三文批評、あるいはベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』(2)(2006)
第2幕 同じ作品、ブレヒトは出動の準備をしている。彼は悲惨さをデモンストレーションすることによって、劇的演劇をめちゃめちゃにしようと計画している
料理人 世の中なんてそんなものだけど、そうでなきゃならないというわけでもなかろうに。
(ブレヒト『肝っ玉おっ母とその子供たち』)
『三文オペラ』には不自然さと唐突さ、強引さが溢れている。しかし、それは素朴なパロディではなく、弁証法的なパロディである。観客が抱く登場人物と舞台進行に対する予見可能な特徴を裏切る。それが「異化効果」である。
ブレヒトは、1936 年以降、演劇をめぐる言説において、G・W・F・ヘーゲルに起源を持つ「異化」を用いている。舞台進行を驚くべきものにすることにより、観客の直観的感情移入や劇と現実との混同が妨げられる。
『三文オペラ』には、後に「異化効果」に含まれるブレヒト特有の手法がすでに実行されている。緞帳を使わず、舞台の額縁の4分の3付近にケーブルを張り、お座なりな幕を吊るし、それを手動で左右に開閉している。初演の舞台美術監督カスパー・ネーアーにちなみ「ネーアー幕」と呼ばれる効果により、照明が丸見えとなり、雰囲気はぶち壊しになる。また、幻灯で字幕や文章、表を投影し、客の注意が役者や舞台進行に集中しすぎないようにしている。客は、それらを通じて、そこが劇場にすぎないことを再確認する。
その異化効果は音楽において顕著である。『三文オペラ』では、音楽の果たす役割が極めて重要であり、たんにシナリオを読むだけでは不十分である。劇中歌の際には、特殊な照明で照らしたり、幕前で歌わせたり、奇妙な張物を下げるなど芝居との断絶を強調する。
後に、ブレヒトは異化効果として筋を中断する間奏曲や歌だけでなく、後に起こる出来事を予想するプラカード、プロローグとエピローグ、観客に対するアナウンスメントによる注意、ジェスチャー、比喩、背景なども試みている。これらの効果の多くは東洋の演劇や中世の笑劇にすでに見られる。ブレヒトは、1935年、モスクワで観た中国の俳優梅蘭芳から刺激を受け、異化効果に関する多数の論文を書いている。
テオドール・W・アドルノは「ベルクの『ヴォツェック』以降では私には『三文オペラ』が……音楽劇の最も重要な事件のように思われる。事実、真理によるオペラの再生とはたぶんこのように始まるのであろう」と賞賛する。『三文オペラ』はオペラでも、ミュージカルでもない。ブレヒトは従来のオペラやミュージカルの手法を批判している。感情の高ぶりから歌に転化するのは極めてカタルシス的だからである。ポリーがメッキ-スと結婚した理由をピーチャム夫妻に説明するシーンのはずなのに、既成の「バルバラ・ソング」を歌って寓話的に語っている。しかし、それは全然答えになっていない。
彼の前じゃ目を伏せて
しまうわたし。
月がきれいだったわ
ボートは繋いであったげど
でもだめだったのよ !
