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ワン・マンス・プレジデント(2017)

ワン・マンス・プレジデント
Saven Satow
Jan. 14, 2017

“I believe and I say it is true Democratic feeling, that all the measures of the Government are directed to the purpose of making the rich richer and the poor poorer”.
William Henry Harrison

 2017年1月20日、第45代アメリカ合衆国大統領の就任式が行われます。ただ、1933年まで就任式は3月に執り行われるのが慣例です。また、1901年から連邦議事堂の前を式場に使われていますが、1817年から19世紀の間は屋外でされています。

 その就任式が原因で4年の任期を全うできずに病死した大統領がいます。それがウィリアム・ヘンリー・ハリソン(William Henry Harrison)です。この第9代大統領の在任期間は1841年3月4日~1841年4月4日、すなわち1ヵ月です。もちろん、合衆国史上最短です。彼は悪天候の屋外で行われた就任式によって体調を崩し、回復することなく亡くなっています。ですから、在任期間31日の功績は実質的になしです。宣誓しただけの大統領と言えます。

 実績ゼロとは言え、大統領に当選しているのですから、有権者にアピールするキャリアや理念、政策があるはずです。それを見てみましょう。

 ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは 1773年2月9日、バージニア州チャールズシティ郡のバークレー・プランテーションで生まれています。彼は独立以前に出生した最後の大統領です。彼の父ベンジャミン・ハリソンは大陸会議で独立宣言の署名を行い、1781年から84年までバージニア州知事を務めています。また、兄のカーター・バセット・ハリソンはバージニア州選出下院議員です。

 ウィリアムは政治家一族に生まれましたが、医師を志望しています。また、奴隷制反対だったため、支持派の父と仲たがいしています。ハンプテン大学卒業後にペンシルバニア大学に進学したものの、その父が急死、学費の目処が立たなくなり、彼は軍隊に入っています。1890年、ウィリアムはオハイオの部隊に配属されます。6年後、大尉で除隊します。

 ウィリアムは、1795年、アンナ・タットヒル・サイムズ(Anna Tuthill Symmes) と結婚します。オハイオで土地を購入、丸太小屋に住んでいます。この丸太小屋の住居が大統領選挙の際に有権者へのアピールに使われることになるのです。

 1800年、インディアナ地域の初代総督に就任、12年間、ネイティブ・アメリカンと土地購入交渉に奔走します。1811年のティピカヌーの戦いでの勝利で名声を博します。これにより彼は「ティピカヌー」あるいは「オールド・ティピカヌー」の愛称で国民的英雄になっています。

 その後、西北地区の最高司令官に就任します。1812年に始まる英米戦争の際、西北地区の征服を完了しています。

 ウィリアムは、その後、オハイオ州を地盤に政治家に転身します。16年に下院議員、25年からは上院議員を務めています。さらに、28年、コロンビア米公私に就任します。任期を終えた29年に政界を引退します。

 1829年、第7代大統領にアンドルー・ジャクソンが就任します。彼は初の西部出身の大統領で、英語の綴り方も怪しい非常に粗野な人物です。彼の当選はアメリカの政治原理が貴族的な共和主義から庶民的な民主主義へと移ったことを意味します。建国の父祖に代わり新しい世代が統治を担うようになり、領土が拡張、政治参加が拡大します。こうした状況の変化により、ジャクソンのような破天荒な人物が大統領に選出されているのです。

 ジャクソンは従来の慣例を次々に破ります。ポストを政治経験もろくにない支持者に分け与えたのもその一例です。しかし、それは独断専行で、少なからずの反発を政界に招きます。反ジャクソン勢力が1830年にホイッグ党を結成します。他方、ジャクソンの党派は、1828年、民主党を結成しています。これが現在の民主党です。

 「ホイッグ党(Whig Party)」は民主党の政策について専制的で、反近代的であると批判、大統領に対する議会の優越、社会や金融の近代化、保護貿易による国民経済活性化などを実現することを掲げています。また、領土拡張や奴隷制に反対の立場をとる議員も参加しています。ホイッグ党は、農業中心の南部の民主党に対し、産業化の進む北部を支持基盤としています。

 名称は独立革命の際の独立派が反王政派である自らをそう呼んでいたことに由来します。ホイッグ党はかつての連邦党や国民共和党の系譜にあります。1840年代に勢いがありましたが、奴隷制問題をめぐる政界再編の流れの中、1860年に解散しています。

