グローバル化時代の道徳教育(2014)
グローバル化時代の道徳教育
Saven Satow
Apr. 16, 2014
「真の道徳は道徳を軽蔑する」。
ブレーズ・パスカル『パンセ』
林泰成上越教育大学大学院教授が海外の専門家を含む研究会で日本の道徳授業風景のビデオ映像を流した際、英国の研究者から異議が示される。これはマナーであって、道徳ではないと彼は主張する。それを受け、林教授は、確かにこれはマナーであるが、日本では道徳教育の学習指導要領にこの項目が含まれていると説明する。このやりとりから明らかなことは、マナーを道徳の授業で取り上げることの是非に日英の間に違いがある点だ。
日本は、従来、道徳を授業として扱うが、教科に位置づけてはいない。韓国が道徳を強化にしていることはよく知られている。その一方、米国は道徳を仮定や地域で教えるものとして学校で扱っていない。
違いは道徳を教科にしているか否かだけではない。道徳教育の内容と方法が国や地域によって異なっている。先のマナーのエピソードはその一例である。と同時に、他の国や地域でどのような道徳授業が行われているのか専門家の間でも十分に知られていないことも物語っている。
その知識不足は自分たちの道徳教育を自明視することにつながる。それは、時代の変化に伴う意識の変容を規範の弱体化と社会的に認識された際、復古主義が解決策と求められる短絡さの正当化となる。しかし、これは現代社会と徳実践の齟齬を拡大させるだけだ。
日本の道徳授業は学習指導要領によって価値観を教えこむことと定められている。これは方法論を制約する。日本の道徳授業と言えば、感動資料を用いて子どもたちの感性に訴えるというお決まりの形式になっているのはそのためだ。道徳教育には、理性や行動に焦点を当てる方法もあるが、日本では原則的にできない。
理性の道徳教育の一例はモラルジレンマ授業である。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の公開授業をテレビやネットで見た人も少なくないだろう。あれがモラルジレンマ授業である。道徳的葛藤をもたらす資料を参加者が討論する。自分の主張や他の意見を吟味するのだから、その過程で判断力が向上、規範が内面化される。この課題は結論が出るものではなく、道徳的判断の根拠を多面的に検討する過程に意義がある。考える道徳授業である。
ただし、モラルジレンマは道徳的葛藤を考えるものであって、人間の心の弱さを問うものではない。絵の下手な友だちがきれいな絵の具を持っている。それを使えば素敵な絵画が描けるからと盗んだとしよう。この行為は、心理的葛藤が伴ったとしても、道徳的に許されない。心理的葛藤に道徳的問題があるとは限らない。ちなみに、このエピソードを描いた有島武郎の『一房の葡萄』はかつて小学校の道徳の教科書に掲載されている。
当事者として資料を検討する設定は、そのため、避けられる。代理出産の子を依頼主に渡せ、渡さないでもめているとしよう。これは、第三者でなければ、道徳的に議論することが難しい。
こうしたモラルジレンマは、日本の学習指導要領から見れば、道徳授業に当たらない。しかし、道徳的判断の検討であることは確かであり、教育的方法に含められる。その向上や規範の内面化には日本の伝統的授業よりも適切であることも理解できよう。
安倍晋三政権は道徳を教科化し、教科書に伝記を盛りこむとしている。道徳教育の専門的知見がそこにはない。なぜこの改革が道徳教育の進化に適しているのかの専門的根拠を示していない。モラルジレンマを考案したのはハーバード大学のローレンス・コールバーク教授である。彼は発達心理学者でもあり、道徳性の育成をそうした科学的知見から根拠づけている。思いこみや思いつきで自説を主張しているわけではない。不勉強な日本の政治家は教育に口出す前に自らの無知を恥じ、勉強する方が先だろう。
安倍政権の道徳教育の方針は現代にまったくそぐわない。グローバル化時代にふさわしい道徳教育は、他の国・地域の行っている内容・方法を教材に採り入れることだ。世界が狭くなれば、さまざまな道徳と出会う機会も増える。異なった道徳観の共存も現代の国際社会には求められている。世界にはどのような道徳教育があるのかを学習することは現代的課題の克服に即している。
と同時に、新たな方法論の導入が既存の道徳教育の課題への対応につながるだろう。規範意識が低下していると言って、復古主義的方法に頼るのは解決策にならない。その課題はこれまでのものがもたらしている。今まで行ってこなかった方法を採用した方が建設的である。感性に訴える伝統主義的アプローチに加えて、理性や行動の方法・内容からも道徳的判断・実践の能力を向上させられる。
道徳教育には社会化が目標の一つとされている。グローバル化時代におけるそれは国内にとどまらない。国際社会化が求められる。それにふさわしい方法・内容を欠く変更は改悪以外の何物でもない。
〈了〉
参照文献
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年