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日本型マスメディア万能時代の終焉(1)(2009)

日本型マスメディア万能時代の終焉
Saven Satow
May, 14, 2009

  “Variety's the very spice of life, That gives it all its flavor”.
William Cowper ”The Task”

第1章 マスメディア広告万能時代の終わり
 『広告批評』が創刊30周年記念号を最後に2009年4月をもって休刊する。2008年5月19日付『日本経済新聞』は、同誌の初代編集長の天野勇吉マドラ出版社長とのロング・インタビューを掲載している。発行部数は2万5千から3万部を維持しており、経営状態は決して悪くはない。にもかかわらず、休刊に踏みきった理由は「マスメディア広告万能の時代は終わった」という判断からである。天野社主は、『広告批評』2008年4月号の編集後記に、「マスメディア一辺倒の時代からウェブとの連携時代へ、ふたたび大きな転換期を迎えています」と記している。ウェブ広告にはそれに適した広告の批評の法論が必要であるが、『広告批評』では扱うことができず、その歴史的役割を終えたというわけだ。

 それを裏づけるようなデータもある。テレビ・新聞・雑誌・ラジオの4媒体の広告は「マスメディア広告」と呼ばれる。電通が毎年発表している『日本の広告費』によると、『広告批評』創刊の1979年、広告費全体に占めるマスメディア広告の比率は77%だったが、2007年は51%にとどまっている。調査対象が当時と今とでは異なっているため、単純比較はできないとしても、マスメディア広告の優位さは今日の比ではない。1979年の総広告費は2兆1133億円であり、前年比114.5%の成長率を示し、新聞広告費が6554億円、テレビ広告費が7508億円と両者の間に今ほどの差はない。80年代、マスメディア広告費は右肩上がりに推移したけれども、90年代に入ると、前年割れするようになり、50%を切るのも時間の問題だろう。

 『日本の広告費』はメディア広告を四つに大別している。マススメディア広告以外は、プロモーションメディア広告・インターネット広告・衛星メディア関連広告の三つである。プロモーションメディア広告には屋外、交通、折込、DM、POP、フリーペーパー・フリーマガジン、電話帳、展示・映像などが含まれる。これは古代ローマの劇場やコロッセウムにも見られる最も伝統的な広告である。また、インターネット広告はウェブ上の広告、衛星メディア関連広告は衛星放送、CATV、文字放送向けの広告を指す。

 2007年版の『日本の広告費』はウェブ広告の伸張とマスメディア広告の低迷を示している。広告費全体は7兆191億円となり、4年連続して増加したものの、伸び率は低下している。ウェブ広告費は6003億円で、雑誌広告費の4585億円を抜き、1兆9981億円のテレビ広告、9462億円の新聞広告に次ぐ第三番目の広告媒体に成長している。しかも、新聞広告費は2000年に入ってから急落しており、ウェブ広告に追い抜かれる可能性も現実味を帯びている。インターネット広告費は1997年には60億円だったが、2007年になると6003億円にと10年間で100倍に急上昇し、2004年にはラジオ広告費を追い抜いている。

 マスメディア広告の支配力を脅かしているのは、ウェブ広告だけではない。今回の調査から推定したフリーペーパーやフリーマガジンの隆盛によるプロモーションメディア広告費は2兆7886億円に及び、4年連続で前年を上回っている。また、衛星メディア関連広告費も603億円であるが、視聴者の嗜好や傾向が明確であるため、広告提供者にとってターゲットを絞りやすいメリットがあり、毎年伸びている。さらに、必ずしも広告を目的としていないブログや動画投稿サイトも影響力を持ち始めている。

 広告収入はマスメディアの経営にとって極めて大きい。テレビやラジオの民間放送を受信料を払わずに見られるのはスポンサーがいるからであり、新聞や雑誌が原価を下回る価格で販売できるのも、広告のおかげである。広告費をめぐる状況が変化すれば、メディアの構造も変容せざるを得ない。

 アメリカの新聞業界でも、発行部数が低落し、それに伴い、広告収入も減少している。ネット事業は、苦境の新聞業界において、唯一伸びている収入である。けれども、総事業収入に占めるネット分野はニューヨーク・タイムズ紙のような好調な新聞社でも1割程度にすぎない。新聞は広告収入によって安価に抑えられているが、それを理由に値上げをすれば、さらなる部数の低下につながりかねない。ネット事業の強化・拡充は新聞業界にとって死活問題となっている。

