『武蔵野』オンライン(6)(2020)
6 中上健次と村上春樹
柄谷行人は、1980年刊行の『日本近代文学の起源』の「風景の発見」や「内面の発見」において、こうした国木田独歩のアイロニーを意味と無意味の転倒と捉えている。歴史的に意味あるものよりも無意味とされてきたものを称揚することで価値の秩序が点灯し、近代文学が必要とする風景を発見する。内的自然と外的自然の相互作用がその際に伴っている。しかし、すでに述べた通り、国木田独歩のアイロニーは文学が基づく風景の共通理解を西行からツルゲーネフに変更したのであり、意味と無意味の転倒ではない。
確かに、1898年の『忘れえぬ人々』のように、意味と無意味の転倒と思える作品もある。しかし、それは公私分離の表明である。忘れてならない人を忘れ、忘れてしまいそうな人を忘れない。近代では価値観の選択が個人に委ねられている。忘れるか否かも同様である。独歩は近代文学の確立を目的に創作をしているのであり、そこから作品を捉えるべきである。
柄谷の論考はその発表当時流行していたポストモダン的思想風潮に則っており、彼は独歩もそれに沿って理解している。だから、独歩より村上春樹の方がふさわしい。独歩らによって形成された日本近代文学の風景は都市化=均質化の進展に伴い、東京オリンピックの頃に焼失する。どこも同じ風景になったのなら、描写する意義はない。それを最も敏感に感受して描いたのが中上健次である。中上健次は、本流的な近代文学の枠組みを借りつつ、独自のレトリックでその内容を描く。それは独歩が日記文学の形式を生かしつつ、新たな風景の共通基盤を示したことの再帰でもある。ただ、独歩と違い、中上健次は近代文学の終焉を告げ、その後の道筋は提示しない。村上春樹は、中上健次の試みを踏まえつつも、もはやアナーキーなのだから、何をしてもよいと短絡的な結論を引き出す。村上春樹は、アイロニーによって意味と無意味の転倒を計る。それは恣意による自意識の優越性の確保を動機にしている。
その恣意による現実に対する自意識の優越性は、しかし、反撃に遭う。ORICON NWESは2014年2月7日17時58分更新「村上春樹、“たばこポイ捨て”批判にコメント 単行本では『別の名前に変えたい』」においてそれを次のように伝えている。
作家の村上春樹氏が7日、自身の短編小説『ドライブ・マイ・カー』で、北海道中頓別町に関して事実に反する表現があるとして、町議らが批判を明かしたことを受け、文藝春秋を通じてFAXで見解を発表した。
問題とされたのは、同町出身の女性ドライバーが、火のついたたばこを車から外に捨てる描写で、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていること」なのだろう」と表現されていた。町議らは「たばこの投げ捨てを普通にやることはあり得ない」などとして、文藝春秋に対応を求めていた。
村上氏は、「僕は北海道という土地が好きで、これまでに何度も訪れています。小説の舞台としても何度か使わせていただきましたし、サロマ湖ウルトラ・マラソンも走りました。ですから僕としてはあくまでも親近感をもって今回の小説を書いたつもりなのですが、その結果として、そこに住んでおられる人々を不快な気持ちにさせたとしたら、それは僕にとってまことに心苦しいことであり、残念なことです」と釈明。
さらに、「中頓別町という名前の響きが昔から好きで、今回小説の中で使わせていただいたのですが、これ以上の御迷惑をかけないよう、単行本にするときには別の名前に変えたいと思っています」と今後の町名の変更を示唆している。
また、掲載元の文藝春秋は、同町からの質問状がまだ届いていないとし、「『ドライブ・マイ・カー』は小説作品であり、文藝春秋は作者の表現を尊重し支持します」とコメントしている。
北海道中頓別町をGoogle Earthで確認し、ストリートビューで走ってみよう。人家はあまりなく、道路沿いに集まっているように見える。非常に濃い緑が多く、森林が広がっている。道路を走って見ると、牧草地と思われる農地が広がっている他、木々が道に迫ったり覆いかぶさったりしている。対向車はほとんど見かけない。これだけ草木が多いと、山火事が怖く、タバコのポイ捨てをするとしたら、倫理性・社会性のない人物くらいだろう。2010年代に入って山火事の問題は世界的に報道されており、森林を抱える地域の人々は火の用心に注意を払っているに違いない。
この詩的のはるか前の作品から、村上春樹にとって地名の選択は恣意的である。自意識の優越性が目的だから、無意味であるほどよい。三流お笑い芸人のすべったギャグとしか思えないが、それを彼のカルト的な読者は歓迎する。だが、ろくに調べもせず、誤りを指摘されれば、元々選択に合理的な根拠がないので、慌てて変更すると言い出す。村上春樹を賛美することは倫理性・社会性がないと告げているのと同じである。
村上春樹のアイロニーは、新たな文学の共通基盤の構築ではなく、カルトてきな読者とのコミュニティ形成に作用している。そのため、村上春樹は狂信的愛読者がいても、文学的後継者を生み出さない。
東京オリンピック以降、日本近代文学が基づいていた風景は消失している。しかし、風景は無意味になり、恣意的に扱っていいものになったわけではない。村上春樹は近代の公私分離を否定、公に無関心を装い、私の優越性を語る。だが、原題の思想はそれほど短絡的ではない。公私分離の再検討を促す。フェミニズムは私の側から、宗教は公の側からそれぞれその原理が真に守られているのかを問い直す。公私分離の再検討は重要な現代的課題の一つである。そうした意識のない私の越権は糾弾される。北海道中頓別町が反発したように、倫理的・社会的意味を帯びるようになっている。それが新たな文学における共通認識である。そのらめ、風景は主観的・恣意的ではなく、倫理的・社会的に描写される必要がある。
物事に接した際、主観的価値判断によってのみ反応するとしたら、現代人としてあまりに素朴である。あまりに倫理性・社会性が乏しい。夏の暑さにも、もちろん主観的な快苦を覚えるけれども、地球温暖化と関係しているのではないか、熱中症による犠牲者が出るのではないか、原発が止まっても電力不足になっていないではないか、マスクの着用率が下がりコロナの感染が拡大するのではないかといったニュースと関連した反応をするものだ。風景の認知もそこに倫理的・社会的意味を読み取るものが含まれているのであって、恣意的なものだけでは現代的ではない。現代の文学が基づく風景がそうであるなら、描写も倫理的・社会的にならざるを得ない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?