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コギトイド─ルネ・デカルト(5)(2003)

第五部 A Clockwork cogito
 コギトイドは時計じかけのコギトである。

Alice sighed wearily. “I think you might do something better with the time,” she said, “than waste it in asking riddles that have no answers.”
“If you knew Time as well as I do,” said the Hatter, “you wouldn't talk about wasting it. It's him.”
“I don't know what you mean,” said Alice.
“Of course you don't!” the Hatter said, tossing his head contemptuously. “I dare say you never even spoke to Time!”
“Perhaps not,” Alice cautiously replied: “but I know I have to beat time when I learn music.”
“Ah! that accounts for it,” said the Hatter. “He won't stand beating. Now, if you only kept on good terms with him, he'd do almost anything you liked with the clock. For instance, suppose it were nine o'clock in the morning, just time to begin lessons: you'd only have to whisper a hint to Time, and round goes the clock in a twinkling! Half-past one, time for dinner!”
(“I only wish it was,” the March Hare said to itself in a whisper.)
(Lewis Caroll “Alice's Adventures In Wonderland”)

 19世紀ドイツの医学者ヴィルヘルム・グリーじんがー精神病を脳病、すなわち脳の変調と述べている。これは今日の主流の精神医学の共通認識である。精神と脳の関係についてデカルトも考察している。

 17世紀頃に現代科学の方法論が生まれると、脳が再び注目されるようになる。デカルトは、そこでも意見を提言する。ジョン・スチュアート・ミルは、デカルトについて「精神科学の発展においてなされた最も偉大な一段階」と評価している。デカルトはコギトの源を脳、中でも松果体に求めている。松果体は脳の基底にある小さな神経核で、現在ではメラトニンを分泌して、概日リズムの刻みに関係することが解明されている。

 17世紀以降は、かの偉大な哲学者がそう主張したこともあって、心が脳と関係するという認識が支配的になる。ただ、その「関係」についての見解が大きく一元論と二元論の二つに分類される。一元論では、心は脳の活動の一部と同じであると考える。一方、二元論によると、心と脳は別のものもしくは違う過程であり、心は脳から独立している。いずれにしても、両者ともデカルトの説を根拠とし、それが疑われることは当分の間ない。

 意識を脳に求めたデカルトは、その上で、血液から分離する精妙な流動体を「動物精気」と呼んでいる。彼は、動物精気が脳内の松果腺で思惟実体と接触し、神経系を経て、筋肉や身体のほかの諸器官を活動させると考えている。

 当時、最も革新的だったウィリアム・ハーベイは、心臓が感情のすみかではなく血液のポンプであると主張している。デカルトは、『方法序説』において、そのハーベイの意義について、次のように賞賛する。

 われわれは、この方面で新しい見地を開拓し、血液の流れは永続的な循環にほかならないと最初に教えてくれたことに対して、かの医師を賞賛しなければならない。彼はこれを外科医のありふれた経験で巧みに証明している。

 ハーベイは生物の身体を機械論的に説明する。生物は、身体の仕組みの点では、「動物精気」によって動くロボットである。確かに、生体内の反応は液体中のイオンに基づいている。身体は人間と機械を分かつものではない。

