マスクのある風景(2)(2020)
第4章 スペインかぜと手洗い
新型コロナウイルスの感染予防策として、マスク着用の他に、社会的距離保持と並んで手洗いの重要性が説かれている。坂本龍一によるものを始め正しい手洗いの動画もYouTubeで数多く閲覧することができる。
手洗いが感染予防に効果的であることは次のニュースからも明らかである。NHKは、2020年5月8日 16時04分更新「クルーズ船の接触感染 実験で検証 新型コロナウイルス」において、手を通じた接触感染の広がりに関する次のような実証実験の結果を伝えている。
クルーズ船で感染拡大を招いたとされる接触感染がどのようにして起きるのか、NHKが専門家と共同で実験を行ったところ、ウイルスに見立てた塗料は多数の人が触るものを介して広がることが確認されました。クルーズ船では接触感染によって感染拡大を招いたとされていて、多くの人が集まるビュッフェ会場などで起きたと考えられています。
NHKは専門家と共同で、10人が参加する検証実験を行いました。実験では1人を感染者に設定し、せきを手でおさえた想定で、ウイルスに見立てた蛍光塗料を手のひらに塗り、30分間、自由にビュッフェを楽しみました。
その後、特殊なライトを当てて、青白く光る塗料を確認したところ、食器や手などの広い範囲に広がったことがわかりました。
塗料は参加者全員の手に広がり、3人は顔にもついていることが確認されました。
料理を入れた容器のふたや料理を取り分けるトング、それに、飲み物の容器の取っ手などを介して広がっていました。
一方で、感染対策として店員が料理を取り分けてトングも頻繁に交換し、客に、こまめに手を清潔にするよう促すと、塗料が付着した手の面積は30分の1に減り、顔に付着した人はいなかったということです。
聖マリアンナ医科大学の國島広之教授は「不特定多数が触れやすい場所はハイタッチサーフェスと呼ばれ危険が潜んでいる。リスクを意識して対策をとってほしい」と話しています。
この実験は手を通じた接触感染の広がりが想像以上であることを明らかにしている。手洗いを積極的に行えば、感染経路を絶てるので、その危険性を下げられる。感染抑制における手洗いの重要性が説かれてきた通り、その効果はやはり大きい。
しかし、日本政府によるスペインかぜの感染予防啓もう活動には手洗いが含まれていない。もちろん、手洗いが当時の日本で知られていなかったわけではない。手洗いの効用は、欧米に強く影響された医学界ではすでに浸透している。
日常生活の習慣や宗教的儀式はともかく、西洋において医療行為の際に手洗いするようになった歴史は決して古いことではない。それは19世紀半ばのオーストリア=ハンガリー帝国の医師センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ ( Semmelweis Ignác Fülöp)がその効用を訴えてからである。彼はドイツ系ハンガリー人であるため、イグナーツ・フィーリプ・ゼメルヴァイス (Ignaz Philipp Semmelweis)とドイツ語による名前で記されることもある。この手洗いのドクターは消毒法の先駆者として知られ、「母親たちの救い主」とも呼ばれる。
ガレノスの呪縛から解き放たれたものの、19世紀半ばに至っても、産褥熱の発生数が多く、それによる妊産婦の死亡率も高い。ウィーン総合病院第一産科は、助産師による出産に比べて死亡率が3倍にも及んでいる。ここに勤務する医師センメルヴェイスは、両者の産褥熱の発生数を調査、その差の原因を探求する。彼は、医師と違い、助産師が出産に先立ち手洗いを行っていることに気がつく。死亡率の差はこの行為にあるのではないかと推測し、産科の医療現場にもそれを取り入れる。産科医が次亜塩素酸カルシウムで手を消毒することで産婦の死亡率が1%未満にまで下げられることを確証、1858年、その成果を『産褥熱の病理─概要と予防法(Die Aetiologie, der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers)』として出版する。
