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『武蔵野』オンライン(1)(2020)

『武蔵野』オンライン
Saven Satow
Sep. 28, 2020
 
「僕は時間の長短が人の真の交わりに関係するとは信じない」。
国木田独歩
 
1 国木田独歩と結核
(前略)
 久《ひさ》しぶりで孤獨《こどく》の生活《せいくわつ》を行《や》つて居《ゐ》る、これも病氣《びやうき》のお蔭《かげ》かも知《し》れない。色々《いろ/\》なことを考《かんが》へて久《ひさ》しぶりで自己《じこ》の存在《そんざい》を自覺《じかく》したやうな氣《き》がする。これは全《まつた》く孤獨《こどく》のお蔭《かげ》だらうと思《おも》ふ。
 
 国木田独歩は『都の友へ、B生より』でこう記している。今世界は新型コロナウイルス感染症のパンデミックに見舞われている。月が改まった9月1日も都内の新規陽性者数は170人、死亡1人である。人類は今回を含め多くの感染症に苦しめられてきたが、近代日本における最も代表的なそれは結核である。2020年3月25日に小池百合子東京都知事が不要不急の外出を避ける要請を都民に出してから半年が経つ。今の状況を見つめる際に、過去の感染症にも関心が向く。これを書いた国木田独歩もその「病気」を患い、この作品にも反映されている。現在、感染症の中で世界的に最も死者数が多いのは結核で、約150万人である。だが、COVID-19はこれを超すのではないかと危惧されている。
 
 国木田独歩(1871~1908)は、現在では小説家として知られているが、その作品が自然主義文学の先駆と評価されたのは亡くなる間際のことである。生前は有能なジャーナリスト・編集者として有名である。グラフ誌や漫画誌も手掛けたと言うのだから、時代の流れを見極めることに長けていたように思われる。今も続く『婦人画報』を創刊したのも彼である。近代日本の編集者の中でも最も優れた一人と言えるだろう。ただ、経営者としては今一つだったようで、独歩社という出版社を1年ほどで破産させている。
 
 独歩は、1907年の破産後に、肺結核を発病している。いつどこで感染したかは不明である。出版社経営、いくつかの雑誌を発行したものの失敗、発病の年に破産に陥る。おそらくストレスの増加や睡眠不足、栄養が不十分な食事、不衛生な住環境など免疫力が低下する条件がそろっていたと思われる。彼は、前年年に刊行した作品集『運命』が闘病生活に入った頃から高く評価され、自然主義運動の中心的作家と文壇より注目されるようになっている。彼は、発病後、神奈川県高座郡茅ケ崎村にあった結核療養所の南湖院で療養生活を送ることになる。しかし、『竹の木戸』などの作品も発表していたけれども、病状が悪化、1908年6月23日に亡くなる。享年38歳(満36歳)である。葬儀は、広範囲で活躍し、作家としての名声が高まっていたこともあり、文壇関係者をはじめ多数の著名人が列席、西園寺公望首相も代理人を参列させている。友人の田山花袋は、独歩の人生を一文字で表すなら「窮」であると弔辞で述べている。
 
 この結核は近代日本文学に欠かすことのできない疾病である。ただ、最初に近代において文学が取り上げた感染症はコレラである。この感染症は幕末から各地で流行が繰り返されている。特に、1879年(明治12年)と1886年(明治19年)は死亡者数が10万人程度に及んでいる。こうした度重なる流行を受け、「コレラ」や「コレラ船」が俳句の季語になっている。
 
 
コレラ出て佃祭も終りけり
(松本たかし)
 
コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ昼餉かな
(杉田久女)
 
月明や沖にかゝれるコレラ船
(日野草城)
 
コレラ船いつまで沖に繋り居る
(高浜虚子)
 