 デカルトは、『方法序説』において、人間と機械の違いについて次のように述べている。

 なお私は特にここで立ちどまって次のことを述べておいた。猿股どれか他の理性を持たぬ動物と、まったく同じ機関を持ち、まったく同じ形をしているような機械があるとすると、その機械がそれら動物とどこかで違っているということを認める手段をわれわれは持たないであろう。しかしながら、われわれの身体とよく似ており、かつ事実上可能な限り、われわれの行動を真似るような機械があるとしても、だからと言って、それが本当の人間ではないと認めるための極めて確かな二つの手段をわれわれはやはり持っている。その第一は、そういう機械が、われわれが他人に自分の考え述べるときのように、言葉を用いたり、また他の記号を組み立てて使ったりすることは、決してなしえないだろうということである。と言うのも、なるほど一つの機械が言葉を発しうるように、さらにその器官に何かの変化を起こす物体的作用に応じて、何らかの言葉を発しうるようにさえ──どこかを触ると「何の御用ですか」と尋ねるとか、他の場所に触ると「痛い」と叫ぶとか──つくられていると考えることもできる。けれども、そういう機械が自分の前で言われるすべてのことの意味に合った受け答えをするために、言葉をさまざまに配列するとは考えられない。これは、人間ならば、どんなに愚かな者にでさえ、できることである。さて第二の手段は、そういう機械は多くのことをわれわれ同様に、あるいはときに、われわれ以上にうまくなしうるであろうが、やはり必ず何か他のことで話しえないとしれば、この点から見て、その機械は認識によって行動しているのではなく、ただ器官の配慮のみによって行動しているのだと暴露される。と言うのは、理性は普遍的な道具であって、あらゆる種類の機会に用いられるものであるのに対し、それらの器官は、いちいち個別的な行動のために何らかの個別的な配置を必要するのであり、従って、生のあらゆる状況において、理性がわれわれを行動させると同じ仕方で、その機械に行動させられるだけの多様な器官の配置が一つの機械の中にあるなどということは、実際上、不可能だからである。

 コギトは人間とヒューマノイド、すなわちアンドロイドを区別する。自動人形はコギトを持っていない点において人間ではない。人間の脳を持っているサイボーグは人間であるのに対し、レプリカントは機械である。ブレードランナーはデカルトに同意するだろう。”She said the great advantage of being alive was to have a choice. And she chose. And a part of me was almost glad. Not because she was gone but because this way they could never touch her. As for Tyrell -- he was murdered, but he wasn't dead. For a long time I wanted to kill him. But what was the point? There were too many Tyrells. But only one Rachael. Maybe real and unreal could never be separated. The secret never found. But I got as close with her as I'd ever come to it. She'd stay with me a long time. I guess we made each other real”(Rick Deckard “Blade Runner”).

 自動人形、すなわちロボットはセンサ・プロセッサ・エフェクタを持つマシンである。センサは入力、プロセッサは情報処理、エフェクタは出力のそれぞれ装置だ。人工知能はプロセッサに当たる。

 自動人形と人間の区別は思った以上に容易ではない。それはELIZAプログラムが示している。MITのジョセフ・ワイゼンバウムが1964年から1966年にかけてLISPという言語で書いたものである。これは初期の自然言語処理プログラムの一つで、対話型(インタラクティブ)の形式を持つ。ユーザーは、自分の書いたスクリプトが内容を変えずに疑問文にしてオウム返しされただけでも、ELIZAを人間だと思ってしまう。

 今日の認知心理学は脳をコンピュータに見立てる情報処理アプローチを採用している。脳は身体と環境との相互作用をして機能する。プロセッサもセンサとエフェクタとの間で信号のやり取りをしている。両者の精度もプロセッサの働きに影響を与える。この精度は技術的事情のみならず、他の要因によっても左右される。

 火災報知器を例にすればわかる。精度を上げすぎると、湯沸かしの湯気に反応してスプリンクラーを作動させかねない。他方、下げすぎると、手遅れになってしまう。精度は、火事よりましだとしてそうでなくても反応するようにせざるを得ない。そこで学習が必要となる。

 自動人形に言及しているデカルトにとって「機械」は時計である。なるほど、これは古典的に見える。と言うのも、産業革命によって資本主義が拡大してく19世紀、機械は蒸気機関を意味するようになるからである。

 柄谷行人は、『階級について』において、デカルトとマルクスの機械論の違いを次のように言及している。

 『資本論』において、マルクスは機械について独特の考察をしている。それによれば、機械は三つの本質的に異なる部分から成り立っている。原動力(モーター)装置、それを変換して伝達する装置、狭義の機械すなわち道具。蒸気機関が原動力となるとき、それは生産を、人間の身体力、あるいは個人的差異から解放し、水力や風力に必要な地理的自然条件の差異からも開放する。マニファクチュア期にはかえって地方に拡散していた工場は都市に集中し、“風景”を一変する。蒸気機関によって、はじめて実質的に資本制生産が可能となり、それが貨幣経済をとおしてすべての生産を包摂するのである。
 マルクスの「機械」論において、興味深いのは、一般に機械といわれているものはその一部分にすぎないこと、また労働者は機械のたんに一部を操作しうるだけの「主体」にすぎないということである。この「機械」論は、デカルトにおける延長=道具(機械)とそれを操作する意識主体(コギト)という考えを否定する。意識はもはやデカルト的な主体ではありえない。意識は「心」の一部にすぎず、そして無意識は言語的な象徴機構をとおして意識に達する、といったフロイトのメタサイコロジーにもあてはまる。フロイトの思考を機械論的とよぶのはあやまりであって、逆にデカルト的な思考が機械論的なのである。

