ハロー、レーニン!(44)(2007)
4 ロシア革命
ユリウス暦一九一七年二月二三日、サンクトペテルブルクで、食糧配給の改善を求めるデモが起きる。最初は小規模だったが、次第に参加者が増え、警官隊と衝突し、市民に多数の死傷者が出る。この事件をきっかけに、市民の怒りは爆発し、また、軍内部でも兵士が反乱を起こす。こうした反体制運動が革命に発展していく。
二月革命によってロマノフ王朝は打倒される。一九〇五年に皇帝ニコライ二世がドゥーマ、すなわち国会を開設していたが、そのブルジョア議員は臨時政府を樹立する。その一方、労働者や農民、兵士などの代表によって構成されるソヴィエト、すなわち評議会も自然発生的に発足している。この両者が連携して政権運営を図っていくことになる。
社会革命党、いわゆるエスエルのアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーを首班とする臨時政府は報道の自由や集会の自由など自由主義的政策を着々と実施し、解放感を社会にもたらす。しかし、その一方、英仏との同盟関係を維持し、対独戦争の続行を決定する。
いわゆる「封印列車」に乗って亡命先のスイスから帰国した同志レーニンは、『現在の革命におけるプロレタリアートの任務』、いわゆる四月テーゼを公表する。そこで、戦争の帝国主義的性格を確認し、祖国防衛主義を糾弾している。その上で、ロシアのブルジョア革命は終了したのであり、「労働者・雇農・農民代表ソヴィエト共和国」の創設を提言する。当初、同志レーニンは烏合の衆ではないのかとソヴィエトに懐疑的であったが、現状を分析し、考えを改めている。当時、これを支持するものはボリシェヴィキにおいてさえいなかったけれども、公認路線となる。ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトへ」と二重権力構造の解消をスローガンに掲げる。
同志レーニンは同志プレハーノフの二段階革命論を支持していたが、この四月テーゼでは、レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー、おお優秀なる革命家である同志トロツキーの永続革命論の立場をとっている。一国でプロレタリアートの政権が成立しても、帝国主義の時代においては、十分ではない。革命の衝撃を各地に伝え、全世界で共産主義社会、すなわち世界ソヴィエト共和国連邦を実現しなければならない。また、後進国の場合、革命政権の維持のために、進んだ他国での連続した革命が必須である。さらに、既に権力の奪取が成功した国では、改革の継続が不可欠である。
同志諸君、よく知られている通り、ボリシェヴィキはソヴィエトにおいて少数派である。けれども、臨時政府内部の対立が激化し、ソヴィエト内でのボリシェヴィキの発言力が増し、状況は二月体制打倒へと進む。
その際、同志レーニンは『国家と革命』(一九一七)により来るべき社会像を描き出している。これは極めて楽観的であるだけでなく、はっきり言ってしまえば、アナーキスト的である。ブルジョア国家が崩壊した後、階級的対立は消滅し、国家の強制的機能は衰退し、社会や経済の管理は誰にでも行えるほど簡単になるとその作品は物語っている。国家は消滅する。執行と立法を同時に行うソヴィエト制度、さらに、プロレタリアートに責任を負い、解任することのできる「監督」と「記帳係」がそれに取って代わる。このような希望に満ち満ちた内容となっている。
同志レーニンの著作は常に戦略的に書かれている。『国家と革命』も例外ではない。革命は絶望から起きない。革命が希望と思えたときに生じる。同志レーニンの著作を読む際には、彼の戦略が何であるかを考えなくてはならない。
ユリウス暦一九一七年一〇月二五日、二月体制は崩壊する。慎重な計画を立案して、各勢力活動の統合した上で、同月二四日にボリシェヴィキは蜂起し、ほぼ無血で権力を掌握している。
ソ連崩壊後のロシアでは、これは「クーデター」と呼なれている。歴史を正当に評価しようという試みから生じているわけではない。旧共産党の流れをくむ勢力以外、一〇月体制の意義を見出すものが少ないからである。
ウラジーミル・ウラジミロヴィチ・プーチンは、いかに一〇月革命がなぜ成功したのではなく、なぜ帝政ロシアやケレンスキー内閣が崩壊したかを使って、自分の強権政治を正当化している。彼は、一九八三年に書かれたアレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンの『二月革命』の説をロシア中に流布している。つまり、それは、優柔不断で、決断力に乏しい弱いリーダーだったから、政権が自戒したというものである。
新政権はドイツとオーストリアとの単独講和に向かうが、提示された条約内容はほぼ降伏条件であり、党内分派の左翼共産主義者、すなわちプハーリン派は締結に反対し、革命戦争の遂行を主張する。
