日本国憲法と松本烝治(2006)
日本国憲法と松本烝治
Saven Satow
Jan. 08.,2006
「権力に左右されるような政治家は、また別の権力が現れた場合には、意気地なくこれになびくものだ」。
吉田茂
かねてから自由民主党は「自主憲法」の制定を党是として掲げています。日本国憲法は占領軍によって押しつけられた憲法であるというのがその理由です。この理屈は、1954年7月に岸信介を会長とする自由党憲法調査会で、松本草案で知られる松本烝治《じょうじ》がかなり感情的に押しつけられたと発言したことに由来しています。
この調査会は自衛隊を合憲化するために憲法を改正する目的で設置されています。改憲の口実を探していた場での主張でしたから、憲法が押しつけられたか否かという点に議論が矮小化されていくのです。
日本国憲法公示時の内閣総理大臣吉田茂は、制定過程においては憲法草案に全面的に賛成していません。けれども、公的には新憲法を否定したことはありません。また、1957年の回想録『回想十年』では、「押しつけ憲法」論を斥けています。現行憲法変更は戦後を責任もって担った政治の否定です。
今時、押しつけ論を根拠に改憲を主張する政治家がいることに驚きを感じ得ません。押しつけ論を国民に押しつけているとしか言いようがありません。
松本は、1945年10月、幣原喜重郎内閣が設立した憲法問題調査委員会の委員長を務めた人物です。けれども、「調査委員会」という名称とこの委員長人事を見れば、憲法改正にやる気が政府になかったのは明らかです。松本は民法や商法が専門で、国家体制や政治はおろか、憲法に関する著作さえ著わしていません。
加えて、委員会のメンバーは、顧問に美濃部達吉の名があるように、豪華でしたが、彼らは一様に憲法の改正には消極的だけでなく、鋳型で作られたのかと思うほど同じ意見を持っています。専門家でありながら、世界の憲法をめぐる動向を考慮しつつ、独自なものを作成することさえできなかったことには驚くべき有様です。
明治憲法を中心になって作成した伊藤博文は欧米の目を意識しています。当時の憲法の国際的基準に達していなければ、欧米に見下され、不平等条約の改正にとりかかれないからです。彼は憲法が国民の権利を保障する者だという立憲主義の原則も理解しています。国民の義務規定が希薄だと現行憲法を批判する政治家はこの明治の元勲に一喝されるに違いありません。そうした危機感や緊張感が委員会にはありません。
松本は、GHQからこれでは不十分との評価を草案に下されると、腹を立てて、仕事を放棄してしまいます。結局、その後の作業は法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって進めていきます。国の将来がかかっている業務に対してこうした無責任な態度をとっておきながら、押しつけ論を主張する人物が松本です。改憲論は仕事のできない人物の言い訳にすぎません。それは主張している政治家の顔ぶれを見るだけでもわかるでしょう。
松本烝治は、1887年10月14日、鉄道庁長官の松本荘一郎を父に東京で生まれています。この「烝治」は合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで命名されたと言われています。以後の経歴は、彼が極めて政治的で、旧体制がしみついていることをよく物語っています。
東京帝国大学卒業後、農商務省参事官を経て、1903年、母校の助教授に就任します。06年から3年間、ヨーロッパに留学、09年、東大教授になっています。13年からは内閣法制局参事官を兼務、19年、東大を辞めて満鉄の理事に就任、後に副社長になっています。
22年、山本権兵衛内閣の法制局長官、34年には斎藤實内閣の商工大臣に選ばれています。弁護士でもあったのですが、その評判は、阿部真之助の『現代日本人物論』によると、「多数の会社の監査役、相談役を務め、財界の法律的代弁者として随一」というものです。
人物評としては、優秀であるが、自信家で、権威主義的に振る舞い、すべてを自分でコントロールしないと気がすまない質です。およそ民主的でなく、他人に自分の意見を押しつけるような人物です。自信家ですから、専門外の憲法でもできると踏んだわけです。
こういう人物が委員会を主催したのですから、その結果はまったくお粗末なものです。彼には国体の護持しか頭になく、字句の訂正だけで切り抜けようとしています。民衆などどうでもよく、旧体制の擁護者にとっては、望ましい草案です。
ところが、1946年2月1日付『毎日新聞』がその草案の内容をスクープします。一般にもそれが知られると、民衆から非難が上がり、GHQも日本の支配者層のみによる憲法起草を断念します。松本はもともと憲法に関する知識が付け焼刃ですから、いざという事態に対処できません。しかも、自分の非も認めません。無責任に仕事を放り投げてしまいます。