 天野元編集長はこの事態に対して「マスメディア広告万能の時代は終わった」と捉えている。しかし、それはマスメディア一般と言うよりも、むしろ、日本型マスメディア万能の時代が終わったと理解すべきだろう。マスメディア広告はマスメディア環境の現われである。しかし、日本型マスメディアは、後述する通り、得意な特徴を持っている。マスメディア広告の万能時代が終焉を迎えているとすれば、それはその日本型マスメディアの支配構造が変容している顕在化にほかならない。

第2章 日本型マスメディアの特徴
 日本型マスメディアには、三つの特徴がある。

 第一に、電通が広告代理店行において突出している点である。電通の売り上げ連結高は2兆円を超え、その規模は単体では世界最大である。しかも、それは国内業界2位の博報堂のおよそ2倍に相当し、日本市場で圧倒的なシェアを占めている。しかし、アメリカの広告代理店業は事情が異なる。世界第二位の売上高のBBDOの他、JWT、EBWA、マッキャンエリクソンなどが世界規模の企業が競争しており、決して一社だけが抜きん出ているわけではない。日本の広告業界には、欧米などと違い、一業種一社制をとっていないため、大手に仕事が集中し、電通を頂点とした寡占状態が続いている。一業種一社制は同じ業種内に属する複数の企業の広告代理を引き受けないという原則である。家電メーカーで言えば、SONYを担当する代理店はSHARPを扱ってはならないという決まりである。しかし、日本の広告代理店は競争相手である同業他社の広告も受け持っている。2005年、こうした広告業界の現状は独占禁止法に抵触する疑いがあるとして公正取引委員会が調査に入っている。電通による広告業界の極端な一社優位制は日本政界における自民党以上に強固である。

 第二に、新聞業界の資本規模が巨大で、マスメディア産業全体に及ぼす影響力は大きい点が挙げられる。新聞社はテレビ・ラジオの放送局も系列化ないし資本提携し、テーマ・パークの運営からプロ野球球団経営、出版、不動産業、信用組合、スポーツ・文化イベント開催など極めて広範囲に亘る事業をグループで展開している。

 いわゆる全国紙はそれぞれスポーツ紙や放送局と資本や人材を含めた系列関係を結び、グループ内のテレに局をキー局とする全国に民間放送網を形成している。

新聞 主なグループ内マスメディア 民間放送局網
読売新聞 スポーツ報知、日本テレビ、ラジオ日本、中央公論 NNN
朝日新聞 日刊スポーツ、神奈川新聞、テレビ朝日 ANN
毎日新聞 スポーツニッポン、TBSテレビ・ラジオ JNN
産経新聞 サンケイスポーツ、フジテレビ、ニッポン放送、夕刊フジ FNN
日本経済新聞 テレに東京、ラジオNIKKEI、日経BP TXN

 グループと言っても、ライブドアのニッポン放送株買収や楽天によるTBS株習得の経緯が世間的に知らしめたように、資本関係や人材交流の点で個々に違いが見られる。また、全国紙ではないが、中日新聞社も東京新聞や中日スポーツ、中部日本放送などをグループ傘下に置いている。地方紙も地元の放送局、特にラジオ局との間で密接な関係にあることが多い。

 日本における新聞とテレビの密着度を示す好例としてテレビ欄が挙げられる。世界的に、新聞が常設のテレビ欄を持っているケースは稀である。一週間分の番組表が折込みの形で配布されていることはあっても、毎日毎日1面を割いてテレビ番組の詳しい状況を紹介することはない。

 宅配制が主流ではない欧米の新聞は必ずしも経営規模は大きくなく、昨今、経営不振に伴うリストラや買収攻勢にさらされている。ニューヨーク・タイムズ紙は、2008年2月、ハービンジャー・キャピタル・パートナーズとファイアブランド・パートナーズの投資ファンド2社に買収を仕かけられ、資産売却や本業への集中、取締役4人の交代、電子版の充実などを要求されている。また、ルモンド紙は、2008年4月14日、経営陣が提案したリストラ案に抗議する労組のストにより、休刊している。昨春から、経営の安定化を目指す株主ならびに経営陣と報道の独立性を守ろうとする記者との間で対立が続き、抜き差しならない事態に陥っている。確かに、ルパート・マードック率いるニューズ・コーポレーションのような巨大な複合的メディア事業体も存在する。1979年にアデレード・ニュース紙から出発し、今ではタイムズや20世紀フォックス、FOXテレビジョンなどを傘下に収めている。しかし、1996年、同社がソフトバンクと連携してテレビ朝日株を収得して買収を試みた際、朝日新聞社によってそれを阻まれている。欧米では、新聞社が巨大メディア産業の中核にいるなどということはない。