ところが、手洗い法は当時の医学界に受け入れられず、センメルヴェイスは激しい非難にさらされる。1865年、彼は精神に変調を来たし、精神科病棟に入院する。陥った疾病はおそらく適応障害と思われる。だが、彼は凶暴な患者と見なされ、拘束衣を強いられたり暴力を振るわれたりしている。センメルヴェイスはそうして受けた外傷が原因で膿血症により47歳の時に亡くなっている。「膿血症(Pyaemia)」は転移性の広範な膿瘍を引き起こす敗血症の一種である。怪我をした際、ブドウ球菌などの化膿菌が病巣から血液中に入り、それを通じて他の部位に化膿巣を多発する。消毒法や抗生剤が普及する以前には致命的な疾患である。センメルヴェイスの死は彼の理論への否認が招いた悲劇だ。しかし、その痛ましい最期から数年後、ルイ・パスツールが細菌論、ジョセフ・リスターが消毒法を確立し、センメルヴェイスの理論は広く認められるようになる。
病原体説の定着と共に、医療行為における手洗いは常識になる。ただ、これは手洗いと言うよりも、消毒である。一般の人々の間で石鹸を使った手洗いが感染症予防のために普及するのはまだまだ先のことである。少なくとも、日本では高度経済成長を待たねばならない。
石鹸の工業生産は日本でも近代に入ってから始まる。1873年(明治6年)、堤磯右衛門が1本10銭で棒状の洗濯石鹸を販売する。その後、1890年、長瀬富郎が「花王石鹸」を製造、桐箱に3個入って35銭で販売している。当時は米1升が6~9銭である。石鹸は非常に高価で、誰もが買えるものではない。ただ、明治後半には都市部であれば庶民にも手が届くようになっている。
しかし、人口の大半が住む農村部において石鹸で手を洗うことはそうたやすくない。地方ではサイカチを食器洗いや洗濯に使っている。サイカチは落葉高木で、国内の山野や河原に広く分布し、莢が石鹸として古くから利用されている。
また、水道の全国的普及が進んでいない。1887年(明治20年)、横浜で初の近代水道が布設される。これは、港湾都市において海外から持ちこまれるコレラなどの水を介した感染症が広がることを防ぐ目的で始められたものである。横浜に続き、89年に函館、91年に長崎と港湾都市を中心に次々と水道が整備されていく。しかし、その後の普及は必ずしも進まない。水道事業が始まって70年以上経った1958年においてでさえ、給水人口約3700万人で、普及率約41%にとどまっている。水道が飛躍的に整備されるのは高度経済成長以降のことである。
水道が普及する以前、人々は井戸を利用している。それには釣瓶や手漕ぎポンプで水をくみ上げる必要がある。水質もさることながら、そう頻繁に手洗いすることに水を使用することが難しい。
今日でも、安全な水の確保ができないために、感染予防の手洗いが困難である地域が世界には少なくない。ユニセフは、2020年3月13日、30億人が家で手洗いができないせいで、新型コロナウイルスの感染に見舞われる危険性があると警告している。この30億人は世界人口の4割に相当する。
石鹸と水をめぐる環境がこのようであれば、手洗いの効用を認識して政府が啓発活動をしたとしても、効果は限定的だっただろう。ただ、こうした事情だけが手洗いへの無関心な理由ではないことを伝える当時の記録がある、
宮沢賢治は、1918年12月26日から翌年3月3日まで、東京でスペインかぜに罹患した妹トシを看病している。日本女子大で学ぶ彼女は12月20日から東京帝国大学医科大学付属医院小石川分院に入院する。賢治は母イチと雑司ヶ谷の雲台館に宿をとり、トシの看病に当たり、病状を父政次郎に何度か書き送っている。
賢治は、1919年1月4日付父宛書簡において、「先は腸チブスに非る事は明に相成り候。 依って熱の来る所は割合に頑固なる(医師は悪性なると申し候へども単に治療に長時を要する意味に御座候)インフルエンザ」とし、「今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候由」と伝えている。さらに、「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剝(えんぼつ)にて咽喉を洗ひ候」とも記している。塩剝は塩素酸カリウムのことで、主な用途は爆薬やマッチ、染色、酸化剤、殺虫剤、除草剤、消毒などである。現在では消毒としての使用はあまり一般的ではない。ただ、当時すでに消毒や薬品によるうがいが感染予防に積極的に利用されていることがこの書簡からわかる。
しかし、手洗いの記述はない。地方の農村ならいざ知らず、石鹸や水の事情がよい都心で大学病院の医師が手洗いを進めていなかったと考えざるを得ない。当時、病原体は不明とされ、それがインフルエンザウイルスと明らかになったのは1933年である。けれども、インフルエンザが呼吸器系の疾患で、うがいの他に「予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け」の言及から呼吸を通じて感染すると思われていたことが推測できる。手を通じた接触感染の可能性がこの頃には考慮されていなかったと考えざるを得ない。そのため、政府が手洗いを感染症予防策として啓蒙していなかったのだろう。
