1910年世代と市民(2015)
1910年世代と市民
Saven Satow
Oct. 08, 2015
「純真な魂はファシストたちのものだ。そうした純真な魂をだました、おとなのほうが本物のファシストかというと、隣組の防空演習などに熱中するのは、たいてい気のいい善人たちだ」。
森毅『非国民の思想のために』
在野の哲学者として知られる久野収は、日本国憲法制定後の1949年に『平和の論理と戦争の論理』の中で「市民」を提唱している。これは、1960年代以降、民主主義を考察・実践する際の重要な概念と位置づけられている。
市民は国民と異なっている。国家は国民・領土・主権の三要件によって成り立つとされている。ここの説に従うと、国民は国家に属する要素である。しかも、明治憲法体制では国民は主権者である天皇の臣民とされている。
近代社会は自由で、権利として平等、独立した個人によって形成されている。お互いに水平平等的に交際・交流し、身分や出自を理由にした上下垂直的関係を認めない。市民はこうした社会における意思判断の主体である。国民主権の立憲体制では、市民は主権を主体的に行使する存在である。
「市民」は、戦前、「小市民」を指し、揶揄の対象である。久野収がその意味を転倒して「市民」を提唱したことを戦後民主主義の系譜から理解できる。ただ、その際、彼が1910年生まれだという点が見逃される。彼が属する1910年世代は自治会・町内会の設立メンバーである。久野収はマイ・ジェネレーションの自己批判として市民を語っている。
自治会・町内会は地域社会に根差した組織である。その要件は、玉野和志首都大学教授の『町内社会と町内会』によると、全戸加入を原則とし、地方自治体の行政組織に対応、事実上公共的な団体として認知されていることである。
自治会・町内会は伝統的村落共同体に由来する保守的組織と思われ、戦後民主主義からしばしば批判される。加入が自発的ではなく、個人単位ではないし、機能が単一的ではないなど前近代的だというわけだ。けれども、この組織は、実は、1930年代にそうした伝統に対抗して誕生している。前近代からの既得権を持つ組織の構成員は自治会・町内会に参加できない。
世代と言うと、団塊の世代が最も有名であろう。それに比べると、1910年世代は確立しているとさえ言えない。1910年はハレー彗星が地球に最接近し、久野収の他、黒澤明監督も生まれている。この世代は区切りとなる年齢の時に歴史的変動が重なっている。1910年生まれは、普選法制定の25年に15歳、世界恐慌期の30年に20歳、戦時統制が強化される35年に25歳、大政翼賛会結成の40年に30歳、敗戦の45年に35歳、朝鮮特需の50年に40歳、55年体制成立の55年に45歳、60年安保の60年に50歳である。
もちろん、あくまで世代である。1910年世代は1910年前後に生まれた層という意味だ。
戦前、高等小学校を終えると、すぐに社会に出る少年が多い。1920年代に急速に進展する都市化の流れの中、工場の労働者や自営業の奉公人として働くために村を後にする。23年の関東大震災後、東京は近代化・拡大化し、杉並を始め山手線の西の外側にも宅地化が進む。
この人口流動化の20年代は大正デモクラシーの時代である。普選の実施を代表に政治参加の拡大が求められる。地域も同様である。持ち家の旧住民だけでは地域をまとめられなくなり、労働者たちにも門戸の開かれた新たな自治組織の必要性が高まる。
当局が労働運動を弾圧したので、この若い労働者の中で左翼系に加わる者は必ずしも多くない。しかし、当時の雇用契約は労働者に大幅に不利であり、簡単に解雇されてしまう。世界恐慌が起きると、失失業者が街に溢れる。
その頃、1992年に放映された放送大学特別講義『わたしの学問研究~哲学者として生きた昭和~』によると久野収は京都帝国大学に入学したものの、不況のため、高山岩男のような主席クラスでさえ職が見つからない状況に呆然としている。まさに「大学は出たけれど」の現状を実感している。
エリート中のエリートがこの有様では他は推して知るべしだ。1910年世代の失業者たちは自ら町工場を起こしたり、小売店を開いたりしている。関東大震災後、郊外にも人口が増えたので、そこに移って事業を始める人も少なくないいずれの場合でも土地を地主から借りる必要がある。地主は農地利用に不向きな川沿いなどの土地を彼らに貸し、そこに商店街が形成される。
商店街の新参者は地主の組織に入れてもらえない。地主は前近代からの既得権を持っている。彼らを自分たちの組織に入れたら、それが脅かされてしまう。そこで1910年世代の経営者・事業者は自らの組織を結成する。これが自治会・町内会である。
自治会・町内会が1910年世代によって生み出されたこと歴史の綾であるが、それを考える際にはその点を考慮しなければならない。この組織の誕生は戦時統制強化の時期に当たる。戦争遂行のため、統治者は国民を総動員しようとする。彼らは自治会・町内会に目をつける。行政はこうした組織を調査、有用性を認め、結成を促している。行政は国民統制を末端まで行き渡させるために組織を組みこむ。
会を結成したものの、構成員には世間から認められていないという不満がくすぶっている。他方、地主は長年その地に住み、功績もあるので、名声が確立している。行政への協力は自らの存在意義を世間に示す契機と彼らは捉える。
行政の末端に組み入れられることは国家にその実績を承認されたことである。村落を後にした二男三男にとってそれは栄誉なことだ。戦争協力と引き換えであっても、お国が正式に認めてくれたことは彼らの上昇志向を満足させる。彼らにとって町内会は社会の中の組織ではない。国家の中の組織である。
