理論と実践(2016)
理論と実践
Saven Satow
Jan. 20, 2016
「起源的には実践は理論に先行する。しかし、一度理論の立場にまで自己を高めると理論は実践に先行し得る」。
ルードヴィヒ・フォイエルバッハ
理論と実践のあるべき関係は古くから論じられている。それはしばしば思考と行動に置き換えられる。無謬であるとして理論を絶対化し、実践を束縛する。逆に、理論を机上の空論として実践を絶対視する。いずれも不適当だろう。
通常、理論と実践の関係は大きく二つある。一つは実践を抽出して理論化する帰納的方向性である。もう一つは理論を応用して実践化する演繹的方向性だ。
理論は抽象的・一般的、実践は具体的・個別的である。実践は特定の文脈に依存しているので、そこから離れて理解を共有することが難しい。実践は行動であるから、言語化を必ずしも必要としない。母語話者が用法を間違えないのに、文法を説明できないように、その知識は手続的である。
実践は身体知・暗黙知であるから、参加者が意識・感情を共有しやすい。実践は可視的であり、直観的な認知が可能である。それは価値判断を誘発し、共感・反感を引き起こす。
具体的・個別的対象から喚起される情動、すなわち驚きや怒り、恐れは行動を促す。また、共にいることから派生する感情、すなわち喜びや悲しみ、寂しさなども人を行動に向かわせる。実践という行動には感情の共有が必要だ。実践は誰かと共にいるという共存関係の確認・構築の作業である。
社会におけるさまざまな変革は実践の帰結だろう。しかし、実践偏重は排他的な主観主義に陥ったり、場当たりに振る舞ったりすることがある。理論が現実から遊離する可能性がよく語られるが、実は、実践も同様である。
一方、理論は汎用性が高く、共通理解を形成しやすい。理論は言語化を必須とし、その知識は宣言的である。それは形式知・明示知であるから、その場にいなくても、認識を共有できる。理論は他者との共通理解のために必要である。
ただ、可視的ではないので、直観的な認知が難しい。それはエリート主義的精神を刺激し、知的スノビズムを生み出す。彼らは理論を自己目的化し、議論のための議論に迷いこむ。また、感情に流されない現実主義者と自惚れる。しかし、理論はある対象を理解する目的で求められるわけではない。理解を広く共有するために、必要とされる。
必ずしも現実にとらわれることなく、整合性のある理論体系を構築することにも意義がある。現実を前提に考えると、その条件に妥協的になり、主張が保守化しかねない。だから、自由に考察して現実を相対化する新たな見方を提示することが必要だ。ただし、そうした場合には整合性のある完成度が重要である。
実践も広く共有されるためには、理論化が欠かせない。理論は他者と理解を共有する目的で生まれる。実践をしながら、それを言語化することもあるだろう。また、理論を通じて共通理解が形成されて、実践に臨むこともあるだろう。
実践の機能は共存関係の拡充、理論は共通理解の形成である。機能から考えるなら、両者に優劣はなく、相互作用の関係がある。それを広く納得させられるように調整できることを社会性と呼ぶ。
〈了〉
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?