あんなにすぐ寝てしまったのよ
冷たくはできなかったわ。
いろいろされたけども
でも言えなかったの 「いや」って。
音楽は、ラジオ番組において音楽が流れを一度とめるように、筋を中断する。それは劇に対する意見や批評、註釈でさえある。
筋の中断──そのためにプレヒトは自分の演劇を叙事的と呼んだのだが──は、たえず観客のなかのイリュージョンをはばむ。すなわち、こうしたイリュージョンは、現実のなかにある諸要素を、実験の整理という観点でとりあつかおうとする演劇にとっては、まったくものの役にたたぬ。そして状況の提示は、この実験のはじめではなくおわりにある。それは、つねにさまざまな形で存在する、われわれ自身の状況である。が、その状況は、親しげに観客に近づいてくるのではなく、観客から離れたところにある。観客はそれを現実の状況として認識するが、それも自然主義の演劇のように自惚れによってではなく、おどろきによってだ。だから叙事的演劇は状況を再現するのではなく、むしろそれを発見する。この状況の発見を実現する手段が、劇の流れの中断である。ただここでいう中断は、魅力という特徴をもつのではなく、ある種の組織化の機能をもつ。それは、劇の流れのなかで筋の進行をとめることによって、観客にはできごとにたいする態度決定を、演技者には自分の役にたいする態度決定をせまる。一例をあげよう。ブレヒトの身ぶりの発見とその表現が、ラジオや映画で重視されるモンタージュの方法を、往々にして当世風の流儀でしかないものから人間的なことがらのなかにとりもどす作業にほかならない、ということがこの例からわかるだろう。──ある家庭内の場面を想像してほしい。ちょうど女房がブロンズをつかんで、娘に投げつけようとしている。親父はまさに窓をあけて、助けを呼ぼうとするところだ。この瞬間に、ひとりの他人があらわれる。事件が中断される。そこで、事件にかわって見えてくるものが、状況なのだ。いま、他人の限はその状況にそそがれる。とりみだした阪と顔、ひらいた窓、こわれた家共。しかし限がありさえすれば、今日の日常生活のもっとありふれた場面にしても、これとたいしてちがわない相貌をあらわすだろう。これが、叙事的な劇作家の限である。
(ヴァルター・ベンヤミン『生産者としての作家』)
音楽の異化効果の点では、ヴァイルの貢献が大きい。彼の不協和音は、時に不吉で、時に安っぽく、時にユーモラスである。
ヴァイルの音楽は、こんにち社会的・論争的な打撃力をもっている唯一のものである。そして、風が鋭いうなりをたてて吹きぬける。素直な風が。それをおしとどめる建物がなく、あたりの時間がまだ現実ではないところに、その風はある。「音楽愛好家向き」の歌手たつにしてみれば、ヴァイルは、せっかくの興味津々たる構想を、かれら自身の「民衆」のなかで、だいなしにしてしまったのだ。大砲のソングは、兵士は左にも住んでいること、だがそれはまともな兵士たちであることを、示した。そして海賊ジェニーは数瞬で、かつてのルイーゼ王妃と同じくらい民衆の心に近い存在となった。だれのヒット曲が、そして混ぜあわせる即興の悦楽が、いま力をもっているのかを、これほど明らかに示しているものはない。
(エルンスト・ブロッホ『三文オペラによせて』)
ルイ・アルチュセールは、『「ピッコロ」、ベルトラッチーとブレヒト』において、ブレヒト劇の「中心」の不在を指摘している。この「中心」の欠如は異化効果から生じている。ブレヒトは従来の演劇形式を「劇的演劇の形式」と批判し、異化効果に立脚する自らが目指す演劇を「叙事的演劇の形式」と命名している。
劇的演劇の形式
叙事的演劇の形式
行動的
叙述的
観客を舞台上のアクシヨンに巻き込むが、観客の能動性を消滅させる
観客を観察者にするが 観客の能動性を目覚めさせる
観客に感情を抱かせる
観客に決断を求める
体験
世界観
観客は何物かに引き込まれる
観客は何物かに直面する
暗示
議論
感情は保たれる
駆り立てられて覚醒に至る感情
観客は劇に入り込み、登場人物と体験を共にする
観客は演じられているものに向き合い、学習する
登場人物は既知という前提である
登場人物は研究の対象である
登場人物は不変
登場人物は変化可能であり変化する
結果を待ち受けるサスペンス
過程に対するサスペンス
各場面は連続的
各場面は自立的
成長