 2008年5月13日付『毎日新聞』によると、毎日新聞は北海道で同年9月1日から夕刊を廃止する。それに伴い、新聞紙面も「毎日jp」との連携を強化する。すでに、産経新聞が2002年4月より夕刊を全面的に廃止している。食後のコーヒーを飲みながら、朝刊に目を通したり、通勤電車の中で折りたたんで読む習慣はこれからも続くだろうが、夕刊を読む習慣はすたれつつある。新聞社の発行部数の下落は、日本の場合、たんに新聞社だけの問題にとどまらない。日本型マスメディアの構造的な変化に及ぶ。

 こうした日本の新聞社が発行している一般紙は全国紙・ブロック紙・地方紙の三相秩序をしている。

 全国紙はほぼ日本全国で販売されている新聞で、通常、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞の5紙を意味する。発行部数は、いずれも公称ながら、読売1000万部、朝日800万部、毎日400万部、日経310万部、産経219万部である。発行部数だけを見るなら、公称550万部の聖教新聞が毎日新聞を上回るが、新聞協会に加盟していないため、これに含めない。

 ブロック紙は複数の都道府県にまたがった広域を販売エリアとしている新聞であり、北海道新聞・中日新聞・西日本新聞のブロック紙三社連合を指す。中日新聞社は中日新聞だけでなく、編集が独立している東京新聞と北陸中日新聞も発行している。また、華北新法や中国新聞もブロック紙に含める場合もある。北海道新聞は北海道、中日新聞は東海地方と長野県の他、滋賀県や和歌山県、福井県の一部、西日本新聞は九州地方および山口県で圧倒的なシェアを持っている。弱行部数は北海道新聞が120万部、中日新聞は276万部(東京新聞などを併せれば355万部)、西日本新聞は85万部である。

 地方紙は一つの府県で発行部数が圧倒的なシェアを持っているいわゆる県(民)紙のことである。全国的ならびに国際ニュースは通信社からの配信記事を掲載することが多い。岩手県における岩手日報や富山県の北日本新聞、高知県における高知新聞などが地方紙に当たる。都道府県全体ではなく、その一部地域を対象としている新聞を含める場合もあるが、これは「地域紙」の方がふさわしいだろう。

 第三に、記者クラブ制度である。これは、首相官邸や中央省庁、地方自治体、地方公共団体、警察、業界団体などに設置された記者室を取材拠点とする特定の報道機関の記者による排他的な取材組織である。一般紙や通信社、放送局などが会員であり、週刊誌や夕刊紙、フリーランスの記者、ブロガーはここから排除されている。記者室の運営は記者クラブの自治に任されているが、維持は各団体が経済的な負担を含めて提供し、両者は持ちつ持たれつの関係にある。

 以上の三点は、日本型マスメディアが独占ないし寡占の体制にあることを告げている。それは言論の自由を基本原則とする業界にしては、あまりに自由主義的とは言えない実態である。この得意な情報環境はその出自に由来している。日本型マスメディアは資本の論理や新技術の登場によって形成されたのではなく、戦時体制下の統制の産物であり、それを引きずり続けている。

第3章 日本型マスメディアの形成過程
 幕末から各地で無数の新聞が発行され、進歩的思想の啓蒙、自分たちの政治的主張、政財官界の腐敗や堕落の糾弾などを民衆に訴えるメディアである。福沢諭吉や中江兆民、幸徳秋水など新聞を活動の場にしていた言論人は少なくない。また、二葉亭四迷や夏目漱石、石川啄木など新聞にかかわった文学者は数え切れない。石橋湛山は、『湛山回想』において、官界が帝大出以外を相手にしていなかったのに対し、新聞はそれに対抗する人の受け皿だったと述懐している。しかし、日中戦争からポツダム宣言受諾までの戦時体制下で政府が言論統制を行うために、新聞と関連産業を再編成させる。本来戦争遂行の目的で築かれたその秩序が戦後にも維持・強化され、日本特有のマスメディア体制を確立していく。

 1936年、外務省の天羽英二が主導して、日本電報通信社の通信部と新聞聯合社が合併してニュース配信会社「同盟通信社」が設立される。聯合は朝日新聞・毎日新聞・報知新聞など8社が出資して設立したニュース発信を業務とする新聞組合である。日本では、1887年、最初の通信社として時事通信社(現在の時事通信社とは無関係)が創業して以来、長らく、小通信社が乱立する時代が続く。1930年前後になって、日本電報通信社と新聞聯合社の2社競合時代を迎える。日本電報通信社は当初合併に乗り気ではなく、聯合が積極的に推進して実現する。同盟は、国家を代表する通信社、すなわち唯一の通信社として、国外ニュースの入手を独占し、情報を管理・統制する機能を果たしていくことになる。

