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知識と信頼の方程式(2013)

知識と信頼の方程式
Saven Satow
Mar. 18, 2013

「車を買うとき『いまブレーキを修理しようとしている』と言われて買う人がいるでしょうか」。
グレゴリー・ヤツコ

 フクシマが依然として進行中であるにもかかわらず、いわゆる原子力村は原発再稼働に向けて着々と環境整備を進めている。彼らはフクシマの教訓から学ぶどころか、それをなかったことにしようとしている。原発の再稼働を後押ししてもらおうと、政官財学報にさまざまな応援を求めている。ところが、そのサポーターも、あれだけの惨事を経験したのに、科学技術や科学コミュニケーションに関する認識の再検討が見られない。

 月刊誌『原子力文化』2013年1月号に、橋本五郎読売新聞特別編集委員と葛西敬之JR東海代表取締役会長によるエネルギー問題をめぐる対談が掲載されている。その中で、葛西会長は、自動車による交通事故と比較しつつ、「今、原発に伴うリスクについて、情緒的な議論がなされていますが、あらゆる文明の利器にはリスクが伴います」と発言している。

 葛西会長の意見には科学技術に関する認識として決定的な不備が含まれている。まず、一般人が移動のために使う量産品と専門家が携わる固定された受注品では、設計の発想が異なるため、両者を同列に論じることはできない。工学と言っても、生産過程や用途などで設計の発想が異なり、完成の目標基準を同一視できない。鉄道会社の経営にかかわった人にとって、新幹線の事故を自動車のそれと同じ次元で語られたら、心外だろう。

 リスクについても、誤解がある。犠牲者数をリスクと見なしている。確かに、そうした見方もあるだろう。だが、リスクは、最もシンプルに考えれば、人間社会の効用に悪影響を及ぼす事象の発生確率とその大きさによって定量的に認識できる。それはその二つの要素の積として次のような関係式で表わせる。

 R=P×M

 Rはリスク、Pは発生確率、Mは悪影響の大きさを示す。Pが小さくても、Mが巨大であれば、リスクは莫大になる。Mの大きさは事象が持っているエネルギー量からそのベースラインを推算できる。さらに、影響の時空間の広がりを加味する必要がある。原発には膨大なエネルギー量があり、また放射性物質が広範囲・長時間悪影響を及ぼすので、発生確率が低いとしても、リスクは極めて大きいと考えるのが妥当である。

 発生確率だけでリスクを算定するのは不十分である。市民は、社会生活をしているから、Pを見るだけでなく、Mを重視する。米国を始め原子力関係者はMを死者数だけに限定しているが、そんな非社会的な想定は到底認められない。原発事故のような被巨大災害は被害が社会的に増幅される。また、失われたものは二度と戻らないのであって、そこには生存のオプション価値がある。いかに発生確率が低いとしても、予防原則がマキシミン原理となる。

 原子力は桁外れのエネルギーを持っており、それは人類が初めて手にした自らを全滅させられる技術である。この「文明の利器」はそれを生み出した過去200年の近代文明どころか、人類をも滅亡させられる。また、高レベル放射性廃棄物の半減期はおよそ10万年であり、文明史の尺度を超えている。

 「今度の原発事故から私たちは何を学ぶべきか。学んだことは何だったのか。物事はゼロか、そうでないかという二者択一論のようなことでは、さっぱり学んでないのではないか、という気がします。先ほど戦前との比較でお話されましたが、結局、同じような、単に是か否かといった思考様式が繰り返されている。そのことも学ばなければいけないことであるのかもしれない」(橋本五郎『同』)。

 こうした対談を原子力村が自分たちの応援として公表していることから、彼らが科学的精神やサイエンス・コミュニケーションを何たるか理解していないとよくわかる。彼らのコミュニケーションの発想は、相変わらず、欠如モデルに基づいている。

 専門家と違い、市民が原子力を不安に感じ、「情緒的」に考えるのは正しい知識が欠如しているからだ。知識を与えれば、市民も専門家と同じ理解を共有できるようになる。知識が増えれば、市民は専門家を信頼して、原子力に怯えないに違いない。

 こうした欠如モデルの知識と信頼の関係は関数的思考に依拠している。ある状態に依存して変化していくので、マルサス・モデルを適用できる。

 知識と信頼の関係式は次のようになる。

dx/dt=ax

 aは単位知識当たりの単位時間における増加率の係数、tは時間とxは知識の変数である。dx/dtは信頼の増加を指すが、煩雑なので、以下x'とする。知識xは時間経過と共に増加し、その増加率はaに比例する。信頼x'は時間が経つにつれ増える一方だ。

