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持続可能社会と詩(2)(2010)

第2章 主観主義の時代
 近代詩は韻律からの解放を目指す。韻文は神々の言葉や共同体規範n基づいている。自由で平等な個人に基づく近代は、外的世界にしろ、内的世界にしろ、韻律によっては表現できない。スクラップ・アンド・ビルドが必要だ。韻律によらない詩の創作の方法を模索し、構築しようとしている。シャルル・ボードレールの散文詩やステファヌ・マラルメの批評詩はそうした試みの代表であろう。詩と散文や批評を分けていた韻律がなくなれば、詩人はそれらを越境する。近代詩は韻律の解体の詩と言うことができる。

 一方、現代詩は近代詩の解体作業をさらに押し進める。シュルレアリズムやダダ、未来派などモダニズム文学がその初期の運動である。諸世界の通路や壁を破壊し、それらを思うままにつなぎ合わせる。詩人は既存の意味を言葉から剥ぎ取り、新たな意味を付け加える。言葉は断片化される。現代において、詩はつねに革命的であって、その秩序はアナーキーである。こうした詩の動向が主観主義を求める。感覚は激しい変化や未知の状況に対して非常にすばやく判断を下せる。その反面、感覚を通じて得た知識は断片的である。現代詩にとって、主観主義は理想の同伴者である。

 T・S・エリオットの『荒地』は、その影響力も加味すれば、そうした現代詩の最高傑作の一つと言って差し支えなかろう。

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』に刺激された『荒地』には古今東西のテクストの典拠が満ち溢れ、英語のみならず、フランス語やイタリア語、ラテン語、サンスクリット語など多言語が使用されている。けれども、引用が縦横無尽であることは確かであるが、その必然性が感じられない。なぜここにこの引用がなされ、それは前の行といかなる関係にあるのかが定かではない。ここの引用が断片的で、作品は有機的に構成されていない。

 『荒地』は、全体を通じて、断片化の作業に貫かれているが、特に、最終連は粉々というイメージですらある。

London bridge is falling down falling down falling down
Poi s'ascose nel foco che gli affina
Quando fiam uti chelidon--O swallow swallow
Le prince d'Aquitaine a la tour abolie
These fragments I have shored against my ruins
Why then Ile fit you. Hieronymo's mad againe.
Da. Dayadhvam. Damyata.

 『荒地』は、今日では、エリオットの草稿にエズラ・パウンドが添削したことでも知られている。この天才を発見する天才は独白や感情表現を大幅に削り、典拠の効果を強調するように編集している。その方針は内面ではなく、言葉を中心にすえることである。けれども、これはパウンドの独断ではない。エリオットは、1919年、『伝統と個人の才能(Tradition and the Individual Talent)』において、「詩の非個性理論(Impersonal Theory of Poetry)」を提唱している。詩では個性は滅却されていなければならず、感情を前面に出してはならない。それを踏まえるならば、詩の批評は詩人のことを作品からあれこれ詮索するべきではない。詩そのものに焦点を当てて読解しなければならない。パウンドはこの非個性理論を尊重して校正したのであって、むしろ、エリオットの草稿の方が自身の詩論に反している。

 これ以降の詩は、賛同するにしろ、反対するにしろ、踏襲することが前提となる。それはル・コルビジェのモダニズム=機能主義建築が、フランク・ロイド・ライトの有機主義的建築を打ち負かして、世界中に20世紀建築の雛形として浸透したことを思い起こさせる。ロバート・ローウェルは、新批評と呼ばれる文学流派と共に、非個性理論に忠実な作品を表わし、他方、アレン・ギンズバーグなどのビート世代は、エリオットは生ぬるいとばかりに、感情を爆発させ、暴力的な詩を発表している。けれども、いわゆる実験的な作品を詩人が創作すればするほど、その奇抜な文体は現実社会から遊離ないし断片化することになり、それは独立した公理系の世界として扱われる。読者は断片化された一語一句を丁寧に解釈しなければならなくなり、それは負担どころか、苦役ですらある。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams)の死は読者をそうした苦痛から解放する。

I have eaten
the plums
that were in
the icebox

and which
you were probably
saving
for breakfast

Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold
(“This Is Just To Say”)

