パンデミックの記憶の風化(3)(2024)
3 コロナ禍の風化
スペインかぜはその記憶の継承が行われず、100年の間に忘れられる。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックをきっかけにそれが発掘されている。蘇った当時の様子は現代と重なる共通点が多いことに驚かされる。もし経験が語り継がれてきたなら、今回の社会的反応も異なっていたかもしれない。
ところが、最近、コロナ禍の記憶が薄れつつある。まだ新型コロナウイルス感染症の新規感染者も確認されているし、後遺症で苦しんでいる人も少なくない。メディアもそれを伝えているが、世論の関心は必ずしも高くないように思える。
ロシア=ウクライナ戦争やパレスチナ情勢、能登半島地震など非常に大きなニュースがあるため、コロナ関連の報道量が減っていることは確かだ。現時点のニュース・バリューは戦争や人道危機、被災民の方が上である。しかも、これらは社会的関心が問題の改善につながる可能性がある。コロナ報道は、変異株の登場や人流の変化に伴う感染リスク、後遺症の実態などの理解の啓もうが中心である。人々が蓄積してきた情報の更新が主だ。
コロナ禍に伴い社会に大きな変化が起こり、その前には戻らない新たな常識、すなわち「ニューノーマル(New Normal)」が定着すると言われたが、それは一時的だったものも少なくない。従来の働き方に代わってテレワークやリモートワークを企業は導入したものの、現在では元に戻したところも多い。それは人口動態のデータからも読み取れる。
『日本経済新聞』は2024年1月30日19時32分配信「人口流出、31道府県で拡大 『東京集中』少子化招く懸念」において、それを次のように報じている。
世界的にも利便性が人を引きつけ、都市部の人口が増加している
東京圏への人口の一極集中が再び強まっている。総務省が30日発表した住民基本台帳に基づく2023年の人口移動報告によると、31道府県で人の流出が前年より拡大し、首都圏の近隣3県が転出超過に転じた。生活コストの高い東京都への集中は少子化につながると懸念される。人口減に拍車がかかる地方はインフラの維持も課題になる。
23年は首都圏周辺のなかでも大都市への人口の集中が進んだ。象徴が茨城県と山梨県が3年ぶり、長野県が2年ぶりに転出超過に転じたことだ。
新型コロナウイルス流行下では首都圏へ移るのをためらう人が増え、在宅勤務などで首都圏に近い県が人気になった。23年に1863人の転出超過だった茨城県は、コロナの影響が出た21年(2029人)と22年(460人)は2年連続の転入超過だった。
こうした傾向はニューノーマルがアブノーマルと社会的に受けとめられていたことを物語る。異常な状態であれば、正常へ復帰しなければならない。社会はニューノーマルの記憶自体を忘却しつつある。
飯島渉青山学院大学文学部教授は『朝日新聞DIGITAL』2024年1月26日5時00分配信「消えゆく新型コロナの記憶 『社会の記録』保存早急に」において、その現状について次のように述べている。
新型コロナの感染症法上の類別を5類に変更して半年以上が過ぎた。「終息」ではないものの、4年ぶりに規制のない正月を過ごすことができた。2020年からのパンデミックは「終わりの始まり」を迎えている。
20年3月、当時の安倍晋三内閣は新型コロナを「歴史的緊急事態」と閣議了解した。これにより、関係の公文書は国立公文書館などに移管される。歴史的検証に備えるため、適切に運用されることを期待する。しかし、それだけでは今後の新興感染症への備えは十分ではない。
国や地方公共団体の公文書とともに重要なのは、新型コロナのパンデミック下での「社会を記録する」ことだ。例えば、学校の先生が作成した感染対策の注意書きやオンライン授業のために工夫した教材は、コロナ下のリアリティーを示す貴重な資料だ。「自粛警察」の存在を示す写真やビラは、自戒のための材料にすることができる。これらはSNSによって共有された情報を含め、重要な「社会の記録」である。
今、こうした記録が急速に失われつつある。新型コロナのパンデミックの中で、企業、団体、地域社会、そして個人が膨大な資料、記録、記憶を蓄積した。しかし保全のための制度がないため、それらは廃棄されたり、忘却されたりしている。新型コロナ対策の最前線に位置した保健所に寄せられた市民の声もこのままでは残すことは難しい。
昨年9月末、日本学術会議は「新型コロナウイルス感染症のパンデミックをめぐる資料、記録、記憶の保全と継承のために」という提言を公表した。私は連携会員としてその作成に参画した者として、改めて、「何を、誰が、どう残すか」が現在の課題であることを指摘したい。
国立国会図書館が運営するポータルサイト「ひなぎく 東日本大震災アーカイブ」は、文書や写真、動画など様々な記録に誰でもアクセスすることができる。新型コロナでも同様のアーカイブを作ることは可能だろう。記録を保全・継承するための制度を早急に構築し、知見を共有することこそが、感染症への社会的対応を成熟したものとし、抵抗力を高めることになるからである。
米国の歴史家アルフレッド・クロスビーは、20世紀初めのスペイン風邪の流行は「忘れられた」と指摘した。「社会を記録する」仕組みがなかったからである。パンデミックの教訓を生かすため、記録を「意図的に残す」ことは、ポストコロナの時代の喫緊の課題である。
新型コロナウイルス感染症は現在も感染者が出ており、政府は定期的に感染者数のデータを公表、メディアも後遺症を含めその関連情報を伝えている。個々人がパンデミックについて思い出すことはあるだろう。また、人が集まった時、その話題に触れることもあるに違いない。人々の多くがワクチンを接種、少なからずの人が感染経験を持つ。同時代的に出来事の体験を共有しているから、記憶を呼び戻して話しても、それに加われないということはあまりない。
スペインかぜの流行が忘れられた」理由は「『社会を記録する』仕組みがなかったから」だけではない。現在も新規感染者が確認され、後遺症に苦しむ人が要るにもかかわらず、進むコロナ禍の風化がそれを示している。むしろ、その記憶を振り返る象徴的な日がないからである。スペインかぜは記念日を持っていない。このパンデミックを忘れないために、「感染症予防の日」を政府が制定を目指したとする。その日をいつにすればよいか社会的コンセンサスをまとめるのが難しい。一方、9月1日は日本政府によって「防災の日」に指定されている。これは1923年9月1日に発生した関東大震災に由来している。防災の日があるため、その震災が忘れられることはない。実は、戦争や災害、事故、事件はこうした象徴的な日付を持つ。ところが、パンデミックにはそれがない。社会的記憶は日付をめぐる状況によって想起される。なぜそう何かを検討してみよう。
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