 この日本電報通信社が現在の電通の全身である。1901年、日清戦争で従軍記者を務めた光永星郎がまず日本広告、次いで電報通信社を創立し、広告代理店と通信社の業務を始める。広告代理店業は明治10年代にすでに誕生しており、この時点での創業は必ずしも早くはない。光永星郎は記者経験からニュース配信を本業とし、経営維持のために広告業をと考えていたが、諸般の事情により順序が逆になっている。社名に「電報」が入っているのは、当時、電信電話が遠距離のニュース通信に用いられるようになり、その最新さをアピールするためである。当初経営状態は芳しくなかったが、1904年の日露戦争の勃発が事態を一変させる。ベトナム戦争がテレビの戦争、湾岸戦争がCNNの戦争という意味で、日露戦争は新聞の戦争である。戦争報道のかげで新聞は飛ぶように売れ、新聞社は喉から手が出るほどニュースを欲している。そこで、光永星郎は新聞社へのニュースの配信料を新聞社に支払う広告掲載料で相殺する営業方法で、新聞社と密接な関係を強化している。1907年8月、前年に電報通信社を改組して発足した日本電報通信社と日本広告を合併して、通信と広告を併営する「日本電報通信社」に発展する。同年5月には、UP通信社(現UPI)とも特約して国際ネットワークを築き、通信社として基礎を固め、日本を代表する通信社に成長していく。

 当時の新聞の紙面構成や広告の取り扱いは、現在とはかなり異なっている。日露戦争終結から10年後の1915年6月分の東京朝日新聞を例にとってみよう。1面には全面に広告だけしかない。『実業之日本』といった雑誌や本など出版物の宣伝で占められ、記事は一切ない。2面は衆議院、3面は貴族院の模様がそれぞれ書かれている。国会答弁なども詳細に記され、広告はまったくない。 4面は国際面で、上半分がヨーロッパの第一次世界大戦の戦況、下半分は対華21条以降の中国との交渉の現状が説明されている。ここにも広告はない。5面はスポーツ欄と社会面が混在している。スポーツと言っても、相撲のことでほとんどが占められている。社会面の記事は殺人事件や寺の騒動などあまり今と変わらない。ただ、真ん中に広告が入っており、正直、読みにくい。 6面と7面は文化面と広告であるが、広告の方が多い。医薬品や健康食品など出版以外の広告が目につく。出版社による原稿募集といったものも小さくある。7面の中央に連載小説が載っている。 8面は株式市場など相場の表と記事が掲載されている。株の銘柄数は非常に少なく、2段程度に収まっている。紙面は以上の8面で、写真は一枚あればいいほうである。家庭欄もまだなく、女性の読者はほとんど想定していない。

 なお、この年の6月1日、公務員に対して、その職務行為の対価として将来の公私の一定の職務上の地位の提供を約束すること、いわゆる天下りは収賄罪が成立すると大審院(現在の最高裁判所)が判断を示している。これは、1978年8月31日の参議院決算委員会によると、戦後も判例として踏まえられている。

 戦争を契機に成功してきた光永星郎だったが、泥沼化していく日中戦争は彼の夢を打ち砕く。1936年の通信部門の委譲の代わりに、聯合の広告部門を譲り受け、広告専業企業となる。皮肉なことに、これが現在の電通へと至る出発点である。電通は、言論統制の強化と共に、成長していく。

 1937年、全新聞広告数量は2億5766万行に及び、戦前の広告業界が最盛期を迎える。1940年には、「献納広告」が登場する。8月1日、国民精神総動員本部等により銀座など東京市内に「贅沢は敵だ」の旗が立てられ、「華美な衣装はつつしみませう」と記されたビラを通行人に配布している。この国策標語は雑誌『広告界』の編集長宮山峻の作とされている。公共標識以外のネオンサイン並びに広告塔の点灯一斉禁止となる。