 小学生でも読めるほど平易な語彙と構文の口語体で、日常風景のスケッチといった趣である。韻律から開放されたとしても、詩は比喩や反復によって表現する文学ジャンルである。この反復は読誦する、あるいは声に出して読むこととも関連しているため、誰かに呼びかけたり、もしくは語りかけたりする文体で記すと、詩を感じさせる。挨拶や恋人たちの会話のように、人と人のつながりを確認し、強化するファティック・コミュニケーションは、自由詩における方法の一つである。けれども、ウィリアムズはそれをすれ違う人間関係に用いている。ウィリアムズの詩にも断片化とその再構成というコラージュが用いられている。彼は知識による人々の分断をそれによって描く。

 断片化は相互作用を排除した主観主義である。内面的描写を棄てれば、主観主義的ではなくなるわけではない。主観主義は、端的に言うと、アイロニーである。アイロニーに基づく限り、主観主義から逃れられない。相互作用を欠く必然性のない引用や記述の選択に自意識の優位さがある。些細な日常風景を選ぶとすれば、まさにその軽さゆえに歴史や世界の重さを転倒する自意識の権力意識がそこにはある。

 20世紀文学は、詩に限らず散文も演劇も、この断片化=多元的主観主義に覆い尽くされている。現代は固定したアイデンティティが失われた時代であるという意識や全体主義にとりこまれないために積極的に主観主義的に断片化すべきだという主張、窮屈な現実にショックを与える主観主義的な思いつきが有効だという戦略論、断片的であっても私という主観においてそれは統合しているという意見などさまざまである。だが、断片化が主観主義的アイロニーであることに違いはない。昨今の文芸誌の新人賞における受賞作は、相互作用を招かないように断片化して、それを精緻に描写する傾向が顕著である。極めて見え透いた主観主義的手法だが、驚いたことに、既存の文学者たちは誉めそやしている。想像を絶するほど文学者たちは知的に怠惰である。文学者たちは断片化こそ文学制作だど信じて疑わないようにさえ見える。

 断片化の時代が終わったことは、リーマン・ショックがよく物語っている。アメリカの投資銀行は、さまざまなリスクの債権を断片化して再構成した証券化商品を編み出す。それを世界各地の金融機関が購入したが、サブプライム・ローン問題が発覚し、手持ちの中にそれに関するものも含まれているかもしれないとパニックになり、金融不安が起きている。情報の非対称のために、あずかり知らぬところで、誰かが自分の債権を断片化し、それがグローバルに拡散している。その断片は決して独立してはおらず、相互作用を持っている。こうした状況において、従来の主観主義に基づく詩を読めるはずもない。

 詩から韻律が切り離される前までは、どれだけ主観的な告白をしようとも、形式の客観性が優位である。詩は典拠、すなわち過去のテクストを十分に理解した上で、それを踏まえていなければならに。韻律と典拠を共通基盤にして、詩のコミュニケーションが成り立っている。ところが、近代以降はそうした共時的・通時的共有が失われ、主観の同調がそれにとって代わる。それは対話ではない。詩人の主観に同調する読者は熱烈に愛好するが、そうでなければページを閉じる。

 詩の批評のみならず、創作にも、詩とその使用言語の暗黙知を明示化した上で、臨まなければならない。詩は自由につくればいいというアドバイスは、英会話教室で自由に話してくださいと促されるのと同じである。主観主義的同調は、主観主義に意義を見出して始めた試みであるが、タブー破り自身が目的化する。それは次第にエスカレートしていき、最終的に至るのは破壊と殺戮である。一見したところでは、心優しく気弱に見える主観主義的同調は恣意性と独善性に満ち溢れ、他者を排除する。詩人は同調ではなく、共有を目指すべきである。それにはその言語の明示知と市のリテラシーの明確化が不可欠である。詩は主観主義の呪縛から抜け出す必要がある。

 社会は変化している。あらゆるものが容易にグローバル化してしまう状況では、主観主義の多元性に可能性を見出すことはできない。今、次世代の社会構築のために国際社会がとり組んでいる多元的客観主義に眼を向けなければならない。その社会とは持続可能社会である。


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