手洗いはこうした事情により感染予防策として国内で認知されていなかったと思われる。一方、政府はマスク着用を積極的に呼びかけている。にもかかわらず、それが期待以上に効果を出せず、マスクのある風景を形成していない。その理由を明らかにしているのが菊池寛の『マスク』である。
第5章 ポリアンナ効果とマスク
新型コロナウイルスの流行はマスクのある風景をノーマルにしている。この状況下、改めて読み直されている作品として菊池寛の『マスク』を挙げることができる。彼の出身地の香川県高松市にある菊池寛記念館が特別展示「菊池寛とマスク」を開催、市も公式ホームページ上でこの短編を公開している。
「マスク」は、20年7月、雑誌『改造』に発表され、スペインかぜの感染予防に躍起になった菊池寛自身の日々を振り返る短編小説である。菊池寛は当時まだ30歳だったが、心臓が弱かったため、スペインかぜにかかって40度ほどの熱が続けば「もう助かりつこはありませんね」と医師から告げられる。怯えきった彼は、その冬、極力外出せず、家族にも控えさせる。菊池寛は予防策としてうがいを徹底し、やむを得ず外出する時には、「ガーゼを沢山詰めたマスクを掛け」て用心している。しかし、巷の人々の多くはマスク着用や外出の自粛を躊躇しがちである。そのため、彼は、せきをする来客があると、「心持が暗く」なる。菊池寛は、こうした風潮に対して、「病気を恐れないで、伝染の危険を冒すなどということは、それ野蛮人の勇気だよ。病気を恐れて、伝染の危険を絶対に避けるという方が、文明人としての勇気だよ」と批判する。そう思う彼は、感染者が大幅に減っても、マスクを着け続ける。
内務省の『流行性感冒』が述べている通り、「ガーゼを沢山詰めたマスク」に感染することを防止する効果はない。また、うがいも回数が限られるため、効果は期待できない。鼻や口の粘膜に付着したウイルスはごく短期間に感染するとされ、うがいでは間に合わず、現在は予防策として推奨されていない。菊池寛がインフルエンザを発症しなかった主因はマスクではなく、おそらく外出自粛のように思われる。
「病気を恐れないで、伝染の危険を冒すなどということは、それ野蛮人の勇気だよ。病気を恐れて、伝染の危険を絶対に避けるという方が、文明人としての勇気だよ」。この菊池寛の意見は、感染がこれほど広がっているにもかかわらず、多くが自分だけは大丈夫と楽観的に考えていたことを物語る。
それは「ポリアンナ効果(Pollyanna Principle)」である。この名称は、1913年にエレナ・エミリー・ホグマン・ポーター(Eleanor Emily Hodgman Porter)が著わしたベストセラー小説『少女ポリアンナ((Pollyanna))と『ポリアンナの青春(Pollyanna Grows Up)』の主人公ポリアンナにちなんでいる。『少女ポリアンナ』は1920年に『青春の夢』、60年に『ポリアンナ』として映画化されている。
J・ブーシェ(J. Boucher)とC・オスグッド(C. Osgood)が1969年に「ポリアンナ仮説(The Pollyanna Hypothesis)」としてポジティブな言葉を用いる人間の普遍的傾向の分析を発表する。この研究以降、ポジティブな思考やその行きすぎの心理をめぐる考察の際に「ポリアンナ効果」が取り上げられるようになる。これは現実逃避の楽天主義で、正常性バイアスの一種である。問題に直面した際、その枝葉末節の都合のいい部分だけを認知して自己満足したり、現状より悪い他の状況を想定して今そうではないと安心したりする心理操作だ。 問題があっても、現実から逃避し、その解決に取り組まない。
そうした気分を示しているのが物理学者で随筆家の寺田寅彦による『変った話』の中の「四 半分風邪を引いていると風邪を引かぬ話」である。これは1934年3月に『経済往来』に連載した随筆で、この「風邪」はスペインかぜのことではなく、季節性インフルエンザを差している。ここで彼は「マスクをかけて歩く人が多いということは感冒が流行している証拠にはならない。流行の噂に恐怖している人の多いという証拠になるだけである」と記している。スペインかぜの頃と違い、1934年においては感染症予防にマスクという認識が広く社会に浸透していたと思われる。
