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「日本人」ペーター・ハルツィンク(2013)

「日本人」ペーター・ハルツィンク
Saven Satow
Jul. 16, 2013

「旅立たねばならぬ」。
ルネ・デカルト

1 日本からヨーロッパへ 
 ドイツに「メールス(Moers)」という町があります。そのギムナジウムにハルツィンク・クラウスタール財団(Harzing-Clausthal-Stiftung)による大学進学を支援する奨学金が提供されています。これは、330年以上前に「ペーター・ハルツィンク(Peter Hartzing: Pieter Hartsinck)」の遺志によって創設されたものです。

 ペーター・ハルツィンク(1637~80)はオランダのライデン大学とドイツのハノーバー大学で学び、哲学と医学の学位を得ています。その後、ハノーバー王国の鉱山責任者に就任、労働環境の改善に努めています。莫大な財産を築いた彼の遺言の一つが奨学金制度の創設です。

 日本は教育費の対GDP比がOECD加盟国中最低で、高等教育向けの奨学金制度は貧弱そのものです。そんな日本から見ると、ドイツには300年以上も続くものがあるというのは驚嘆させられます。しかし、驚くべきことはこれだけではありません。

 ペーター・ハルツィンクは、実は、平戸生まれの日本人です。しかも、彼は西洋数学史に初めて名を残す日本人でもあるのです。

 ペーターの父カレル(Carel Hartsinck)はオランダ東インド会社(VOC)に勤務するドイツ人です。VOCは世界初の株式会社であり、商業活動のみならず、条約締結権・交戦権・植民地経営権など特権を有しています。仕事で来日し、平戸の豪商の娘と恋に落ちます。二人の間に生まれたのがペーターです。その後、弟ウィレム・カレル(Willem Carel)も誕生します。

 しかし、幕府が1639年に南蛮船入港禁止を打ち出すと、ハルツィンク家の人々は日本にいることが困難になっていきます。41年、とうとう家族4人は日本を離れ、オランダへと渡るのです。

 国策会社の社員の子弟ですから、オランダ本国で待っている待遇は決して悪いものではありません。しかし、ハルツィンク一家はとんでもない時に、とんでもないところへ旅立っています。17世紀半ばの西欧には人口的・社会的・宗教的・経済的・政治的な諸問題が一度に噴出して、衰退状況に陥っているのです。気候の寒冷化を始め戦争やインフレ、飢饉、ペストなどに襲われます。英国の歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーはそれを「17世紀の全般的危機(General crisis of the 17th century)」と呼んでいます。ペーターはこの閉塞状況の時代を生き抜いていくのです。

 先に「日本人」と記しましたが、これには反論があるかもしれません。「母親は日本人であるけれども、父親はドイツ人ではないか」とか、「オランダで暮らしているのだから、日系オランダ人ではないか」とか、「国民国家も生まれていない時代の話に日本人という概念を適用するのは近代的倒錯ではないか」とかあり得るでしょう。至極ごもっともです。

 しかし、「日本人」とする実証的根拠があるのです。近年、ペーター・ハルツィンクに関する研究が進んでいます。彼のライデン大学の学籍簿も発見され、そこに“Petrus Hartsingius Japonesis”と記されているのです。当時の学術用語はラテン語ですから、名前もそう変形させます。“Petrus Hartsingius”は彼のラテン語名です。その後に付けられた” Japonesis”は「日本人」という意味です。先の記述は「日本人ペーター・ハルツィンク」ということになります。彼は、当時の欧州で、出身地という程度であっても、「日本人」と見られていたわけです。

 「日本人ペーター・ハルツィンク」は他の史料にも登場します。それが数学書です。

2 デカルトの孫弟子
 17世紀は科学革命の時代です。従来、欧州は自然科学において後進地域でしたが、この頃からインドやアラブ、中国を抜き、その分野の最先端を進むようになります。

 その進展の最大の功績の一つがルネ・デカルトによる解析幾何学の考案です。1637年、デカルトは新しい数学理論を記した『幾何学』をフランス語で公表します。けれども、『幾何学』はあまりにも未整理で、当時の読者にとってわかりにくいものです。座標軸は直交していませんし、負の座標面もありません。何を言わんとしているのかメッセージが容易につかめないのです。しかも、共通語のラテン語で書かれていないため、読者層の広がりを持てません。