 このコレラ以上に日本近代文学と深い関係があった感染症は結核であろう。結核は昭和20年代まで長らく日本における死因の第1位である。統計では人口10万人当たりの死者数である死亡率が主に使われているけれども、致死率もおそらく10%を超え、発病5年以内に5割が亡くなったとされる時期もあり、人々は結核を「不治の病」と恐れている。この疾病は「国民病」や「某国病」とも呼ばれ、政府はその感染制御を公衆衛生上の最大の課題の一つと取り組んでいる。結核を発病した文学者も多く、国木田独歩の他、二葉亭四迷や森鴎外、正岡子規、樋口一葉、長塚節、石川啄木、宮沢賢治、梶井基次郎、島木健作、堀辰雄、太宰治、織田作之助、立原道造などがいる。正岡子規の俳号「子規」も結核に由来している。結核を病んだ彼は喀血することがあり、その自身の姿を血を吐くまで鳴き続けるホトトギスになぞらえている。こういった社会的疾病なので、文学作品もしばしば取り上げている。
 
 結核は結核菌(Mycobacterium Tuberculosis)による感染症である。1882年、ドイツのロベルト・コッホが結核菌を発見する。結核は、従来、遺伝病と見なされていたが、これにより感染症へと疾病の位置づけが変わる。宿主は主にヒトである。感染経路は被圧感染と空気感染である。接触感染はしない。潜伏期間は、一般的に半年から2年であるが、小児の場合やや短い。初期症状は咳や痰、・微熱などで、血痰や食欲低下、体重減少などが次第に見られるようになる。なお、高齢者は初期症状が顕在化しにくい場合がある。進行すると、肺の病変が拡大して呼吸困難に陥ったり、骨や腸管、腎臓など肺以外の臓器にも病巣を作ったりすることがある。
 
 結核は感染しても発病するのは10~20%とされている。しかし、結核菌は比較的単純な構造をしているため、体外に排出するのが困難で、発病しない感染者の多くは保菌者となる。中には、不顕性感染のまま保菌者として一生を送る人もいる。ただ、感染していても、発病しなければ、他者に移すことはない。余談ながら、結核感染の経験者はアレルギーを起こさないことが知られている。
 
 肺の中に結核菌が入り、ある程度増えると、白血球が集まってくる。けれども、白血球には結核菌を殺す力がないので、逆に倒されてしまい、その死骸を温床にしてさらに増殖する。この状態に対して、Tリンパ球が命令し、食細胞を導入する。食細胞は非常に強く、結核菌を駆逐できるが、菌の数が多かったり、免疫力が低下したりするなどして、食細胞の力が弱いと、結核菌に負ける。食細胞の死骸が増えると、腐敗し、チーズ状の病巣になる。その部分がたんとして外に出る際、肺に穴が空き、空洞にも菌が住みつく。また、痰が逆流して、肺の別の部分にも病巣が広がる。これが繰り返されるうちに、肺の機能が低下したり、血液を通じて他の臓器にも転移したりするなどによって死に至ることもある。肋膜に転移していれば別だが、肺自体には痛みを感じる神経がないので、症状は咳や痰程度であり、初期の段階では、熱もあまり出ないために、病状が進行し、手遅れになるケースも少なくない。
 
 結核菌が体内で増殖して病気を引き起こした状態が発病である。ただし、発病初期は咳や痰の中に結核菌が入っていることはない。結核の進行に伴い、咳や痰を通じて結核菌が排菌され、量が増えると他者に移すようになる。結核は、発症しても、コレラのように急速に死に至ることはあまりなく、比較的長期間感染力が続く。
 
 1943年にストレプトマイシンが開発されたのを皮切りに、抗菌剤による結核治療が定着していく。投薬治療では抗結核薬を6ヶ月以上使用する。排菌がある場合も、一般的に薬を飲み始めて約2週間で他の人への感染性がほぼなくなる。抗結核薬は結核菌が主に分裂する時に殺菌効果を示す。大腸菌など多くの菌が数十分で分裂するのに対し、結核菌は10時間以上を要する。そのため、排菌の有無にかかわらず、症状が消えた後も長期間の服薬が必要である。
 
 結核の病原体は細菌であり、ウイルスではない。細菌は微生物で、自立した存在であるが、ウイルスは他の生物の細胞に寄生しなければ生きていけない。ウイルスはこの寄生によって病気を発病する。細菌のサイズが100分の1mmから1000分の1mmであるのに対し、ウイルスはさらにその100分の1程度である。細菌は一般的に細胞壁に包まれ、その中にDNAやタンパク質合成の場であるリボソームなどがあり、主に分裂して自己増殖する。他方、ウイルスはDNAやRNAがタンパク質でできた膜や殻に包まれている。ウイルス自身にはタンパク質をつくる能力がなく、動物や細菌の細胞に寄生しないと増えることができない。
 