寺田寅彦は「抵抗力の弱い人」が「抵抗力の強い人」より「風邪」を引いても重篤になりにくいと説く。「抵抗力の弱い人」は流行初期から発症、健康に自信がないので、異変を感じると、素早く対応する。そのため、インフルエンザに罹患しても、軽症ですむ。他方、「抵抗力の強い人」は流行初期には発症せず、健康に自信があるので、異変を感じても、無理をしてしまう。そのため、重症化しやすい。「危険線のすぐ近くまで来てうろうろしているものが存外その境界線を越えずに済む、」。これは菊池寛の「病気を恐れないで、伝染の危険を冒すなどということは、それ野蛮人の勇気だよ。病気を恐れて、伝染の危険を絶対に避けるという方が、文明人としての勇気だよ」に沿った主張である。
ただし、寺田寅彦は、「統計」を根拠にしているが、それがどのようなものかの言及がなく、「抵抗力」が何を指すのか不明である。流行の初期と最盛期の致死率の違いなのか、あるいは年齢や基礎疾患の有無によるリスクの高低なのか、はっきりしない。菊池寛の『マスク』の主人公は基礎疾患があるためハイリスク・グループに属しているとわかるが、この随筆はそうした具体性に欠ける。なお、一般的な季節性インフルエンザは免疫力の弱い乳幼児と高齢者の死亡率が高いが、スペインかぜは比較的強いとされる若年成人が高率で、原因は今も研究されている。
その上で、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』の結末、すなわち免疫を持たないために地球の感染症による火星人の全滅に触れ、寺田寅彦はマスク着用について次のように結論付けている。
あまり理想的に完全なマスクをかけて歩いているとついマスクを取った瞬間にこの星の国の住民のような目に会いはしないか。そんなことを考えると、うっかりマスクを人にすすめることも出来ない。それかと云ってマスクをやめろと人に強しいる勇気もない。ただ世の中にマスク人種と非マスク人種との存在する事実を実に意味の深い現象としてぼんやり眺めているばかりである。
寺田寅彦はマスクを他者に感染させることではなく、自分が感染することの予防策と捉えている。そうしたマスクは無菌状態をもたらし、それに依存することはかえって健康に好ましくはないと考えている。この流れから判断するなら、彼はマスク着用に肯定的ではない。
今日では、健康状態がよいと、免疫力があるので、インフルエンザウイルスに感染しても概して無症状・軽症ですむというのが通説である。ところが、寺田寅彦の意見は異なっている。それは、病原体にほぼ日常的に触れて軽く病気にかかっていると、重篤な状態にならないというものである。生活環境や栄養などの改善は考慮されていない。
寺田寅彦のマスクに関する理解が当時の支配的な認識であったとしても、そこから敷衍される発想には自然科学者と思えない乱暴さがある。彼は、「抵抗力」をつけるために、マスク利用をほどほどにしたらよいと暗黙裡に主張している。過保護にならず、普段から感染症に軽くかかって抵抗力をほどほどに強めることを勧めているわけだ。確かに、罹患によって作られた免疫機能が再度の抗原接触を通じてそれが強化されるブースター効果を示すウイルスもある。麻疹が代表であるが、これを野放図に拡張するのは粗い。
人類にとって感染症は最大の脅威の一つであるから、かからないような行動を経験的にとってきたことだろう。しかし、注意を払ってきたとしても、病原体が体内に侵入してしまうことがあり、それに対抗するために免疫システムが進化してきたと考えられる。
この随筆は1934年の作であり、かのパンデミックについて病原体がウイルスであるなどインフルエンザのいくつかの特徴が明らかになっている。新興感染症は誰もが免疫を持っていないし、ウイルス性感染症には変異するものがある。また、衛生環境や食糧事情、移動動向、医療制度の影響も大きい。だからこそ、流行の波が3度もあり、犠牲者もあれだけ出ている。スペインかぜに直面した地球人はあの火星人と同じ状況に置かれたのであり、なおかつ日本ではマスク着用が普及していない。そもそもワクチンにしても、科学的に毒性を制御しているのであって、自然に任せておけばうまくいくとするのは楽観的すぎる。そうした知識に基づき、ブースター効果を利用して複数回ワクチン接種することも行われている。寺田寅彦の主張はポリアンナ効果としか思えない。