なるほど、同志レーニンも、政権を手にする前は、革命戦争の推進を支持している。しかし、いざ最高権力者となると、『併合主義的単独講和の即時締結についてのテーゼ』で、ソヴィエト・ロシアには戦争を続ける能力も条件もなく、またドイツ革命が勃発する可能性が低いと反論する(実際に、一九二〇年から翌年にかけて、領土拡大を目的として、攻めてきたポーランドと戦争になり、赤軍はドイツ革命の支援を期待して進撃したものの、ワルシャワで大敗している!!)。激しい党内論争の後、同志レーニンらの単独講和論が勝利し。一九一八年三月三日、ボリシェヴィキはブレスト=リトフスク条約を締結している。
三月一九日、ソヴィエト政権は首都をサンクトペテルブルクからモスクワに移す。すでにこ、暦もユリウス暦に代わり、西欧で使われているグレゴリ暦を採用している。これらは帝政ロシアからの決別を内外に印象付けることになる。
これで平和がくるはずだったが、その直後、ロシアは内戦状態に突入する。各地で、白軍や民族主義者、社会革命党、アナーキストなどが蜂起し、加えて、日本やアメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど列強各国がシベリアに出兵して軍事干渉を始める。ロシア内戦は、勝ち抜いたボリシェヴィキ改めロシア共産党による一九二二年のソヴィエト社会主義共和国連邦の成立まで続く。「レーニンの最大の功績は、権力を保持し、強化して、その後の五年間で無政府的な内戦の状態を確固たる権威のもとに解消せしめたところにあったのです」(ジョン・K・ガルブレイス『不確実性の時代』)。
二〇世紀後半以降の内戦の泥沼化を経験して現在から見れば、それは確かである。同志諸君、いったん内戦が始まれば、ほとんどの場合、一〇年以上続くのをわれわれは目の当たりにしている。それをわずか四年で、あの広大なロシアで繰り広げた内戦を終結させ、一定の秩序を回復したというのは驚異的と言うほかない(ジョージ・W・ブッシュ大統領閣下、貴殿はそれをいかにお考えか?)。
一九二二年、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国、ザカフカス・ソヴィエト連邦社会主義共和国、それにロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の四共和国の合意によってソ連が成立する。一九三六年に、ザカフカス・ソヴィエト連邦社会主義共和国は廃止され、グルジア・ソヴィエト社会主義共和国、アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国およびアゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国へと分かれている。
一九九一年、結成に携わった三つの共和国は、核兵器の帰属問題を交渉している間に、二二年の約束を思い出し、連邦解体に合意して(核保有国はロシアだけにするということで)、構成国はそれぞれ独立する。
同志諸君、内戦が始まった直後、ボリシェヴィキは戦時共産主義と呼ばれる諸政策を実施する。工業と銀行を国有化し、穀物取引の規制ならびに余剰穀物の(強制)提供を命じる。しかし、支持者から反発を浮け、暴動の頻発を招いてしまう。穀物の強制徴収は革命の拠点の一つクロンシュタットでさえ反ボリシェヴィキ運動が起きているくらいだ。
富の再配分のシステムがなければ、信じる政策をただ実施すれば、不満は起こるものだ。そこで、同志レーニンは新経済政策、いわゆるネップへと経済政策を転換させる。革命家集団の行政手腕は明らかに経験不足で、統治すること何たるかさえわかっていない有様である。一九一八年、『ソヴィエト権力の当面の任務』において、国内経済の早急な建て直しを目的に、企業と経営に対する記帳と統制の組織化、ブルジョア専門家の登用、生産過程における単独責任制の導入を提言する。市場経済を大胆に取り入れる。
しかし、コミューン国家を理想とするプハーリン派からは社会主義の放棄だと激しく非難される(ネップにより、生産部門が一九二七年には戦前の水準にまで回復してたのだが)。そのため、同志レーニンは、政治的には、締めつけを強化する。彼はこれまでも左翼共産主義者や民主主義的中央集権派、労働者反対派から非難され続けてきたが、理論闘争、すなわち「批判の自由」が運動を活性化させるとの考えをとっている。しかし、一九二一年、ロシア共産党第一〇回大会において、党内分派の結成を禁止し、中央委員会にそれを目論む分子の除名権限を採択させる。
同志諸君、経済的に緩めた代わりに、政治的に厳しくしてバランスをとろとしたと見るべきだろう。これは簡単に予想されることだが、中央の統制が緩んで、遠方の党が勝手に企業活動に走れば、利権に群がる地元と癒着し、腐敗や不正の温床となる。それは、結局、国の分裂につながる。
一時的措置と思われていたけれども、同志レーニンの永眠後、同志スターリンはこれをおおいに利用していく。
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