 抗生剤が細菌には効果があるのに、ウイルスにはそうでないのはこうした両社の構造の違いに理由がある。抗生剤には人間の細胞にはない細胞壁の合成などを妨害する作用がある。ところが、ウイルスは人間の細胞に寄生している。人間の細胞に影響させてはならないので、抗生剤の開発が非常に難しい。単純ヘルペスウィルスに効くアシクロビルなど現段階では少数にとどまっている。
 
 治療に使用されるのが抗菌剤とすれば、予防にはワクチンである。結核の予防ワクチンとしてBCG(Bacille de Calmette et Guérin)が知られている。BCGワクチンは1921年に完成、これにより結核予防の途が開ける。ただ、この生ワクチンは乳幼児が感染した場合に、結核性髄膜炎や粟粒結核などの重症化することの予防を目的にしている。BCGによって結核の感染を予防することはできない。だから、結核感染・発病の早期発見が重要になる。結核は潜伏期間が長く、感染しても発病するとは限らない疾病である。そのため、成人の場合、定期検診などで胸部レントゲン写真撮影によって感染の有無を確認することが必須の対策となる。
 
 ワクチンは三つのタイプにわかれる。生ワクチンは原因となるウイルスや細菌などの病原体の力を弱めたもので、BCGがこれに当たる。不活化ワクチンは病原体を殺して免疫をつくるのに必要な部分を利用したものであり、日本脳炎や百日せきがこれに含まれる。トキソイドは細菌が作る毒素を取り出して、毒性を失わせたもので、破傷風やジフテリアではこの型のワクチンが使われている。「免疫とは何か、を定義するとすれば、『生体内に、自らにとって異質な物質が現れた場合に、自らの本来の姿、インテグリティ(完全性、恆常性)を保とうとする、生体にそなわった本質的な機能』ということになろう。つまり『自己』(self)と『非自己』(not-self)を識別し、『非自己』を排し『自己』を保とうとする機能なのだ」(小林登『〈私〉のトポグラフィー』)。

 結核の歴史は古い。ドイツのハイデルベルクで発掘された約9000年前の人類の遺骨に脊椎カリエス、すなわち結核の跡が見られたと報告されている。結核は人間のみならず、牛や馬、猿、羊、山羊、犬、猫など多くの動物が感染する人獣共通感染症である。脊椎カリエスは結核菌が血液から脊椎に入って発症する疾病である。これは結核の中でも数%を占めるにすぎないので、おそらくかなりの人数の肺結核患者がいたと思われる。ただ、ペストや麻疹など結核以上に深刻な感染症があったため、疫病としての優先順位は決して高くない。結核患者が爆発的に増えるのは、産業革命以降である。都市に人が集中し、劣悪な労働環境の中で、多くの人々が感染する。日本も同様で、近代化と共に、結核患者数が増加している。これが減少に転じるのは第二次世界大戦後のことである。
 
 戦後、抗菌剤による治療法の確立、BCGワクチンの普及、生活水準の向上などにより結核患者数が減少、一時は過去の病気とさえ見なされるようになっている。結核感染制御には、医療行政と企業の役割も大きい。行政には大きく二つの功績がある。第一に、結核患者の診療を結核専門病院だけでなく、開業医にも拡大した点であり、第二には、健康保険以外の自己負担分の治療費を国が補助した点である。その上、企業も、結核患者に対する休業保険を充実させ、社内に結核診療センターを開設するなどの方策を独自に打ち出している。ただ、結核患者は近年でも約2万人程度を数え、決して過去の病気ではない。
 
 以上から結核の個性は次の通りである。結核は潜伏期間が長く、発病率が1~2割程度である。初期症状が風邪と錯覚しやすいが、病状が長く、致死率が10%を超える。戦前の日本では十分な予防法や治療法が普及していない。潜伏期間や発病率からいつどこで感染したかがわかりにくく、その環境が維持されやすい。感染経路は飛沫・空気感染だが、感染力が持続する。こうした状況により感染者数が増えれば、発病者数も比例し、死亡者数も大きくなる。
 
