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マタイ効果とソーシャル・キャピタル(2013)

マタイ効果とソーシャル・キャピタル
Saven Satow
Jul. 29, 2013

“Of the 1%, by the 1%, for the 1%”
 Joseph E. Stiglitz

 2013年7月29日付『日本経済新聞』によると、来年4月から消費税8%が実施された場合、住宅ローン減税の恩恵を高年収ほど受けると見られている。政府は消費増税による住宅購入者の負担増を軽減するため、住宅ローン減税を拡充する。ところが、「年収600万円では10万円、年収1000万円では66万円負担が減る。低所得者向けの現金給付は住宅購入時の1度だけで、住宅ローンの減税は10年間続き、ローンを多く組むほど減税の効果が大きくなるためだ」。逆進性が高いとされる消費増税による負担軽減が高収入ほど対象になるというわけだ。

 いわゆる小泉構造改革以降、世論は政府に格差是正の政策の実行を強く求めている。報道や出版、国会を通じて格差社会の実態が明らかになり、その再生産を含めた弊害が多くの場で議論されている。経済格差はそのエリアにとどまらず、政治・社会・教育・健康など広範囲に関連する。

 格差是正が重要課題と位置づけながらも、そのための政策の目的と手段をめぐる再検討があったとは言い難い。政策目的は現行の手段を正当化しない。所定の目的を最も効果的・効率的に達成される手段が講じられねばならない。格差是正を目的とした増税はそれをセーフティ・ネットの財源とするなど有機的な設計に基づいていなければ、いわゆる無駄遣いにつながる。

 2012年末に安倍晋三政権が発足して以来、派手な宣伝と共に政策が次々と打ち出される。しかし、それは所得再分配よりもGDP拡大を優先させた復古的なものである。先のニュースは数年に亘る是正論議が政策にさほど生かされていないことを物語っている。

 この傾向はジョゼフ・スティグリッツの懸念通りである。彼がいわゆるアベノミクスを評価したのは、再分配の原資には経済成長が必要だと考えているからだ。01年ノーベル賞受賞者は、13年6月15日付『朝日新聞』のインタビュー記事「アベノミクスに欠けるもの」において、再分配政策が盛りこまれていないことに失望している。

 この宇沢弘文の弟子にとって、アベノミクスに期待していたのは成長戦略ではない。再分配である。スティグリッツは02年に国内外の格差を拡大させているとワシントン・コンセンサスを糾弾した経済学者である。それを無視して彼がアベノミクスを支持していると宣伝する人は素朴か愚劣かのいずれかである。

 格差拡大や二極化を「マタイ効果((Matthew effect)」と呼ぶ。これは『マタイによる福音書』13章12節や25章29節の「持てる者はさらに与えられて豊かになるが、持たざる者はすでにあるものまで奪われる(Qui enim habet, dabitur ei, et abundabit; qui autem non habet, et quod habet, auferetur ab eo)」に由来する。社会学者のロバート・K・マートン(Robert K. Merton)が1968年に提唱している。 

 現在、世界中にマタイ効果が遍在している。この改善が最重要政治課題の一つであるという国際的なコンセンサスが事実上あると考えて差し支えあるまい。確かに、対象によってマタイ効果の生じる原因やメカニズムは異なる。システム論によるポジティブ・フィードバックが最もよく知られた説明だろう。いずれにせよ、マタイ効果を手放しで認める人はよほど能天気である。

 マタイ効果が問題視されたのは新自由主義やグローバル化の世界的伸長からだろう。

 戦後、ケインズ政策をビルトインした福祉国家が国際的な標準体制と認知される。東西での違いはない。この体制下、マタイ効果はおおむね抑制される。しかし、福祉国家はグローバル規模で30年間続いた高度経済成長によって維持が可能だったのであり、その終焉と共に、限界に直面する。福祉国家は、原理上、ケインズ主義施策によって苦境から脱出できない。ケインズ主義を内包した体制であるため、不況に直面しても、財政出動の効果は弱い。

 80年代に入ると、ケインズ主義に代わって、新自由主義が経済政策のヘゲモニーを獲得していく。90年代を迎え、東西冷戦が終結し、国家体制の共通化が進み、共通ルールの下での人・モノ・カネ・情報の自由な移動を国際的に促進させるグローバリゼーションが進展する。

 先に言及したワシントン・コンセンサスはグローバル化におけるIMFによる途上国向けの累積債務の基本方針10箇条である。DCの国際経済研究所のジョン・ウィリアムソンが189年に発表した論文に由来し、新古典派の色彩が非常に濃い。ここから「小さい政府」や「規制緩和」、「市場原理」、「民営化」といった概念が派生する。ワシントン・コンセンサスによる世界統一戦略はグローバリゼーションの一つの象徴である。しかし、それにつれて、さまざまな方面での格差拡大や二極化が顕在化し始める。マタイ効果の時代が到来したわけだ。

 福祉国家がマタイ効果抑制に一定の機能を果たしたなら、その見直しは増殖につながる。マタイ効果の遍在の一因にポスト福祉国家のヴィジョンが明確ではなかったことが挙げられる。新自由主義はケインズ主義を批判したが、国家像の点では、夜警国家への回帰程度で、建設性に乏しい。

 問題意識を持った理論家は、伝統的な国家=市民社会という思考の座標軸に立ち戻り、福祉国家から「福祉社会」への脱皮を提唱する。しかし、この概念は論者によって異なっている。比較的明快に語っていたのがウィリアム・A・ロブソン(William A. Robson)であろう。彼は、『福祉国家と副詞社会(Welfare State and Welfare Society)』(1976)において、福祉社会を分権的で、市民が自主的に参加して問題解決を図るコミュニティと説明する。これは、現代的に言い換えると、高いソーシャル・キャピタルの社会である。

 今日、広範囲で社会関係資本の重要性が認識されている。途上国への支援や災害からの復興などにもソーシャル・キャピタルの有効性が認知されている。議論自体は以前から行われてきたものの、定性的研究が多かったが、近年定量的成果も蓄積され、有効性が可視化されている。グローバル=ローカルのいずれのレベルでも社会関係資本の果たす役割が大きく、その成長が今後のよりよい世界構築に寄与するだろう。

 福祉国家は国民国家を単位にしている。しかし、マタイ効果の地球規模での遍在により福祉社会のみならず、「福祉世界(Welfare World)」が求められている。こうした現状に対応するには、その実績を考慮するなら、ソーシャル・キャピタルのさらなる育成が効果的だ。マタイ効果の改善にソーシャル・キャピタルの成長を抜きにして考えるべきではない。

 ワシントン・コンセンサスは国際的標準化であるから、世界各地で時間をかけて蓄積されたソーシャル・キャピタルの違いを考慮していない。こうした市場の突出に対して政府の役割とのバランスをとることだけではマタイ効果是正には不十分だ。政府と市場と社会のバランスが要る。政府や国際機関による政策もその観点から考案・実行される必要がある。少なくとも、社会関係資本を縮小させる施策をしてはならない。格差拡大の税制変更など論外だ。時代錯誤にもほどがある。
〈了〉
参照文献
W・A・ロブソン、『福祉国家と福祉社会―幻想と現実』、辻清明他訳、東京大学出版会、1980年
スティグリッツ、『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』、楡井浩一訳、徳間書店、2006年

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