 民主党とホイッグ党の登場は米国が二大政党による政党政治の時代に入ったことを意味します。この党派競争は自由主義と保守主義といったイデオロギー対決ではなく、地域や産業の利害調整です。要求と譲歩の弁証法を通じて妥協を模索する変換型と呼ばれるアメリカの正統政治システムがここから始まります。

 政界を引退していたハリソンはホイッグ党に1836年の大統領選挙の候補者の一人に担ぎ出されます。政治参加の拡大を背景に庶民にアピールできるエリート臭のない人物として党幹部が彼に出馬を要請しています。

 ただ、「一人」と言うのはホイッグ党から彼を含め四人が立候補していたからです。創設間もないホイッグ党は人材難でしたから、幹部は候補者を乱立させて有権者の票を分散させて決戦投票に持ちこむ作戦をとっています。現在では考えられませんが、まだ政党政治が浸透していなかったので、こうしたアイデアを思いついています。

 民主党はマーティン・ヴァン・ビューレン一人を候補に立てます。彼はジャクソン政権で副大統領を務め、その路線の後継者として出馬しています。

 ホイッグ党の思惑は外れます。ヴァン・ビューレンが得票数764,176、得票率50.8%、選挙人数170で圧勝します。ハリソンは得票数550,816、得票率 36.6%、選挙人数73で次点です。

 けれども、第8代大統領は世論の評判が甚だ悪いものです。就任直後に恐慌が発生しますが、結局、彼は任期中に有効な対策をうつことができません。また、先住民族との戦闘で多くの死傷者が出ます。さらに、ニューヨーク州出身の彼の貴族趣味が奢侈に溺れていると庶民にとられてしまうのです。

 1840年の大統領選挙ではホイッグ党は候補者をハリソンに一本化、再選を狙うヴァン・ビューレンに挑みます。他に自由党からジェイムズ・G・バーニーが立候補しましたが、事実上ヴァン・ビューレンとハリソンの一騎打ちです。ハリソン陣営は、南部の票を狙い、バージニア州出身のジョン・タイラーを副大統領候補に選びます。

 今日と違い、当時、候補者は選挙キャンペーンを行わないのが慣例です。建国以来、選挙権も限られ、少数のエリートが統治を担っています。有権者が拡大しても、この政治文化が続いています。豊かな知識と教養、分別ある冷静な判断力、高い志を持って政治に取り組もうとしているのに、なぜ民衆にお願いしなければならないのかというわけです。けれども、ハリソン陣営はこの慣例を破ります。

 ハリソン陣営は「丸太小屋とハード・シードル (Log Cabin and Hard Cider)」をキャッチフレーズにハ選挙キャンペーンを展開します。派手なパレードを催し、丸太小屋でハード・シールドを振る舞うパーティーを開きます。その際、政治の話は一切しません。政治談議をすれば、意見の対立が生じ、票が逃げてしまうからです。陣営はヴァン・ビューレンの貴族趣味を批判し、ハリソンを丸太小屋に住む庶民派の戦争の英雄を印象づけることに専念します。キャンペーンはさながらカーニバルで、史上最も陽気で馬鹿馬鹿しい大統領選挙と言われています。

 「ハード・シードル」は発泡リンゴ酒のことです。比較的製造が容易で、アメリカでは一般人が自作することも多く、言わばどぶろくです。刑事コロンボ・シリーズの第 28話『祝砲の挽歌』に登場する「リンゴ酒がこのハード・シードルです。日本の文献では「ハード・サイダー」となっていますが、「・ハード・シードル」の方が現在は訳としては適切でしょう。なお、発酵させていないノン・アルコール・リンゴ飲料は「スイート・シードル(サイダー)」です。

 この選挙結果は次の通りです。ウィリアム・ハリソンは得票数1,275,390、得票率52.9%、選挙人数 234です。他方、マーティン・ヴァン・ビューレンは得票数1,128,854、得票率 46.8% 、選挙人数60です。ハリソンの圧勝です。