「意味の深い現象」なのは、マスクが感染の自衛手段と捉えられると、「世の中にマスク人種と非マスク人種」が存在するようになることだ。マスクが感染に対する自衛策であるなら、その着用は個人の選択の自由に委ねられ、する人としない人が出現する。そこに価値観が反映する。自分は健康体で、マスクに頼らなくても平気という認知の人が現われる。その際、寺田寅彦のように「半分風邪を引いていると風邪を引かぬ」と自身のライフスタイルを正当化する理屈づけもあるだろう。マスクをする人は病弱であり、自身は違うと着用を毛嫌いするだろう。勧められても、マスク着用は個人の自由であり、自分はルーザーではない、あるいは面倒くさいから着けないと抵抗するに違いない。
もちろん、こうした理解は今日では時代離れしている。マスクは他者に感染させないためのものだからである。マスクは自身が感染しないようにするという私的利益のためのものではない。他者に感染させることを避ける公益に基づいている。
ドナルド・トランプ米大統領が当初マスク着用を拒否し、今も渋々しているようなのは、彼の頭が古いからである。彼のマスクに関する理解は感染することの予防にとどまっている。PCR検査も繰り返し、自分は感染していないから他者に移す危険性がないので必要ないとするのは強弁にすぎない。マスクは無自覚な感染を予防するために推奨・義務化されているのであり、そういうポリアンナ効果の危うさに陥らないことにある。なお、PCR検査にも偽陰性が含まれることも知られている。
近代は公私分離を基本原理にしている。私的選択に公的権力が干渉してはならない。しかし、新型コロナウイルス予防のためのマスク着用は自衛策ではない。他者への感染の予防策である。それは公共の福祉に基づいている。大統領は公人であり、その行動はもっぱら公的領域に属する。かりに感染していなくても、大統領は公人として公共の利益のためにマスク着用を国民に示さなければならない。
合衆国などで見られるマスクをしないことは個人の自由だとする意見は誤っている。それはJ・S・ミルの『自由論』の危害原理に抵触するからだ。ミルはこの著作において近代的自由の基礎づけを行う。彼は他者に危害を加えない限り、個人の自由を認めなければならないと説いている。言い換えるなら、他者に危害が及ぶなら、個人の自由は制約され得る。朝から飲酒しても、それは個人の自由だが、旅客機のパイロットが酔っ払って操縦かんを握ることは乗客などを危険にさらすので許されない。同様に、マスクをしていなければ、他者に感染させてしまうかもしれない。感染させた場合、他者の健康を害してしまう。マスクをしない行為はこの危害原理に抵触するため、自由とは認められない。
マスクは公共性・公益性の表象である。新型コロナウイルスは公衆衛生を通じて近代の基本原理である公私分離の再検討をもたらしている。だからこそ、マスク着用に抵抗する人も出現する。しかし、マスクは新たな公共性・公益性として世界をカバーする。現在のマスクのある風景は過去のものと違う。それは公共性・公益性の再認識を促すものだ。これがこの新たな日常の風景の「意味」である。
新型コロナウイルスの早期の終息を願い、福島県会津美里町の寺で108体の地蔵にマスクをかける行事が行われました。
会津美里町にある会津薬師寺では、40年以上前から毎年、この時期に境内にある地蔵に頭巾と前掛けをかける行事をしています。
ことしは住職の発案で、檀家たちが手作りした布製のマスクをかけることになり、23日、早朝から檀家や寺の関係者が集まって、用意した3種類の大きさのマスクを、108体の地蔵に丁寧にかけていきました。
作業が終わると、参加した人たちは花を供えて静かに手を合わせ、住職が新型コロナウイルスが早期に終息するようにと願い事を唱えました。
マスクを手作りした佐山幸さんは、「マスクをつけたお地蔵様の表情はとてもかわいいのですが、コロナは終息してほしいです。来年はできたらマスクをつけたくありません」と話していました。
住職の筒井叡観さんは、「お地蔵様はすべての願いを聞いてくれると言われますが、マスク姿のお地蔵様を見て、私たち一人ひとりがコロナに感染しないため、人に感染させないために何をすべきか考えてほしい」と話していました。
(NHK『新型コロナ終息願って 地蔵にマスク 福島 会津美里町』)
〈了〉
参照文献
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2018年
多田羅浩三他、『公衆衛生』、放送大学教育振興会、2009年
内務省衛生局編、『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』、平凡社、2008年
森津太子、『現代社会心理学特論』、放送大学教育振興会、2011年