 機械じかけの時計の発達はたんに時間を計測したり、時刻を知ったりするためではない。世界交通の拡大や交通機関の進歩が時計に正確さを求めている。デカルトが亡くなった後の18世紀のヨーロッパでは、長距離の航海の進展と共に、船の精確な位置の測定ができないため、海難事故が頻発する。イギリス議会は、1714年、経度法を制定し、「海上で経度を確定する『実用的かつ有効な』手段を見つけた者には、国王の身代金に相応する2万ポンドの賞金を与える」と公表している。1等賞の2万ポンドの賞金を獲得するには、誤差を2分の1度以内に収めることが条件になっている。それは、時計の誤差に換算すると、激しく揺れる海上であっても、6週間の航海で2分、1日当たり3秒である。この賞金を獲得したのはジョン・ハリソンである。彼はH-1からH-4まで航海用の時計を製作している。特に、1759年、経度評議員会に提出したH-4は、H-1からH-3まではclock型であったのに対して、重さ1.4kg、直径12cmの懐中時計型のwatchである。実施された実験航海でH-4は、ポーツマスからジャマイカ往復の4カ月間の航海で2分、西インド諸島との往復で経度法の条件よりも3倍の高精度の結果を示している。

 マルクスにとっての「機械」は蒸気機関であり、従来の「機械」はその一部にすぎないが、汽車が開通したときに、事態は急変する。時刻が正確に統一されていなければ、ダイヤグラムが作成できないどころか、事故が怖くて、鉄道は運行さえできない。そこで、時間は、グリニッジ標準時間を中心に、標準化される。8194年、フランス人アナーキストのグループがこうした標準化の動きに抗議して、グリニッジ天文台を爆破する計画を立てるが、未然に発覚している。これは後にジョゼフ・コンラッドの『密偵(The Secret Agent)』のモデルとなる。時計が蒸気機関を支配する。

 人はかつて時計を支配していたが、主従が逆転する。時計が人を支配するようになる。近代以前、ヨーロッパでは、時計をキリスト教教会が管理している。教会が鐘を鳴らして、その教区に時刻を知らせている。今や教会が時計に従わなくてはならない。時代が経るにつれ、時間の支配はさらに強まっていく。世界は、史上初めて、時計によって統一される。

 哲学者は時間について考察してきたが、今日では、時間ではなく、時刻が重要である。ウィリアム・ジェームズやアンリ・ベルクソン、マルセル・プルースト、ジェームズ・ジョイスはそうした時刻の優位に対して、時間を再考している。機械じかけの時間ではなく、生き生きとした時間の復権を提唱する。しかし、時刻の概念は人々の認識を大きく変えている。Y2K問題は時計による支配の頂点の一つである。デカルトが機械の比喩として時計を選んだことは、現代にも有効である。

 時計に合わせて人は行動する。『マトリックス(Matrix)』の世界にいるようなものだ。時計に支配されたコギトは機械じかけであり、それはもはや「コギトモドキ」、すなわち「コギトイド(cogitoid)」である。コギトイドは時計じかけのコギトである。

