音楽の行方─宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』(5)(2014)
第4楽章 Allegro giocoso
動物たちがゴーシュを訪問するのは、音楽を学ぶためだけではない。野ねずみはゴーシュに「こゝらのものは病気になるとみんな先生のおうちの床下にはひって療すのでございます」と言っている。音楽が治療だというわけだ。
ゴーシュの音楽療法は、「いきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔から中へ入れて」、「何とかラプソディとかいうものをごうごうがあがあ」と弾くように、かなり荒療治である。音楽は精神のみならず、身体に作用する。「すべての有機体は自分自身のことを歌うメロディである」(ヤコプ・ヨハン・ユクスキュル『動物と人間の環境世界への散歩』)。
バッハは不眠症の貴族に依頼されて、眠るための曲『ゴルトベルク変奏曲』を作っている。音楽は、歴史を省みれば、聞くことのみが目的だったわけではない。音楽は明確なメッセージをそれ自身では伝えることができない。場を通じて意思伝達を行う。典型的に表れるのが儀式の際の選曲である。音楽のメッセージ性は場というコンテクストに依拠するが、ロマン派の時代に普及するコンサート・ホールはそこから独立させる。しかし、ノイズの導入はコンテクストを復活させる。
未来派の画家ルイジ・ルッソロは「イントナルモーリ」という雑音楽器を考案する。これはモーターによって駆動する伝楽器で、雷鳴や疾風、摩擦、打撃など自然のノイズを模倣した音を生み出す。
ルッソロは、1913年に、『雑音の芸術』において、「19世紀に、機械の発明とともに、〈雑音〉が生まれた。今日、〈雑音〉が人間の感性を圧倒し、完全に支配している。……我々の拡大された感性は、未来派的な眼に続いて、ようやく、未来派的な耳によって圧倒されることになろう。こうして我等が工業都市者モーターと機械はやがて、知的に調律され、あらゆる工場で、雑音の陶酔のオーケストラが現われるだろう」と言っている。彼の創作した学期の発するのは自然音をモデルにしているが、目指していたノイズは近代都市から生じる雑音である。
クリスチャン・フォン・エーレンフェルスは、1890年、メロディ知覚を例にして、メロディの「全体は諸部分の総和以上のものである」と説き、メロディ知覚の持つ性質を「ゲシュタルト性質」と呼んでいる。音の物理的特性よりも、生理的・心理的にそれを受けとめる。電気楽器の登場はそれを顕在化させる。
完全に働いている音響再生装置で、音量を下げていくと、低音部と高音部が再生されていないように感じられてくる。ある基音がいくつかの倍音を含み、他の倍音や基音を含まない音楽音が耳に届いたとき、耳ではその和や差から構成される周波数を持ったさまざまなうねりが形成される。その結果、もともとの音には存在しない倍音や基音をつくりだしてしまい、しかも、作られた音は元の基音の倍音でもある。大形スピーカーのない音響再生装置は、通常、中央のハ音よりも2オクターブ下の低音を出せないが、この装置で聞く人間の耳には、倍音のうねりの周波数を分解することによって基音が伝えられている。
ノイズは、ヘビーメタルやパンクが示しているように、ポピュラー音楽において重要な手法の一つである。西洋音楽史でこれを意識的に取り入れたのがルッソロである。彼は偶然性を重視したという点で意の音楽家である。
この偶然性を極限にまで追求したのがジョン・ケージである。彼は『4分33秒』を発表しているが、プレーヤーはピアノの前の椅子に座り、ピアノの蓋を開け閉めするだけで、一切演奏しない。偶然に聞こえてくるノイズすべてが音楽、この環境すべてが音楽だと彼は訴える。さらに、その第2番は『0分00秒』となっている。
この試みは音楽の変遷に環境音の変化が影響を与えることを顕在化させる。屋内外の騒音が同時代の音楽への感受性をもたらす。戸外は工事や交通、宣伝の音が響きわたり、室内も家電のモーターやアラームの音が鳴り響く。携帯プレーヤーのヘッドフォンから漏れ出す音を不快に感じるように、音楽さえも騒音だ。ジャズやロックは大きくなっていく騒音の環境と共に発達している。マイケル・シェンカーや高見沢俊彦のようにステージにマーシャルのアンプで壁を築く猛者まで登場する。この傾向はインフレではなく、デフレの可能性も予想させる。総蔭が苦痛となり、環境音が小さくなっていけば、サウンドの小さい音楽が求められるだろう。
