3・11から見る新聞(2016)
3・11から見る新聞
Saven Satow
Mar. 11, 2016
「それでも新聞をつくり続けた」。
『河北新報のいちばん長い日』
2011年3月11日、自らも被災者でありながら、社会的責任を果たそうと取り組んだ大勢の人々がいる。その中に新聞も含まれる。
被災地の新聞は、震災直後、「新聞が何であり、また何であり得るか」と自問自答している。その上でなされたことは新聞ならではの取り組みである。
2011年3月12日、石巻市内六ケ所の避難所の壁に『石巻日日新聞』の号外が張り出される。「日本最大級の地震大津波」や「東北地方太平洋地震」、「M8.8最大震度7石巻地方6強」、「正確な情報で行動を!」といった見出しが記されている。それらはすべて手書きである。
『石巻日日新聞』は石巻市で発行されている地域夕刊紙である。3・11の際、同紙の社屋も津波により浸水し、輪転機も水没する。さらに停電にも見舞われる。けれども、記者たちは発行を決して諦めたりはしない。懐中電灯の灯りを頼りに、濡れなかったロール紙に油性ペンで記事を書き上げる。そうやって手作りされた新聞は、12日から17日までの6日間、避難所の壁に張られる。
それは新聞の原点とも言うべき光景である。
この奮闘を『ワシントン・ポスト』紙が伝える。3月21日午後9時20分更新の電子版の記事は「石巻、ニュースは旧式の壁新聞(In Ishinomaki, news comes old-fashioned way: Via paper)」との見出しである。4月12日、DCにあるニュース博物館「ニュージアム」が手書き新聞のオリジナルを永久収集品に加えると発表する。さらに、9月25日、国際新聞編集者協会(IPI)は、台北で開かれた第60回国総会において、「真の新聞記者」として『石巻日日新聞』に特別賞を贈っている。
現在、日本の一般紙は全国紙・ブロック紙・地方紙・地域紙の四種類に大別できる。被災地の地方紙やブロック紙も工夫を凝らしている。
岩手県の県紙『岩手日報』は、2011年10月18日付『毎日新聞』の「新聞週間特集 提携地方紙の震災報道」によると、停電に見舞われ、印刷ができなくなる。災害など緊急時の際の援助協定を結んでいる青森県の東奥日報社に、2日間、印刷を依頼する。
阪神・淡路大震災の時、紙面作成ができなくなった神戸新聞が京都新聞社の協力で発行している。それを契機に、地方紙の間で業務提携の動きが強化されている。
整理部員等7人が東奥日報社に到着したのは盛岡を出発して約6時間後である。整理部は見出しをつけたり、紙面構成を決めたりする部署である。経験豊富なベテラン記者が所属する。東北道が通行止めで、大渋滞の国道を使うほかない。12日付の4ページの日報が本社に届いたのは昼頃である。
震災3日後から犠牲者名簿だけでなく、記者が避難所を回って集めた避難者名簿を『岩手日報』は掲載する。家族や知人がどの避難所にいるのかわからない状態が続く中、それは重要な情報源である。掲載した人数は最終的に5万人を数える。
他にも、非常にきめの細かい情報が紙面に見られる。各種交通機関から入浴サービスまで詳細に記されている。「東日本大震災一連の報道~31世紀への証言」と写真企画「平成三陸大津波 記者の証言」は2011年度の新聞協会賞に選ばれている。
宮城県を中心とするブロック紙『河北新報』も、河北新報社の『河北新報のいちばん長い日』によると、印刷不能に陥っている。輪転機は無事だったものの、紙面作成用のコンピュータが使えない。
そこで業務提携している『新潟日報』に印刷を引き受けてもらう。号外が完成したのは午後10時である。社員自身が避難所へ赴き、配布する。人々が殺到、用意した部数は数分のうちにさばけている。
停電のため、テレビやインターネットが使えない。携帯電話もつながりにくい。ラジオと新聞が被災地での主な情報源である。
前述の『毎日新聞』の特集記事によると、被災地以外の新聞も「伝える力」が試されていると受けとめる。『徳島新聞』は東南海・南海地震が予想される地域で購読されている。東日本大震災の被害の実態と今後の防災の課題などを取り上げた「検証 徳島3・11」を連載している。
また、『長崎新聞』は被爆地ナガサキの県紙である。福島の被曝医療に同行取材し、断続的に特集記事を掲載している。さらに核兵器反対運動と核兵器の平和利用の間の矛盾を問い直している。
震災を通じて、新聞が何であり、何であり得るかに向き合ったのはここで紹介したケースだけではない。地元に根差し、社会の中の新聞を認知して震災報道に取り組んでいる。多種多様な人々がその時々に必要とする情報を認識し、新聞ならではの方法で伝える。人々はそういう新聞を信頼している。
その震災において役立たずで、無様な振る舞いをしたメディアもある。同じ新聞でも全国紙の中には社会的責任を果たそうとしなかったものがいたことも確かだ。無能力で無分別、無責任な報道は人々から信頼されず、失望と幻滅の目で見られるだけである。しかし、そんな彼らは愛国者を自認している。
社会に向き合わず、取材対象と一体化してその主張を垂れ流す。普段からこうした姿勢なので、いざという時の社会の関心がつかめない。読者は情報を教える対象でしかない。
そうした新聞は5年前の報道機関としての姿を総括せず、政府の宣伝部門となり下がっている。社会の中の新聞を反省するどころか、今までの姿勢に居直っている。新聞が何であり、何であり得るかという自問もない。
新聞や通信社といったメディアの記事は記者が書く。無能な記者ほど社会に寄り添わず、権力にすり寄る。宣伝記事を書くだけでなく、テレビで虎の威を借る狐として広報活動に勤しんでいる。
5年後の彼らは威勢よく、声高だ。いざという時の役立たずが脅威を振れ回っている。人々の必要に応えられなかったものがドヤ顔で政府の主張を教化しようとする。最も醜かったものが自国を賛美し、他国を貶めている。避難が続き、復興が途上であるのに、3・11から何も学ばず、何も変わらぬ言動を繰り返す。
3・11が起きなかったとは言わせない。あの日のそれぞれの姿を忘れない。犠牲になった人たちのためにも、忘れるわけにはいかない。
〈了〉
参照文献
河北新報社、『河北新報のいちばん長い日』、文芸春秋、2011年