 けれども、科学的思考には批判的精神が欠かせない。ルネ・デカルトが言うように、疑いこそが近代合理主義の出発点である。市民はその近代的合理主義を前提にしている。それは、国民と区別して、受動的ではなく、能動的な姿勢で積極的に社会へと働きかけ、状況参加する存在と定義される。

 情報が増加すれば、専門家への信頼のみならず、その知識を利用して、批判的思考も生まれてくる。市民はただ専門家から情報を受け取るだけでなく、疑問や意見を抱くようになる。一方向のコミュニケーションでは、市民の専門家への信頼は頭打ちを迎える。

 この過程を表わすために、批判的精神の定数bを加えて、先の式を次のように変形する必要がある。

x’=(a-bx)x

 知識量が増加すると、批判的精神が働いて、信頼感の無批判的増大を抑制する。この式のグラフはロジスティック曲線と呼ばれるS字型を示す。最初は大きく変化するが、次第に増加率が縮小し、時間と共に一定の値に落ち着く。この安定は定常状態である。情報量がある一定以上を超えて提供されても、信頼は増さない。

 市民による専門家への信頼感をさらに向上させるには、一方通行のコミュニケーションでは不十分である。科学的思考に批判はつきものであるから、それはそもそも背理だ。市民が抱いた疑問や意見を専門家と語り合う機会があって、信頼がより増し、理解が共有できる。

 もし双方向のコミュニケーションの機会がなかったり、市民の疑問や意見に専門家が耳を貸さなかったりしたら、信頼感が安定定常状態を維持することはあり得ないだろう。問いに対する答えが充足されないので、批判的精神が働き続ける。いくら情報を提供しても、信頼感が減少していくと考えられる。

 これ以上関係式を示す必要もないだろう。先のロジスティック方程式を変形させればよい。カタストロフィー的変化や履歴現象などを組み入れるといった工夫によりさらに複雑な知識と信頼の方程式が可能になる。

 重要なのは科学コミュニケーションにおいて欠如モデルが成り立たないことだ。ロジスティック方程式を基本形として考える必要がある。信頼のような定性的な問題であっても、関係式を用いれば、可視的に理解できる。ロジスティック方程式は自然科学ではありふれた式なのに、なぜサイエンス・コミュニケーションの分野であまり活用されていないのか不思議でならない。

 フクシマが起きてからの専門家の言動や行動への市民からの不信感は、科学技術やサイエンス・コミュニケーションに関する彼らの認識の不十分さに起因しているところも大きい。

 なのに、原子力村はこの認識を進化させることを怠っている。彼らが情報を提供しても、市民の問いへの答えでないので、それが不信の材料になる。情報自身が自らの信頼性を損ねるのだから、この関係式は累乗を使った分数関数が適当である。グーグル検索でグラフが見れるように、定数を用いないで、1を入れることにする。知識に対するその信頼の定性的解を示すなら、フクシマを分岐点として、次の分数関数のグラフになる。

 f(x)=x/(1+x^2)

 この曲線はxの値が1あたりまで上昇するが、それを超えると、下降していく。フクシマを分岐点に原子力への信頼が急落していく状況と重なって見える。なお、「^」はテキスト・ファイルにおける累乗の記号である。

 こうした方程式において注目すべきなのは、それが持つ発想だ。これで解けるかどうかはたいしたことではない。発想を欠けば、技術は自己目的化し、疑いが忘れられる。日本の原発がその典型例である。科学には批判精神が不可欠であり、それのないものはそう呼ばれるに値しない。

 「業界の人たちが不満を持っているのなら、たぶんいいことです。規制当局にとって最も大切なのは、許認可の意思決定の際、独立して判断が下せる能力です。日本には今、それがあると信じます。(略)それには、自らが技術的な専門家集団でなくてはなりません。そうでないと、他の人たちの情報に頼らざるを得なくなる。規制当局の存在意義とは突き詰めると、事業者が自らノーと言いたくないことに対して、時にノーを言うことです」(グレゴリー・ヤツコ)。
 〈了〉
参照文献
『原子力文化』2013年1月号、原子力文化振興財団
グレゴリー・ヤツコ、「東日本大震災2年」、『朝日新聞』2013年3月6日

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