 社会的病とも言うべき結核が文学作品に取り上げられることは自然の流れである。しかし、従来畏れられてきた感染症は主に急性の疾病である。先に挙げたコレラを始め、麻疹や天然痘、インフルエンザなどいずれも発病から急激に症状が悪化、場合によっては死に至る。結核のような症状が長期に及ぶ感染症を文学はあまり扱った経験がない。そこで西洋近代文学の方法が必要になる。
 
 日本文学はロマン主義によって結核を取りこむことになる。その取扱い方には顕著な傾向が認められる。それは、一口で言うと、「佳人薄命」」である。結核には微熱の症状があるため、患者の頬が赤くなり、目が潤む。また、食欲不振により痩せ、床に伏せることも多いので、顔色が青白い。しかも、咳きこみ、しばしば喀血する。死に至る場合でも、発病から2週間以内に急激ではなく、比較的長期間に亘ってこうした症状が続き徐々に悪化していく。こうした姿の結核患者は、概して、ロマンスの悲劇の主人公として作品に登場する。なぜこのような美しく高潔な人物が結核に苦しまなければならないのかと思いつつ、まさにそうであるからこそこうした不治の病の運命にあるのだと読者は納得する。愛の苦悩は血を吐くまでのものであり、結核の喀血はそれを具現している。結核は繊細さあるいは卓越さゆえの病であり、患者である主人公は美しき滅びの美学、すなわちデカダンスを具現している。
 
 結核患者にこうしたイメージを与え、この感染症を神話化したのが徳富蘆花の小説『不如帰』(1898~1900)である。これは明治時代最大のベストセラーで、それに感化されて、結核患者やサナトリウムを描く作品が相次いで発表される。作中の主人公浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ」は名セリフとして知られている。『不如帰』は設定を変更すれば、今でもサブカルチャーで人気を博すことだろう。ロマン主義のアイロニーは既存の価値観を転倒させる。悲劇のカタルシスにより結核は近代のヒーロー・ヒロインが感染する運命の病である。感染に人格がないにもかかわらず、結核患者は選ばれた人へと認識される。
 
 スーザン・ソンダークは、癌患者だった体験に基づいた古典的著作『陰喩としての病い』において、「私の言いたいのは、病気とは陰喩などではなく、従って病気に対処するには--最も健康に病気になるには--陰喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだ」と述べている。彼女は陰喩として病がいかに機能してきたかを文化的な記号論によって論じている。ただ、新型コロナウイルスにおける差別で問題になっているように、感染症の場合は「隠喩」と言うより、「人格化」だろう。
 
 結核は知名度があるものの、その特徴はあまり一般には知られていない。文学作品を読んでも、それをめぐる当時の患者や世間の反応はわかるけれども、どういう個性の疾病なのか知ることが難しい。結核は新型コロナウイルス感染症とかなり特徴が異なる。結核は昭和20年代までの近代日本医置いて社会的環境の一つである。予防や治療の画期的方法を期待していたとしても、避けがたい社会的条件と人々は認知していたと思われる。ロマン主義文学は病に関する共通理解を伝統的なものから近代文学的なものへと変更する。国木田独歩が作家として活動を始めたのはこのロマン主義が流行した時期である。独歩にやはり文学の共通理解を伝統から近代へと更新している。それは『武蔵野』で試みられた風景であり、感染症と同様、現代的課題の一つであるエコロジーの先駆である。
 
 暫時《しばら》くすると箱根《はこね》へ越《こ》す峻嶺《しゆんれい》から雨《あめ》を吹《ふ》き下《おろ》して來《き》た、霧《きり》のやうな雨《あめ》が斜《なゝめ》に僕《ぼく》を掠《かす》めて飛《と》ぶ。直《す》ぐ頭《あたま》の上《うへ》の草山《くさやま》を灰色《はひいろ》の雲《くも》が切《き》れ/″\になつて駈《はし》る。
『ボズさん!』と僕《ぼく》は思《おも》はず涙聲《なみだごゑ》で呼《よ》んだ。君《きみ》、狂氣《きちがひ》の眞似《まね》をすると言《い》ひ玉《たま》ふか。僕《ぼく》は實《じつ》に滿眼《まんがん》の涙《なんだ》を落《お》つるに任《ま》かした。(畧)
(『都の友へ、B生より』)
 

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