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安全な自動車とリスクホメオスタシス(2013)

安全な自動車とリスクホメオスタシス
Saven Satow
Nov. 02, 2013

「油断大敵」。

 今、国内自動車メーカーは、エコと並んで、安全性を消費者にアピールしている。もちろん、各社共に安全性を二の次にしてきたわけではない。ただ、従来は、エアバッグのように、事故に遭った際の被害の軽減が主である。それに対し、今は運転の負担を減らし、事故を防止することが広告に謳われている。

 その成功例が富士重工の「EyeSight(アイサイト)」だろう。これはプリクラッシュセーフティシステムと呼ばれる運転支援システムである。同社はこの商品によって売り上げを伸ばしている。

 こうした技術革新が進めば、交通事故が激減するのではないかと思いたくなる。けれども、その見通しが実現するとは限らない。自動車交通には人間の認知行動が関わっているからだ。

 自動車は典型的なマンマシン・システムである。それは人・車・道によって構成されている。交通事故で特に問題になるのは、居眠りやわき見をする人である。技術革新によって車の安全性を向上させれば、人の持つリスクを低下させられると考えたくなる。

 ところが、カナダの交通心理学者ジェラルド・J・S・ワイルド(Gerald J. S. Wilde)は、1982年、その認識に異議を申し立てる。彼はリスクには恒常性があると主張し、「リスクホメオスタシス理論(Risk Homeostasis Theory)」を提唱する。

 ホメオスタシスは恒常性のことである。暑くなると、汗をかき、寒くなると、身体が震える。人間はこうやって体温を一定に保とうとする。これがホメオスタシスの例である。

 このような恒常性がリスクにもあるとワイルドは指摘する。危険を回避する手段・対策をとって安全性を高めても、人はその分だけ利益を期待してより大胆な行動を選択する。そのため、リスクが発生する確率は一定の範囲内に保たれる。

 発表されるや否や、この説は激しい非難にさらされる。これでは安全性向上へ努力がまったくの徒労に終わってしまう。ワイルドは、研究を進め、リスクへの意識が変わらない限り、安全対策は有効ではないという結論に至る。しかし、これは経済学のモラル・ハザードを用いて説明できる。

 安全性の高い自動車に乗ると、ドライバーはそれに依存し、速度超過を始め交通ルールを守ろうという意識が低下する。自動車の安全性が高まると、その分、ドライバーはリスクテイキングしてしまう。経済学から見れば、決して突飛な見解ではない。

 とは言うものの、シートベルトを始め各種の安全対策の進展に伴い、交通事故数は減少している。しかも、対策のすべてをドライバーが知っているわけではない。ワイルドの指摘はドライバーの行動がリスクの知識に依存していることを前提にしている。安全対策はやはり交通事故減少に効果的である。

 ワイルドの理論を全面的に支持する人は少数である。けれども、この異議申し立ては交通行政の関係者の認識を改めさせている。リスクホメオスタシス理論と似た「リスク補償」は、実際、広く受容されている。これは対策による安全面のメリットを参加者がよりリスクの高い行動をとることで相殺ないし減少させてしまうことである。この考えは交通における安全対策の前提になっている。当局は、危険性が高いと実証された道路等を改善しても、それを積極的に公表しない。ドライバーのモラル・ハザードを危惧しているからだ。

 ワイルドの指摘が画期的だったのは個人にリスクの許容範囲があると認めた点だ。実際、人は運転していて、許容値を超えると、減速するなどリスクの回避行動をとる。自動車を運転しているのはやはり人間である。だから、あまりに信頼しすぎてはいけない。

 リスクホメオスタシス理論は、経済学の逆選択を用いると、拡張できる。安全性が売り物の自動車はリスクの高いドライバーがより購入する。運転に自信がなかったり、危険性の高い状況で乗らざるを得なかったりする人がそのハンドルを握る。こういうドライバーは元々リスクが高いのだから、自動車の安全性を相殺する。こうしたリスクの恒常性もあり得る。

 ワイルドの意義は、交通心理学研究が進展していく中で、見落としてきたものを確認させたことにある。その主張が正しいか否かが重要なのではない。交通参加者の認知行動を軽視して、安全対策をすれば、交通事故を防げるという楽観論は彼によって再考を促される。

 リスクを減らすはずの研究がそれをテイクさせていたのではないかという問いかけは新たなモデルの探求を生み出している。リスクホメオスタシス理論は交通心理学自体に向けられた考えである。自省と自戒をもたらす理論だ。

 リスクを減少させたと楽観的になることで、それを自ら招いてしまう。リスクホメオスタシスは、何も、交通心理学に限ったことではない。他の学問や実践、事業などでも見受けられる。もちろん、3・11の中にも思い当たることは言うまでもない。
〈了〉
参照文献
ジェラルド・J・S・ワイルド、『交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学』、芳賀繁訳、新曜社、2007年
蓮花一巳他、『交通心理学』、放送大学教育振興会、2012年

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