1940年、部落会町内会整備要領に基づき、全国一斉に部落会や町内会が整備される。なお、部落は字(あざ)でくくられる地域単位である。その際、この会には特定地域の住民の全戸加入が原則化される。こうした網羅は国家統制の一環である。
ここで注意しなければならないのは参加の拡大は動員にしばしば転換してしまうということだ。自治的運動であっても、それを根拠づける際に、動員と化すことがある。
中核メンバー以外は町内会の行政協力を必ずしも歓迎してはいない。森毅を始め多くの証言が町内会の構成員への干渉・強制に辟易していたことを物語る。1910年世代はお国に認められたと名誉に感じていたかもしれないが、彼ら以外はそれに必ずしも意義を見出していない。
戦争が終わったとき、悪いのは将軍たちで、その手足となった兵士たちに罪はない、といった言説が幅を利かせた。実際に迷惑だったのは隣組の軍国おじさんや、下っ端の兵隊たちだったのに。悪いことはたいてい、手足の仕業である。頭のせいにして、手足の大衆を免責するのは不満だった。
昔から王殺しというのがあって、社会の悪を浄めるのに、王を殺すカタルシスによって、秩序をとりもどす。しかし、本当のところ、悪は社会の秩序そのものになかったか。
戦闘にあって、手足は頭の思うとおりに動いてもらわぬと困るかもしれない。だから、軍隊がきらいだったのだ。戦前はそれでも、軍隊と別の論理もあったのに、かえって戦後になって日本中が帝国陸軍になってしまったような気がしている。手足がもっと、自分の判断をするべきだったはずなのに。
今の社会にいろんな変革が求められているが、その社会悪の元兇を求めて、それを叩こうとする、元兇還元主義とでもいったものを感じる。悪い奴を糾弾してうさばらしをしても社会は変わらぬ。元兇還元主義と、手足の大衆を免責することが現在の問題ではないのか。そりゃ頭とは責任を追求するための存在なのだから、糾弾して権威をおとしめるのは当然のこと。しかしそのことで、うさばらしや大衆免責にならぬようにしなきゃ。
(森毅『元兇還元主義からの脱却)
戦後、GHQは軍国主義体制の末端として働いた町内会の解散を命じるが、旧内務省官僚が抵抗する。行政にとって必要とされてきたからだけではない。社会が混乱する中、食糧配給や連絡網など地域の暮らしのために不可欠だからだ、GHQの命令に反しないように、防犯協会など別の名称を使ったり、町内会の事務所を役所の出張所にしたりといった工夫をして実態として会は存続する。
占領終結後、行政は自治会・町内化を公然と復活させる。元々住民の主体的な会であったが、行政にとって都合のいい組織ととり扱われるようになる。しかし、自治会・町内会も行政区域内で連合会を結成し、そうした下請け扱いに抵抗する。徐々に行政協力員制度が整備されたり、首長と会長の定期的な懇談会が設けられたりなど任意団体であるはずの会は特別の地位を与えられていく。
1960年代の高度経済成長期、都市部にかつてないほどの勢いで人口が集積していく。その多くは労働者やサラリーマン、OLといった月給取りである。戦前と違い、組合運動も法的に保障され、それを支持基盤とする革新政党も活動している。自営業者を中核とする旧来の自治会・町内会だけで地域コミュニティをまとめることはもはや難しい。こうした環境の変化に伴い、公害を始め新たな社会問題が顕在化してくる。
新しい民主主義の担い手として「市民」が注目される。それは政治を自治と捉え、主体的に意思決定に参加しようとする。従来の自治会は統治と一体化している。しかし、自治は国家ではなく、社会に基盤を置き、行政の末端として働くことではないと市民は考える。
市民が自治を主張すると、かつての新住民は反発する。それは、自分たちが保守系の政治家を指示するのに対し、市民が革新系というイデオロギー対立だけではない。
長年、地域の自治を主体的に担ってきたのは自分たちだ。市民は居住専用住宅に住み、一日の大部分をオフィス街で過ごし、休日は行楽に出かけ、地域に短い時間しかいない市民は興味があるテーマにだけ取り組み、地味な公的活動に参加どころか、無関心でさえある。自分たちの実績を認めようともせず、近代的な民主主義を阻むと批判する。
確かに、自治会・町内会が地域を支えてきた実績はあるし、認めないのは不当である。しかし、「市民」をいち早く提唱したのは1910年世代の久野収である。彼は戦時体制下で町内会がどのように振る舞ったか知っている。戦前の反省を踏まえて、政治を国家からではなく、社会から捉え直すべきだと市民を示している。
その後も、自治会・町内会と市民活動の間の対立は続くが、今や両者の関係も変わりつつある。どちらか一方の組織だけで地域をよりよくしていくことが難しいのは明らかだからだ。手を携えてコミュニティを支え合うほかない。空き家問題などは行政も含めた三者で協力しないと解決が難しい。
現代の政治学は理論においても実践においても市民や自治を重視する。けれども、その際、1910年世代のつくった組織に対して必ずしも肯定的ではない。ただ、その歴史的経緯は単純な見方を退ける。それを省みつことは市民や自治をめぐる試みに示唆を与え、議論を進化させるだろう。
〈了〉
参照文献
浅川達人他、『現代都市とコミュニティ』、放送大学教育振興会、2010年
森毅、『ひとりで渡ればあぶなくない』、ちくま文庫、1989年
同、『21世紀の歩き方』、青土社、2002年