 1943年には商工省の勧告による広告代理業整備に電通は積極的に尽力し、16社を吸収し、東京、大阪、名古屋、九州に本拠を置いている。この国策の結果、全国に186社あった広告代理店はわずか12社に激減している。広告も、ナチズムを持ち出すまでもなく、新聞や雑誌同様、管理統制対象である。電通は決戦標語「撃ちてし止まむ」を手がけ、その陸軍記念ポスター5万枚を全国に配布している。この最も有名な国策標語は1947年から電通の第4代意社長となる吉田秀雄の作とも言われている。しかし、出展は古事記や日本書紀の歌謡の久米歌「みつみつし久米の子らが垣下に植ゑし薑口ひひくわれは忘れじ撃ちてし止まむ」等の末尾の句であり、創作ではない。

 戦後は広告代理店業だけでなく、放送局の創設に協力したり、イベント事業を展開したり、総合的広告企業へと成長する。1974年、アメリカの広告専門誌『アドバタイジング・エージ』が前年の広告取扱高で電通が世界第1位になったと発表し、89年には取扱高1兆円を超している。この間、1955年7月、創業以来の通称だった「電通」を正式名称としている。

 同盟通信社は、終戦後の1945年、GHQによる解体を避けるため、自主的に解散し、一般報道部門などは共同通信社、経済報道部門などは時事通信社が同盟の施設、資産、人員を引き継ぐ。当初は再統合を視野に入れていたが、東京オリンピックをきっかけに、両者は競合状態に突入している。

 同盟通信社の創設により政府は情報の一元化に成功する。1937年に盧溝橋事件が勃発すると、政府は軍機保護法を改正し、軍事・外交に関する情報への制限をさらに強化している。外堀が埋まった状態であり、これの実施はたやすい。次に、1939年3月、内務省は新聞紙法による新聞・雑誌の創刊を原則として新たに許可しないと決定する。活字メディアは紙を押さえられると、そもそも発行できない以上、従うほかなくなる。

 言論統制は仕上げの段階に入る。1941年11月、政府は、すべての新聞社に「新聞統制会」への加盟や記者クラブの整理などを求める「新聞ノ戦時体制化ニ関スル件」を閣議決定する。記者クラブ自体はこれ以前にも存在する。1890年、第一回帝国議会の新聞記者取材禁止の方針に対して、『時事新報』の記者が在京各社の議会担当に呼びかけ、「議会出入記者団」を結成する。同年10月、これに全国の新聞社が合流し、「共同新聞記者倶楽部」と解消し、記者クラブ制が始まる。しかし、この統制のため、記者クラブの数は3分の1に減らされると同時に、自治も禁止されている。1941年12月、日米開戦後内閣情報局が「記事差し止め事項」を作成し、報道に対する管理統制を強め、政府は「新聞事業令」を公布し、新聞社を統合・削減し、「一県一紙」体制を確立させていく。さらに、1942年、 戦時特別税として屋外広告物に広告税課税となり、1944 年、農商務省によって全国50新聞社に対する新聞広告公定料金が公認し、 各新聞は夕刊を廃止している。

 この一県一紙制により、地方紙と中央紙という区分で大幅な新聞再編が進む。地方紙では、一つの道府県で最低でも3地区に分かれ、それぞれに一つの地方紙がシェアを持っていたが、強引に一元化されている。徳島日日新報と徳島毎日が徳島新聞、京都日日新聞と京都日出新聞が京都新聞、新愛知と名古屋新聞が中日新聞、福岡日日と九州日報が西日本新聞にそれぞれ統合している。東京では、都新聞と國民新聞が合併し、夕刊紙として東京新聞が発足している。エリアの広い北海道に至っては、(旧)北海タイムスや小樽新聞など11紙を合併して北海道新聞が創刊されている。この統合は全国紙にも及ぶ。毎日新聞は地域ごとに別会社が独立して発刊していたが、合併によって一つに集約せざるを得なくなる。結局、この勧告により、700以上もあった新聞が最終的に54にまで削減されている。

 ポツダム宣言の受諾により、こうした非民主主義的な政策は無効になったはずだったが、戦後もこの一県一紙制は、アメリカの占領下に置かれた沖縄を除いて、ほぼ維持される。その主要因の一つは広告である。一県一紙制は各紙に広告市場の独占ないし寡占を与えている。広告主は、県内あるいはブロック内、全国で最も読まれている新聞に広告を載せる方がメリットにつながると考えて、支配的な新聞に優先的に広告を依頼する。新聞社は潤沢な広告収入を背景に、積極的な経営を行い、部数拡大は図る。このような状況では、同業者が新規参入することは困難である。戦後の自由化の波に乗って、数多くの新聞が設立されたけれども、既存新聞の露骨とも言える拡販もあって、少数を除いて、つぶされてしまう。

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