万延元年のデモクラシー(2018)
万延元年のデモクラシー
Saven Satow
Oct. 11, 2018
「僕は進駐軍のジープが最初に谷間に入って来た日の光景を明瞭に思い出す。スーパー・マーケットの天皇の一行は、あの真夏の朝の穏やかに勝ち誇った異邦人たちに似ている。はじめて自分の眼で具体的に国家の敗北を確認したその朝も、谷間の大人たちはなかなか被占領に慣れることができなくて、異邦の兵士らを無視し自分たちの日々の作業を続けながらも、かれらの躰全体には「恥」が滲んでいた。ただ子供たちだけが新状況にすみやかに順応してジープについて走り、ハロー、ハロー、と国民学校で即席の教育を受けた喚声をあげて罐詰や菓子をあたえられた」。
大江健三郎『万延元年のフットボール』
現代において最も標準的な政治社会のプラットフォームは民主主義です。どれだけその理念に沿った実践が行われているかは国際比較の重要な尺度になっています。けれども、民主主義は歴史的には必ずしも肯定的な評価を受けていません。直接民主制が実施されていたアテナイの哲学者であるプラトンやアリストテレスは否定的に捉えています。民主主義は最悪の体制である僭主政、すなわち独裁を招きやすいからです。
この民主主義に対する評価を逆転させたのがアメリカ合衆国です。アメリカは建国原理として権力分立の共和主義を選びます。その上で、政治社会において民主主義を取り入れています。当時からすれば、これは実験で、成功するかどうか欧州の知識人は半信半疑で見ています。
そんなアメリカの現状を視察しに、大西洋を渡ったのがフランス貴族アレクシス・ド・トクヴィルです。彼は1830年代のアメリカの民主制を見聞、帰国後の1835年、それをまとめた『アメリカの民主政治』を発表しています。この大著は近代民主主義を考える際の古典です。
トクヴィルからおよそ30年後の1860年に日本の武士が渡米し、アメリカの民主主義に接しています。彼らは万延元年遣米使節の一行です。断片的ながら、アメリカン・デモクラシーについての印象を残しています。
万延元年遣米使節団は、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した使節団です。これは1854年の開国後最初の公式訪問団です。
正使と副使には、共に外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興と村垣範正がそれぞれ任命されています。また、通貨の交換比率の非公式交渉を担当する小栗忠順が目付に選ばれています。彼ら3人を正規の代表とする使節団77人は、ジョサイア・タットノール代将が司令官ジョージ・ピアソン(George F. Pearson)大佐が艦長を務める米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米しています。
さらに、咸臨丸も随行します。ポーハタン号の事故など万が一に備るためです。正使一行とは別に、軍艦奉行の木村喜毅が司令官を務め、通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)や木村の従者として福沢諭吉が乗船しています。他に、技術アドバイザーとして、測量船フェニモア・クーパー号の艦長のブルック大尉を始めとする米国軍人も同行しています。
一行は1860年2月9日に品川を出港、ハワイを経由して、3月にサンフランシスコに到着します。当時はまだ大陸横断鉄道がありません。西海岸から東海岸に行くには、太平洋を南下してパナマかニカラグアを通過し、大西洋に抜ける必要があります。ただ、パナマ運河はまだありません。
この時はパナマ・ルートを選んでいます。大西洋に出た後、船で北上してニューヨークに着き、そこから陸路で南下してワシントンDCに到着しています。4月3日に、正使らはジェームズ・ブキャナン大統領と批准書を交歓しています。なお、帰路はナイアガラ号に乗って大西洋航路をとっています。喜望峰やインドを経由して、9月27日に江戸に帰国しています。一行は9カ月をかけて世界一周したというわけです。
日本を出港した時点での元号は安政7年です。江戸城火災や桜田門外の変が起きたために、1860年4月8日に万延へ改元しています。この本文ではグレゴリオ暦の日付を用いていますので、当時の暦である旧暦よりも1カ月ほど早くなっています。
少なからずの参加者がこの訪米について日記を始め記録を残しています。最も有名なのは福沢諭吉が『福翁自伝』(1899)で紹介したジョージ・ワシントンの子孫をめぐるエピソードでしょう。福沢らが案内人に初代大統領の子孫は今どうしているかと尋ねたら、彼は、娘がいたはずだが、「今如何して居るか知らないが何でも誰かの内室になつて居る容子だ」と素っ気なく答えています。福澤はアメリカの民主制が当時の日本のような身分などが相続される封建制と異なる政治社会ということに驚いています。
福沢の他にもメンバーの興味深い印象が伝わっています。副使の村垣範正の『村垣淡路守公務日記』や玉虫左太夫の『仙台藩士幕末世界一周』などには初めて接した西洋文化への戸惑いや驚き、不快感、共感、納得などが含まれています。
武士たちは一様に艦内で出された食事が口に合わなかったようです。ワシントン誕生日の際に食事に招かれ、武士たちはアメリカ人と同じ料理を食べています。パンを「蒸餅」、ローストチキンを「焼き鳥」、ミートパイを「肉饅頭」と呼んでいます。また、バターの匂いに閉口しています。もっとも、アメリカ人も日本人が持ちこんだ沢庵や味噌の匂いに我慢がならず、海に放り投げています。