宮沢賢治、『宮沢賢治全集』9、ちくま文庫、1995年
寺田寅彦、「変った話』、『青空文庫』、2003年2月24日更新
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4359_9286.html
「新型肺炎30億人が家で手洗いできず世界の4割、ユニセフが警告」、『財団法人日本ユニセフ協会』、2020年3月13日
https://www.unicef.or.jp/news/2020/0047.html
「109年前に及ばない世界…1911年の中国満州ペスト流行では12カ国が集まった」、『中央日報』、2020年4月21日18:02更新
https://s.japanese.joins.com/JArticle/265108?sectcode=A00&servcode=A00
林幹益、「『マスクかけぬ命知らず!』動揺、100年前の日本でも」、『朝日新聞』2020年4月26日 16時00分更新
https://www.asahi.com/articles/ASN4S4CYPN4FUTIL01M.html
「クルーズ船の接触感染 実験で検証 新型コロナウイルス」、『NHK』、2020年5月8日 16:04更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200508/k10012422171000.html
「伝染病とマスクの歴史、20世紀満州でのペスト流行で注目」、『AFPBB News』、2020年6月7日 9:00更新
https://www.afpbb.com/articles/-/3284745
「菊池寛とマスク」、『高松市公式ホームページ』、2020年6月30日更新.
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/kikuchikan/mask.html
「マスクが美容院でのコロナ感染拡大を防ぐ 米CDC報告」、『AFPBB News』、2020年7月15日 13:27更新
https://news.line.me/issue/oa-afpbb/2pkdb7gqcffu?utm_source=Twitter&utm_medium=share&utm_campaign=none
「トランプ氏『マスクは大賛成』 態度を転換」、『BBCニュース』、2020年7月2日更新
https://www.bbc.com/japanese/53259859
「(天声人語)宙に浮く8千万枚」、『朝日新聞DEGITAL』、2020年7月31日 5:00更新
https://www.asahi.com/articles/DA3S14569328.html?fbclid=IwAR1XvrRpvbm9z3YnbRT7ZutM47TyMt-9W7Kg6geN86XjLqyLarMk8bQBnpU
「余録『日紡大垣工場に奇病発生』…」、『毎日新聞』、2020年7月31日更新
https://mainichi.jp/articles/20200731/ddm/001/070/131000c?fbclid=IwAR1Wh8mPHiLZjdk2MQ-LWwvZ7Ys-RHogp6abwCN5LjuptqHhKTxzHrHAv00
「飛まつの量 マスクの素材や形で異なる 米大学の研究チーム」、『NHK』、2020年8月21日 5:05更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200821/k10012576561000.html?fbclid=IwAR3w2R_Q0JowHoLTORPfbNeMntNJkF8D2NeYC9pIVaajuE0aLouNqSEwnho
「新型コロナ終息願って 地蔵にマスク 福島 会津美里町」、『NHK』、2020年8月23日14:19更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200823/k10012579591000.html?fbclid=IwAR0a9HJp5gmi7alk8c71fEfhHtRcLhGCIbq79Z_8DjGms7hveICFy7smN8Q
ジャパンウォーター
https://www.japanwater.co.jp/
石鹸百科
https://www.live-science.com/
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