第六部 I, cogitoid
 従って、「コギト・エルゴ・スム」は、実は、アルゴリズムである。

 最後に、私はここで、学問の未来のために自分がもたらそうとしている進歩について、あまり断言するつもりはないし、自分が果たせるかもできない公約をして自分をしばるつもりもない。でもこれだけは言っておこう。私は自分に残された余生を、自然についての知識を獲得するための努力にだけ費やすことを決意した。そしてそれは、医学の分野で、いま使われているものより確実な規則を引き出せるものにするつもりだ。そしてわたしの目指すものは、ほかの方向性とはちがっている。特に、ある人に苦痛をもたらさないと、ほかの人に便利に使えないようなものとはちがう。いかなる状況でもそんな探求をしなくてはならないような状態に追い込まれていたら、私は成功できなかったはずだ。この点は公式に宣言しよう。ただし、そうしたところで、この世界から認知を得る役に立つわけではないのは充分に承知しているし、またそもそもそんなことはいささかも気にしているわけではない。そして私は常に、この世の最高の富貴を与えてくれるような人物よりも、私が邪魔されずに隠退生活を楽しむことを可能にするだけの配慮を与えてくれている人たちのほうに、感謝の念を捧げるものである。
(『方法序説』)

 時計によって支配されたコギトはコギトイドである。コギトイドはCGによって描かれるアナモルフォーズであり、それはヴァーチャル・リアリティに基づいている。「ヴァーチャル(virtual)」の反対語は「リアル(real)」ではない。「名目(nominal)」がそれに相当する。名目の類義語は「仮想(supposed)」や「擬似(pseudo)」である。前者は仮に想定したものであり、後者は外見は似ているが、本質的には異なるものを指す。また、リアルの反意語は、「実数(real number)」と「虚数(imaginary number)」の関係が示している通り、「虚(imaginary)」である。ヴァーチャルは、むしろ、現実の類義語であり、それは表面的にはそう見えないけれども、本質あるいは効果において現実を感じさせるものを意味する。だまし絵はCGにおいてより発展している。アナモルフォーズはリアルさと言うよりも、ヴァーチャリティを感じさせる。コギトイドはストレンジ・アトラクターのような渦を描く。

 従って、「コギト・エルゴ・スム」は、実は、アルゴリズムである。問いでも、答えでもない。かつて不確実性は数学の危機をもたらすものだったが、量子力学において中核をなすように、数学を構成する重要な要素である。決定不能性が登場しても、数学は滅亡することなく、確実性と不確実、完全性と不完全性の弁証法によって成り立っている。アルゴリズムの重要性はそういった背景において確立される。先に述べた通り、「コギト・エルゴ・スム」の命題は非線形であり、デカルトは非線形の哲学者である。現在の状況を考慮するなら、「コギト・エルゴ・スム(cogito ergo sum)」における「コギト」は「コギトイ(cogitoido)」「スム」は「スモイド(sumoid)」にそれぞれ言い換えなくてはならない。単位eも機械じかけだ。そのアルゴリズムによって確証される「私」はコギトイドである。さらなる非線形現象としての「私」のコア…

 I, cogitoid…cogito buid...

 Rene Descartes went into his favorite bar. The bartender asked, "Would you like your usual drink, Mosier Descartes?" Descartes answered, "I think not." And he promptly disappeared.
〈了〉
参照文献
赤木昭夫他、『科学と技術の歴史』、放送大学教育振興会、1999年
柄谷行人、『マルクスその可能性の中心』、講談社学術文庫、1999年
種村季弘他、『新版・遊びの百科全書〈2〉だまし絵』、河出文庫、1987年
デカルト、『哲学原理』、桂寿一訳、岩波文庫、1964年
同、『方法序説・情念論』、野田又夫訳、中公文庫、1974年
同、『方法序説』、谷川多佳子訳、岩波文庫、1997年
同、『省察・情念論』、野田又夫他訳、中公クラシックス、2002年
寺阪英孝、『現代数学小事典』、講談社ブルーバックス、1977年
ジル・ドゥルーズ、『差異と反復』上下 、財津理訳、河出文庫、2007年
所雄章、『人類の知的遺産』32、講談社、1981年
野田又夫、『デカルト』、岩波新書、1966年
パスカル、『パンセ』、前田陽一訳、中公文庫、1973年
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
同、『魔術から数学へ』、講談社学術文庫、1991年
同、『数学的思考』、講談社学術文庫、1991年
同、『時代の寸法』、青土社、1998年
同、『異説 数学者列伝』、ちくま学芸文庫、2001年
DVD『ENCARTA総合大百科2001』、マイクロソフト社、2001年


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