ノイズの効用について、クラシックの演奏家の中にも理解していた者がいる。「芸術家は、仲間から離れて象牙の塔に住むべきだと信じている人々がいることは知っている。しかし、もっともだと思ったことは一度もない」と言うカザルスは、しばしば、樵が木を切るようにチェロを演奏し、ステージで叫び声をあげている。のみならず、録音の際にも唸り声が入ってしまい、その度に、プロデューサーは頭を抱えている。
ゴーシュはカザルスのような唸り声を上げない。指揮者もコンサート・マスターも見ないで、「口をりんと結んで眼を皿のやうにして楽譜を見ながら一心に弾いている」。けれども、夜の練習の彼はいささか粗野である。「いきなり棚からコップをとって、バケツの水をごくごくのみました。それから頭を一つふって椅子へかけるとまるで虎みたいな勢でひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考へ考へては弾き一生けん命しまひまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごう弾きつづけました。夜中もうとうにすぎてしまひはもうじぶんが弾いてゐるのかもわからないやうになって顔も真っ赤になり眼もまるで血走ったとても物凄い顔つきになりいまにも倒れるかと思ふやうに見えました」。ピエール・フルニエの上品さやアントニオ・ヤニグロの優雅さをゴーシュに見出せない。
ゴーシュの所属する楽団に「金星」が冠せられていることに注意しなければならない。賢治は音楽で身体を強調するために、キリスト教以前の古典時代に遡る。フリードリヒ・ニーチェは音楽をアポロンと対比させてディオニュソスによって捉えたが、賢治はそれをアプロディテとヘパイストスのそれとして描いている。
美の神アプロディテ(ヴィーナス)の夫へパイストス(バルカン)は鍛冶の神であり、足が不自由で、醜く、母親のヘラからも疎まれる。他の神々に知られぬようにオリュンポスから投げ落とされ海に落ち、海底で9年間テティスに育てられ、そこで鍛冶の技を教わる。母への復讐を考え、黄金の椅子を作ってヘラへ送る。椅子に座った途端、鎖がヘラを縛りつけ、神々の誰一人鎖を断ちきることができなかったので、ヘパイストスに依頼したが、彼はヘラを解放しようとはしない。
ゼウスはディオニュソスを呼び、ヘパイストスに酒を飲ませ、酔っている隙に椅子の鍵で縛りを解く。 オリュンポスに住むことになったヘパイストスはアプロディテと結婚する。しかし、彼女は彼の弟で、残虐非道な嫌われ者の戦争の神アレスと密会を重ねる。それをヘリオスから聞いたヘパイストスは寝ていた二人を縛りつけ、神々の見せ物にしてしまう。神々はそんなヘパイストスを嫌っていたが、彼をオリュンポスから追放できない。神殿や武器、装飾品は彼だけが作れるからだ。
20世紀の音楽は美の秩序に対するヘパイストスのノイズから発展する。ウッドストックにおいて、ピート・タウンゼントがギターをアンプに叩きつけ、キース・ムーンがドラム・セットを蹴散らした時、新しい音楽の理想は確かに全世界に響き渡っている。新たな音楽を奏でようとするなら、へパイストス=ゴーシュになる。「そんなチェロはぶっ壊してしまえ!きれいな音よりも個性を持つことだ」(カザルス)。
付け加えると、賢治はグスターヴ・ホルストの組曲『惑星』もこの作品にかけている。1920年初演のこの大作には金星も登場する。そのタイトルは「金星、平和をもたらす者(enus, the Bringer of Peace)」である。組曲の中では緩徐楽章と位置付けられる。主に三部形式で、主調は変ホ長調である。ただ、途中一部の楽器が嬰ヘ長調になる。中間部にチェロのソロがある。
こう考えてくると、ノイズは身体性と密接な関連があると明らかになろう。西洋音楽はキリスト教の強い影響にあるため、身体を忌避する。身体性の解放は西洋音楽の再構成において画期的な意味を持つ。