到達できる。
これを暗黙知の問題で言い換えてみよう。ネイティヴ言語、すなわち獲得言語は純粋経験、すなわち暗黙知の好例である。母語は経験を通じて獲得された言語であり、使いこなせるが、その用法の根拠を一般の話者は説明することができない。けれども、ネイティヴ・スピーカー同士は、それを理論的に言えなくても、会話が成立する。彼らは暗黙知によって結びついている。客観的世界の統一力と主観的意識の統一力が暗黙知において同一になる。自己はこうした純粋経験によって形成されている。
その上で、西田は、『善の研究』において、「善とは自己の発展完成である」と次のように述べている。
善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而してこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根柢における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するというはこの力に合一するの謂である。善はかくの如き者であるとすれば、これより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う。
善は暗黙知への意志である。習得言語は学習した範囲のことしかわからない限界がある。しかし、獲得言語は暗黙知であるから、それがなく、無限だと言える。暗黙知は自己と不即不離であり、はっきりと言語化できない。暗黙知への意志は、そのため、「意識の統一力であると共に実在の根柢における無限なる統一力の発現」となり得る。
西田は暗黙知をどのようにして獲得・形成されるかについて一切言及せず、ここまで言えばわかるだろうと促すだけである。こうした記述をとるのは、その過程を明らかにすると、客観性・実証性が前面に出てくるため、暗黙知が形式知となってしまうからである。
近代日本が西洋哲学と本格的に接触したとき、その学問は人文科学の一分野にまで衰退している。17世紀、ルネ・デカルトやブレーズ・パスカル、ゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツといった当代最高の哲学者は時代の最先端を切り開く自然科学者でもあったが、19世紀後半には、バートランド・ラッセルのような例外はいるものの、その栄光は見る影もない。哲学は、部分的にその意義を認めつつも、客観性・実証性を志向する自然科学や社会科学と対立することで、アイデンティティを維持しているかのようでさえある。近代哲学は主観主義=解釈に活路を見出し、主観の側から主客の再統合を試みる。実存主義や解釈学を始めとする近代哲学はミクロ哲学である。
近代日本初のアカデミズム哲学である西田哲学も、こうした状況から無縁ではない。西田は、西洋哲学の影響を最小限に抑え、文献学など歴史的アプローチを拒否し、参禅経験に基づいて理論を展開する。そうした彼の哲学も、西洋の動向同様、主観主義に属する。それは大正の時代風潮から歓迎される。近代国家形成という目標が一段落つき、「個人」が知識人の間で主要課題の一つになると、白樺派が1910年に刊行された西田の『善の研究』を熱烈に受容する。さらに、教養主義の旧制高校生の必読書に位置づけられる。
いかに生きるべきかという問いは近代的なものである。前近代において人の将来は身分や職能によって規定されている。移動や職業選択などの自由が認められていなければいかに生きるべきかという選択はあり得ない。ただ。近代に入ったとは言え、実質的にそうした選択の自由を享受できたのはエリート層だけである。自由を手にした彼らは人生論を読み、選択決定の参考にする。学歴貴族である旧制高校生が『善の研究』を愛読したのにはそうした背景がある。
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