 ホイッグ党初の大統領の誕生です。民主党とホイッグ党の二大政党制での初めての政権交代が起きます。

 1841年3月3日、すなわち就任式の前日、名文家として知られるダニエル・ウェブスター国務長官が一緒に演説原稿を書くことを提案しましたが、大統領は自分で用意するとその申し出を丁重に断っています。翌日の就任式当日、演説原稿を目にした国務長官は腰を抜かさんばかりに驚きます。あまりに長大だったからです。

 内容も合衆国政治と関係のないローマ史に関する言及が多く、ローマの代理執政官である「プロコンスル」が17回も登場します。選挙キャンペーンでも政治の話をしていないのですから、何を語ればよいのか思いつかなかったのかもしれません。国務長官は大急ぎで添削を始めますが、時間が足りません。8,445ワードまで削るのがやっとです。しかも、通常こうした演説で用いられない一人称単数の「私(I)」が45個も残っています。

 就任宣誓を行なった3月4日は非常に寒く、強い風に雪が舞う悪天候です。ところが、第9代大統領は、寒風吹く中、帽子も手袋もコートも着用せず、1時間45分も就任演説を行います。これは合衆国史上最長の就任演説です。

 ちなみに、最短はジョージ・ワシントンの2期目の就任演説です。わずか2分で終わっています。実は、彼は歯が悪く、何を言っているのか聞き取れないほどです。記者たちは演説後に原稿の写しを読んで内容を知ったと伝えられています。ワシントンのよく知られた肖像画は、『ゴッド・ファーザー』のマーロン・ブランド同様、口に綿を入れて頬を膨らませた姿を描いたものです。

 その後、ホワイトハウスまでパレードを行い、祝賀パーティーを三つはしごします。当時大統領としては最高齢の68歳ということもあり、行事をこなしたハリソンは体調を崩します。就任式の日の直後に寝込んでしまいます。病状は芳しくなく、肺炎により4月4日に亡くってしまいます。在任期間わずか1カ月の大統領です。演説時間は史上最長ながら、任期は史上最短です。

 実は、この時、夫人アンナ・ハリソンはまだワシントン入りしていません。地元で荷造りをしている最中に、夫の訃報を受け取っています。急ぎ首都に向かいますけれども、結局、夫人は国葬にも間に合いません。彼女は一度もホワイトハウスに入らなかったファースト・レディーです。

 ハリソンの臨終を看取った医師は、彼が次のような言葉を遺したと明らかにします

 "Sir, I wish you to understand the true principles of the government. I wish them carried out. I ask nothing more".

 これは副大統領に宛てた後継指名の遺志と理解されます。

 大統領が任期中に死亡したのは建国以来初の出来事です。ハリソンが亡くなった1841年4月4日、副大統領のジョン・タイラーが正大統領に就任します。この継承は、当時、憲法上に規定された制度ではありません。そのため、タイラーは正統性の怪しい大統領と見なされます。「偶然内閣」や「継承内閣」──日本なら「棚ぼた内閣」でしょう──と揶揄されています。それに反発した彼は強権的に政権運営を行い、議会とも激しく対立します。

 大統領より議会の権限が優越しているというのがホイッグ党の主張です。タイラーの政治手法はホイッグ党の方針と合致しません。就任2カ月にしてタイラーはホイッグ党から除名されてしまいます。与党を持たない無所属の大統領です。ホイッグ党によるタイラーおろしが激化、内閣から閣僚6名が辞任します。前任者が在任期間1カ月で病死した後、後継者は2カ月で倒閣運動という有様です。

 こうして眺めてくると、当時のアメリカの政界は混乱していたことが分かります。二大政党制が始まったものの、未熟です。それが政治家にも有権者にも十分に理解されていません。選挙キャンペーンは政策論議梨のイメージ戦略です。おまけに、酒を振る舞って投票してもらおうというのです。今でも民主主義の経験が乏しい途上国でしばしば見られる光景です。

 民主主義はそれが何であるかを理解して経験を積んで定着した上で、初めて信頼性を持つということがわかります。二大政党による政党政治の構造ができたとしても、それが効果的に機能するためには人々の認知と行動への浸透が必要です。政治が混乱する際、システムの構造と人々の認知行動が祖語を来たしていることがあるのです。ワン・マンス・プレジデントのハリソンはそうした時代の一つの象徴と言えるでしょう。
〈了〉
参照文献
宇佐美滋、『アメリカ大統領を読む事典』、講談社+α文庫。2000年

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