モンタージュ
単純で直線的な進展
複雑で曲線的
必然的な展開
突然の飛躍
固定された人物
プロセスとしての人物
思考が存在を限定
社会的存在が思考を限定
(ミハエル・トス『ブレヒト』)
叙事的は、ブレヒトにとって、文学的ジャンルに限定されるわけではなく、物語に対する語り手の批判的態度を意昧する。語り手は話をし、筋立てについて批評するが、物語と一体にならない。それにより、読者や観客は批判的距離を保ちながら、作品世界を観察し、議論できる。ブレヒトはこれを「科学時代の演劇」と称している。
異化は現代におけるコミュニケーション=公共性であり、真の劇場型民主主義であって、それを体現しているのが叙事的演劇にほかならない。主人公に感情移入するのではなく、その状況を弁証法的に思考する。俳優と観客の共犯関係はもうおしまいにしよう。彼は、1926年以降、自然主義的・表現主義的傾向と対比させつつ、叙事的演劇について展開していく。これからの演劇は現実に影響を及ぼす実銭的知識を伝え、唯物論的思想を教えなえればならない。そのためにも、異化効果は欠かせない。
劇的演劇と叙事的演劇の特徴を比較すると、それぞれ線形と非線形に対応している。「単純で直線的な進展」な劇的演劇がカタルシス的な線形的であるとすれば、叙事的演劇は「複雑で曲線的」であり、異化効果的な非線形的演劇と言える。
カタルシスに基づく演劇がまさに古代ギリシア以来蓄積されてきた線形的認識とパラレルに発展してきたのに対し、異化効果はそれでは把握できない非線形の顕在化と同じように出現している。非線形と叙事的演劇の関係についてはいまだ手つかずの状態であり、森毅が『非線形の世紀?』の中で21世紀を(留保をつけつつも)「非線形の世紀」と言っているように、それは現代において考察されるべき課題である。
20紀は劇場ではなく、スタジアムの時代である。ブレヒトは、ボクサーのザムソン・ケルナーの伝記を書いたほど、スタジアムやリングで行われるスポーツ観戦に熱中している。ボクシングのようなスポーツに比べれば、演劇など金持ち相手の気の抜けた道楽にすぎない。ブレヒトはスタジアムの時代にふさわしい演劇として叙事的演劇を提唱する。
一連の「教育劇」はこうした発想の延長上にある。そこでは、役者と観客の枠はとり払われ、社会的事象を観劇体験を通して学習する。劇場も不要である。芸術作品の商品性をパロディ化したり、芸術作品をたんなる消費される商品ではない。ブレヒトが共産主義青年同盟のアマチュア劇団のために書いた教育劇は、1920年代のドイツとオーストリアで、労働者の主体的な自己教育と組織化の機会をもたらしている。
しかし、これは企業の新人研修に近いマルクス主義の感化活動と言うよりも、今日の心理学におけるロール・プレイングに相当する。詐欺の手口を知っておけば、だまされにくいものだ。ブレヒトの教育劇をロール・プレイングの観点から考察される余地を残している。教育劇を通じて、俳優=観客は自己に対する異化を行う。
ロール・プレイングであるとすれば、社会的スキルないし社会的な型にはまった演技が要求される。ブレヒトがこよなく愛したチャーリー・チャップリンが『モダン・タイムス』で見せたのは、人間ではなく、資本主義における鋳型のような労働者である。こうした演技をブレヒトは「社会的動作」と呼ぶ。
それは、駅員なら指さし確認をするように、個人が他者との関係の上で用いる動作や行動、しぐさ、表情、用語、イ ントネーションの総体であり、その人のパーソナリティや社会的地位を表象する。こうした演技はゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラや東洋演劇に見られる。社会的動作は記号的な演技を意味する。演技は現実の再現ではなく、社会的な記号の表象である。
飲み屋のジェニー
何で生きるか?人間は他人を
絶えず襲って絞めてバラして生きるのさ。
これだけが生きる道
これだけは、よく覚えとけ。
合唱
みんな自惚れちゃいけねえ。
人間はみな悪で生きる!
叙事詩的演劇も含め、ブレヒトは固定化されることに極めて慎重で、弁証法的に移動し続ける。それは彼の自分自身に対する異化効果にほかならない。
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