総理とブレーン(2011)
総理とブレーン
Saven Satow
Oct. 25, 2011
「政府の基盤は人民の意見にある」。
トマス・ジェファーソン
野田佳彦首相は、2011年10月24日付『朝日新聞』の山岸一生記者の記事によると、「大平政治」を理想とし、それを目指している。彼は、『Voice』2011年10月号への寄稿文の中で、「あれほどの英知を集めて気宇壮大な研究会を設置しようとした志の高さは、今こそ見直されるべきだ」と昭和の鈍牛を讃えている。ところが、野田首相には肝心の「ブレーン」がおらず、霞ヶ関に頼っている有様である。
首相は、いわゆるぶら下がり取材を拒否しているが、大平は、首相時代、それに積極的に応じてきたことで知られている。2011年10月17日付『岩手日報』に配信された西川孝粋共同通信特別編集委員の「一刀政断」によると、大平は当時の塩川伸次秘書官に「記者諸君はうるさいかもしれないが、国民を代弁しているのだし民主主義のコストだから手を抜いてはいかん」とか「世の中、刻々と変化するのだから(絶えず質問されるのも)仕方ないだろう。骨は折れるが丹念に説明するようにしよう」と語っている。
こうした野田首相の姿勢が彼の回りにブレーンが集まらない理由にほかならない。と言うのも、政権は、世論の声を汲み取り、その時々の政治的課題に向き合うためにブレーンを必要とするものだからである。
吉田茂や岸信介はブレーンを持っていない。彼らは世論の声を傾聴する気などさらさらないからだ。吉田が「ワンマン」とあだ名されたことはよく知られている。また、岸は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』が聞こえる」と発言、世論の怒りの火に油を注ぎ、そのサイレント・マジョリティもデモに参加し始めている。
ブレーン政治の萌芽は池田勇人内閣に見られる。それは岸の「高姿勢」の反省である。官僚出身の田村敏雄や大平正芳、宮沢喜一、黒金泰美、さらに新聞記者出身の伊藤昌哉が政策立案のみならず、世論へのアピールを試みている。彼らは池田勇人改造計画を実行、メガネを銀縁、スーツをシングルに変えさせ、「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにし、「待合もゴルフも行かない」と記者会見させている。池田はこれらを愚直に守っている。
ブレーン政治は次の佐藤英作内閣から本格化する。佐藤は「『栄ちゃん』と呼ばれたい」と国民から愛されることを熱望し、テレビ出演をことのほか好んでいる。数多くのブレーンが参加、さまざまな政策の演出を繰り広げている。
70年代に登場した4人の総理は、ブレーン政治に関して極端な態度を示している。党人政治家本流の田中角栄と官僚政治家本流の福田赳夫は自前で築き上げた霞が関の人脈を使用し、ブレーン政治をとっていない。田中の『日本列島改造論』は通産官僚が中心になってまとめている。一方、党内最左派の三木武夫と官僚政治家傍流の大平正芳はブレーンを活用している。三木は党内基盤が弱く、世論の支持が政権運営に不可欠である。また、大平は国民との相互作用が民主主義であると信じ、世論に積極的に向き合い、情報を開示、議論を深めようとする姿勢を示している。
戦前からの政治家である三木は官僚嫌いで、民間の有識者との懇談を好み、その中から多くの成果が生まれている。今日では一般化した「ライフサイクル・プラン」という概念もその一つである。三木のブレーンは「政策構想フォーラム」を結成し、さまざまな報告書を提言している。この参加者が後に大平内閣の「政策研究会」に加わったり、中曽根康弘内閣の審議会委員に就任したりして、政策決定に影響力を発揮している。中曽根が世論との結びつきに熱心だったことは今さら言うまでもないだろう。
野田首相は森嘉朗首相以来と言っていいほど世論に背を向けている。世論の最大の関心事の一つである脱原発にしても極めて後ろ向きで、政策は押並べて信じがたいほどの現状維持でしかない。あまりにも政権交代以前に逆行しているので、おそらく自民党が困っているだろう。2011年9月に現首相が国連本部を訪問した際、福島出身の人々がビル前で脱原発デモをしたが、一瞥さえしない。菅直人前首相が避難所である夫婦から非難されて冷や汗をかきながら謝罪していた姿がかわいく見えるほどだ。こんな世論の声に耳をふさぐ野田首相に協力したいと思うブレーンはいない。
野田首相は毎朝駅前で辻演説をしてきたことを誇りにしている。それは人々の肉声を汲み取るよりも自分の意見を訴えることが政治だと言っているのに等しい。この姿勢が顕在化したのが民主党代表選の演説である。この国難にある状況にもかかわらず、将来ヴィジョンではなく、彼は自分の半生を語っている。政治家への志望動機や過去の選挙活動の様子などを口にし、一国のトップを決める場を就職活動の面接まがいに堕している。戦争体験や具体的な政治活動の経験を経て転出した政治家はその志望動機は状況に立脚している。ところが、彼が政治家を選んだのは内的な理由による。政治が内部で完結している。そのため、彼が政治について思いきって話そうとすると、自分の半生に終始してしまう。
しかも、その人物が実際に選出されるのだから唖然とさせられる。あまりにも惨めで、未熟、情けない光景であり、日本の民主主義が歴史と世界の笑いものになった瞬間である。合衆国大統領の候補者が投票日前日に自分の半生をアピールすることなどありえない。有権者が求めているのは、その人物が当選した際のアメリカの将来ヴィジョンだからである。
なお、大平の選挙演説は、残念ながら忘れられているけれども、ジェームズ・ブラウンの『マンズ・マンズ・ワールド』を髣髴させるソウルフルなシャウトである。映像記録のウェブ上での公開が待ち望まれる。
もっとも、こうした傾向は松下政経塾出身の政治家に大なり小なり見られる。政経塾出身者は、80年代後半から地方議会に進出、90年代に入ると国政でも注目され始める。「しがらみのない政治」を標榜し、地盤・看板・鞄なしで中央・地方議会の議員になる彼らの姿は、55年体制の政界にあって新鮮さを世論にアピールする。
けれども、政経塾出身政治家の存在意義は80年代前半までである。阪神・淡路大震災を契機に、市民の政治参加への意識が急速に高まる。政治課題を自分たちの問題として真剣に考え、意見交換をし、行動を実践、新しい公共性の構築を模索している。この新たな政治のうねりの中、市民の政治運動の組織化が求められるようになる。ところが、天狗連ならぬ塾連はこの流れに寄与しないばかりか、敵対的でさえある。
塾連にすれば、市民は所詮生活からしか物事を見ていないが、自分たちはしがらみがないから、大局的に考えて、政治に携わっているという自負がある。しかし、それは著しく独善的な姿勢である。市民の肉声に耳を傾け、それを汲み取り、政治課題への対応に反映させる。そうした姿勢のない政治は机上の空論にすぎない。しがらみのなさは自らの正しさへの過信につながり、願望的思考にとらわれている。それもあってか、不勉強もはなはだしい。その典型例が前原誠司民主党政調会長だろう。もはや塾連はその独善性が自らの政治的な既得権益を守ることにしかなっておらず、新しい政治の成長を阻害している。
塾連は過渡期の政治家である。歴史的使命はすでに終えている。しかし、よりによって、今彼らが日本政治の中枢にいる。その態度は「小岸信介」と呼ぶにふさわしいほどだ。現首相を含めて塾連は身を引き、市民が参加する政治を構築するべきである。そのとき、彼のお望み通り、ブレーン政治が出現する。
〈了〉