現代の表現者(2024)
現代の表現者
Saven Satow
Jan. 05, 2024
「僕は時代と並走していればいい。次に何を撮るかは時代が決めてくれるから、時代に聞いてくださいよ」。
篠山紀信
少なからず現代の表現者は前近代的な職人と近代的な芸術家の中間に位置している。その創作行為は依頼に基づき、条件を満たしつつ、自分らしさを加味するものだ。
前近代は共同体主義の時代である。共同体が先行して存在し、個々人はその規範を共有して所属する。芸術や音楽、芸能は絆の拡張・強化に寄与する。政教が一致しているので、内面の自由はない。創作は以来に基づき、要求される諸条件を満たしていなければならない。作品の干渉・評価も規範を共通認識としている。表現者はいかなる依頼にも適切に応えられるようにするため、修行を積み、知識を会得、技能を高めていなければならない。
J・S・バッハは数多くの宗教曲や世俗曲を作曲している。しかし、BWVにオペラはない。それは彼がそのジャンルを依頼されなかったからである。職人は頼まれもしない仕事をするものではない。
一方、近代は政教分離に伴い、価値観の選択が個人に委ねられる。内面の自由が保障された表現者は規範ではなく、自らの価値観に基づいて創作する。依頼など必要とせず、自分が欲するままに表現できる。近代では表現者も含めて個々人が集まって社会を形成している。社会、特に同時代的社会を共有しているので、それが鑑賞・評価の共通認識となる。
依頼から解放された芸術家は、その分野の基礎は学ぶものの、自身の他ならぬ内面を表現するために、知識や技能を高めていく。芸術家は往々にして自分らしさを最も発揮できるジャンルに創作を専心し、寡作にとどまる場合も少なくない。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがおよそ40の交響曲を作曲したのに対し、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベンはわずか9曲である。また、リヒャルト・ワーグナーは主に楽劇、フレデリック・ショパンはもっぱらピアノ曲をそれぞれ創作している。
しかし、大衆消費社会を迎える1920年代からこの状況が変容する。経済活動が大量の表現を必要とするようになる。アイスの新商品を売り出すとしよう。商品おネーミングやパッケージデザイン、ポスター、イラスト、写真、映像、音楽などが要る。これは自己表現を追求する近代的な芸術家の創作行為ではない。前近代的な職人の仕事である。表現者は依頼に応えるため、知識や技能の引き出しを増やす学習を続けなければならない。また、 大量の需要に応えるには分業が不可欠で、表現者の多くは組織に所属せざるを得ない。
ただし、現代はあくまで近代の延長線上にあり、規範の共有を前提にできない。表現者には価値観の選択の自由が認められ、鑑賞・評価は社会に基づいている。現代の表現者は依頼に基づき、条件を満たしながら、自分らしさも加味する。組織に属している間は匿名でいても、独立すると、名前を明らかにする表現者も少なくない。担当した作品数が膨大であることもしばしばで、そこに内面の表出を見出すことは困難である。筒美京平は3000曲以上を作曲したとされ、それをベートーベンと同様に伝記的事実をと照らし合わせながら論じる意義は乏しい。依頼や条件、時代の融合に表現者らしさが示されていると捉える方が適切だ。
もちろん、現代でも近代的な芸術家のように活動する表現者もいる。代表例がバンクシーである。このアーティストは誰に依頼されるでもなく創作し、作品を自身の意思に基づいた時間と場所に展示する。また、SNSに思いをこめた自作を好きな時に投稿する人も少なくない。
けれども、それで生計を立てている表現者の多くは前近代的な職人と近代的な芸術家の中間に位置している。彼らが著名になると、その表現活動を人間ドラマとして描こうとする企てがよく見受けられる。市井の人々の多くも組織人なので、その姿に自分を重ねて理解しようとする気持ちはわからないでもない。2024年1月4日に亡くなった篠山紀信についてもそうした人間ドラマの追悼がマスメディア上に数多く現われるだろう。だが、バッハの作品を伝記的事実から鑑賞することはあまり意義がない。同様に、現代の表現者にも職人としての側面がある。人間ドラマは現代の表現の半分をわかるだけである。
〈了〉