 思想史にはこうした事態がしばしば生じます。独創的な理論を記した作品が登場しても、それが煩雑だったり、曖昧だったりして同時代の読者には受け入れ難いのです。それが普及する際には、システム論的に歴史を考察するなら、オリジネーターだけでなく、わかりやすく整理・解説するサマライザーの役割が必要です。J・M・ケインズの『一般理論』をIS-LM図表で再構成したジョン・ヒックスが好例でしょう。

 『幾何学』をめぐる状況を解決したのがフランス・ファン・スホーテン(Frans van Schooten)です。このオランダ人数学者は、フランス人数学者のフロリモン・ド・ボーヌ(Florimond de Beaune)と共に、詳細な注解をつけたラテン語訳を1649年を皮切りに、59~61年、83年、95年と4度も出版しています。『幾何学』はオリジナルではなく、このライデン大学教授版の方が欧州に普及しているのです。特に、第2版はアイザック・ニュートンやゴットフリート・ライプニッツが精読していたことでも知られています。微積分の誕生にも貢献した書物です。

 「日本人ペーター・ハルツィンク」が登場するのも第2版です。この版はスホーテンらだけでなく、彼のライデン大学の弟子による研究成果も付け加えています。そうした特徴もあって、これは標準的数学テキストとして広範囲で読まれています。ペーター・ハルツィンクはスホーテン・サーカスに属し、楕円軌道に関する研究で貢献しています。この寄与によって西洋数学史に日本人として初めて名を残すことになるのです。

 楕円の新たな成果を当時の知識人たちは見逃しません。楕円の研究は天文学における重要課題の考察に不可欠だからです。17世紀は天動説から地動説へのパラダイム・シフトが起きた時期です。この転換の核心は天体の運動軌道が円から楕円へと修正された点にあります。「日本人ペーター・ハルツィンク」の論考は欧州科学の発展に寄与したわけです。

 ライデン大学のあるオランダは、当時、欧州最大の経済力を持っています。1637年に史上初のバブル経済であるチューリップ・バブルが起きています。学問では、デカルトが亡命してきたり、クリスティアーン・ホイヘンスやバルーフ・デ・スピノザ、フーゴー・グロティウスらが斬新な理論を展開したりしています。17世紀は「オランダの世紀」と呼べるほどです。ペーターはこうした最先端を行く社会の中で研究しています。

 余談ながら、日本人と楕円で悪ノリすると、「すべての楕円曲線はモジュラーである」という谷山・志村定理を思い出します。これは17世紀に提示されたフェルマの大定理を解決する際に寄与したことで有名です。楕円と楕円曲線は異なりますけれど、悪ノリをすれば、不思議な偶然もあるものです。

 しかし、このデカルトの孫弟子は後に数学から離れていきます。当時の数学者には非アカデミズム系の研究者も多かったのですが、実務家の道を歩み、数学史にはもう登場しません。危機の時代の社会を彼がどう考えていたのかを知る由はありません。けれども、50歳を迎える前に亡くなった「日本人」が自らの財産を教育に使って欲しいと遺すことからうかがわれるでしょう。現在では数学者と言うよりも、ドイツでは先の奨学金制度で知られています。

 今日、ペーター・ハルツィンクを日本で考えることの意義は自明ではありません。彼はあくまで出身国と縁が切れた状態でヨーロッパにおいて活躍した人物です。それを忘れられた偉大な日本人として持ち上げるのは、愚劣な文化的ナショナリズムの扇動でしかありません。素朴な英雄信仰に過ぎる現在のサブカルチャーにこうした扱い方は氾濫しています。小説やマンガ、映画、ドラマ、教養バラエティに至るまで見られます。

 前近代に外国人がその社会で活躍した事実を知り、認識が転換される経験は少なくありません。織田信長の家臣に「弥助」という黒人武士がいたことはその一例です。「日本人ペーター・ハルツィンク」も同様でしょう。

 ペーター・ハルツィンクの存在は世間に浸透した歴史に対する自明性を覆します。ただ、彼は歴史に翻弄されながらも、その条件の下で生きています。超歴史的存在ではありません。ペーター・ハルツィンク自身ではなく、彼から時代や社会を認識するべきです。彼をめぐる文脈を理解することが大切でしょう。「日本人ペーター・ハルツィンク」は、確かに、17世紀が生み出した歴史的人物にほかならないのです。
〈了〉
参照文献
鈴木武雄、「17世紀:日本からヨーロッパへ─Petrus Hartsingius Japonensis の場合─」、『数学教育研究』40、2011年
同、「Petrus Hartingius Japonensisの深い孤独と数学及び奨学金」、『数学教育研究』 41、2012年
三浦伸夫、『数学の歴史』、放送大学教育振興会、2013年

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