専門家がこの体たらくですから、GHQによる制定の手続きがいささか強引になったのも無理からぬところです。ただし、この過程を配慮し、GHQも占領終了後に改憲の許可を日本政府に与えています。
「『押しつけ憲法』の立場をとる政治家たちは、吉田と同様に保守思想の持ち主であるとはいえ、吉田が『七転八倒』している時に、戦犯であったり、公職追放中であったり、あるいは吉田学校の若き『お坊ちゃん』であった場合が多い。敗戦から占領、その中での憲法制定という思想と思想のせめぎ合いを、数歩さがって見ていた者の安易な主張としか言いようがない。それにしても『押しつけ憲法』論が、なぜこれほどまでに戦後三〇年以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、『押しつけ憲法』論が語りつがれ、主張され続けたのである。とにかく最近の憲法『改正』史や現代史の研究書をみても、この点にまったく触れていないのであるから無理からぬ事情はあったにせよ、これは糺しておかなければならない」(古関彰一『新憲法の誕生』)。
日本国憲法の形成過程は、一般に考えられているよりも、はるかにこみ入っています。憲法史における主流の学説は、占領下という特殊な状況であるものの、日本国憲法は日米合作です。
現行憲法に関してあれこれ批判して変えようとする勢力がいます。ただ、その意見は国会などでもすでに論じられ、斥けられたものばかりです。憲法に関する国際潮流や比較邦楽の成果からも日本国憲法の完成度は非常に高いものです。世界の模範とされているカナダ憲法と比べても、時代遅れどころか、依然として先進的ですらあります。信念で改憲を主張するのはおよそ法学的ではありません。
押しつけ論は従来の既得権益を守りたい勢力の口実と考えるべきでしょう。自主憲法の主張する政治家は戦前から議員や閣僚として活動しています。GHQ改革は彼らの既得権益を奪います。持っている人たちにすれば、押しつけられたと思うのです。
しかも、それはアメリカ対日本という国家間の抗争の結果ではなく、かかわった個々人の憲法観の対立と妥協の産物です。ステロタイプによる短絡化は本質を見失います。例えば、GHQの女性職員が女性の権利を拡大したいと考えていたのに対し、男性職員がそれを認めないといったこともあります。
条文を見るだけでも、日本国憲法が単純に占領軍によって押しつけられた憲法ではないことは明らかです。例えば、生存権は、20世紀における憲法のプロトタイプと呼んでよいドイツのワイマール憲法からの影響です。こうした発想は英米系の憲法観にはありません。
当時、日本各地で多くの団体や個人による新しい憲法の作成が取り組まれています。各政党も憲法草案を起草していますが、55年体制を担う保守政党も日本社会党も、不甲斐ないことに、国民主権すら書けていません。
実は、GHQは、有名無名や専門の如何に問わず、膨大な文献や資料、提案、意見を英訳しており、それを汲み上げて、日本国憲法に書き記しています。憲法を変えることが目的なのではなく、日本人の間に定着しなければ意味がありません。それには市井の声を反映させる必要があります。
憲法の口語化は作家の山本有三らのグループ「国民の国語運動」の提案です。日本国憲法は集合知の作品だと言えます。旧体制であれば、支配層によって排除されてきた人々のアイデアや知恵の結実が日本国憲法です。日本国憲法は現在の市民による参加と行動の民主主義の魁にほかなりません。日本国憲法をGHQによって押しつけられた憲法と考えるのはその意義を矮小化するだけなのです。
にもかかわらず、あえてここで「新憲法」を使うのは、そこにはやはり明治憲法とはまったく異なった新しいものを見出すからである。戦争と圧政から解放された民衆が、憲法の施行をよろこび、歌い、踊り、山間の山村青年が憲法の学習会を催し、自らも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見あたらない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本国憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割がきわめて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。
かつて米国憲法一五〇周年記念(一九三七年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。
古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりといえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。
(古関彰一『新憲法の誕生』)
〈了〉
参照文献
古関彰一、『新憲法の誕生』、中公文庫、1995年