使節団はアメリカのホテルで初めて目にしたシャワーを水が出てくる「蓮の実」と言っています。ただ、彼らは首までお湯につかりたいと思っていたようで、ホテルの中庭にたらいを出して水浴びをしています。もちろん、アメリカ人から顰蹙を買い、たちどころにやめさせられています。初めて異文化に接した際に、こうしたトラブルはつきものです。テレビや雑誌などで訪日中国人観光客の行動を揶揄することがありますが、過去を忘れてはいけません。
興味深いことに、腰掛式トイレに対して誰一人不満を漏らしていません。サムライも洋式トイレの方が和式トイレより快適と満足しています。それなのに、つい最近まで、日本では、公共施設で和式トイレが設置されていたことに理解に苦しみます。ただし、船内のトイレは士官以上が個室ですけれど、水兵は仕切りがなく、武士たちにそれが耐えられないことだったようです。彼らは船長に個室使用の許可をとりつけています。水浴びなら人前で裸になっても平気ですが、大便の姿を見られるのは嫌だというのですから、羞恥心は文化によって違うものです。
武士たちは草鞋を履いて、乗船しています。ところが、濡れると用を足しません。玉虫左太夫は、たまりかねて、寄港地のハワイで靴を購入しています。和服に靴というバカボンのようないでたちでアメリカの土を踏む者もいたわけです。
現代人にとって、武士たちの憤りの中に、理解が難しいものもあります。その一つが上下関係です。彼らは一様にアメリカ人が礼をわきまえていないと厳しい目を向けています。
礼をめぐる苛立ちとして葬儀のエピソードを紹介しましょう。葬儀は今日でも形式が重視される儀礼です。現代人にとってその光景に違和感はないのですが、万延元年の武士たちは不快感を示しています。
水兵が亡くなり、艦上で葬儀が執り行われることになります。その際、艦長が参列したことに、使節団は一様に驚いています。当時の日本の常識では一水兵の葬儀に艦長が参列することなどあり得ません。そんなことをすれば、むしろ、周囲から礼儀知らずと非難されるのです。
儒教はマクロからミクロまで上下関係で世界を認識します。それに忠実な武士からすれば、上位が下位を同列に扱うことは礼を知らないと見えるのです。
ただ、使節団の中でも身分の低かった玉虫左太夫は少々違う意見を記しています。彼も最初はその光景を否定的に捉えています。けれども、少し考えた後に、アメリカ人の上下関係を自分たちにとっての父子のそれになぞらえています。父が子の葬儀に参列することは例に適っています。彼はアメリカの上下関係を納得、肯定的に理解しています。近代組織の上下関係は疑似家族的だというわけです。
確かに、日本の組織では、今でも、トップを構成員が「親父」や「おやっさん」と呼ぶことがあります。本田宗一郎や田中角栄、田岡一雄など挙げればきりがありません。作業着を着た社長が社員と共に食堂で昼食をとる光景は、戦後日本のモノづくり現場のよき伝統と思われています。
戦前の組織における上下関係は江戸時代の延長である場合が少なくありません。例えば、工場でのホワイトカラーとブルーカラーの待遇は就業規則に始まり出入り口に至るまで区別されています。初期の労働争議の目的は人間らしい扱いの要求です。戦前は必ずしも近代的な上下関係が日本に浸透していません。
戦後の民主化の中で近代組織の上下関係が疑似家族的なものへと捉え直されています。玉虫左太夫の直観はおよそ90年後に常識化していきます。もちろん、疑似家族的な雇用関係に問題があることは今では明らかになっていますが、この変化を検討する際に、彼の見立ては示唆を与えてくれます。
アメリカの民主主義については、村垣がいくつか乾燥を記しています。彼は4年に1度実施される大統領選挙を「入札」と呼んでいます。彼には自分の選んだ候補者が当選するように秘密投票することがサイレント・オークションに映っているのです。
明治政府は近代日本の最も基本的な政治原理として立憲主義を採用します。その上で、選挙制度を始めとするデモクラシーの制度を実施します。ただ、戦前の日本は責任内閣制を採用していませんから、首相は国会議員以外でもなれます。実際、選挙結果ではなく、元老や重臣が総理を決めています。
これは政党政治の時期でも変わりません。内閣が行き詰まると、元老西園寺公望が野党から後継首相を選びます。この時点では少数与党です。勢力図を変更するために、首相は議会を解散します。与党は議会で多数派にならなければなりませんから、なりふりかまわず選挙活動を行います。選挙は現状を正当化するための手段です。ですから、戦前の首相決定過程は「入札」ではありません。有権者の投票行動の結果が首相選出につながるのは戦後に入ってからです。
村垣は批准書交換のために訪れた大統領執務室でも不満を抱いています。ブキャナン大統領が西洋人の正装だったにもかかわらず、それにを股引姿」と不快感を覚えています。彼は議会で見た議員たちの服装にも同様の印象を記しています。また、執務室に孫娘がいたことに戸惑っています。奥の存在である女子どもが表の場にいるなど彼には理解できません。さらに、机の上がごちゃごちゃしていることにだらしないと感じています。親しみが持てるとしてざっくばらんさが有権者に支持される事情を彼には知る由もありません。
連邦議事堂での審議の様子を「魚市場」に譬えています。議員が演台に立って大声で話すと、それに対して議席から支持・不支持の声が上がります。その光景が魚河岸のセリのように思えたのでしょう。
市場では透明性や公正性が必須です。議会が市場であるなら、同様のことが求められます。また、売り手はできるだけ高く売りたいし、買い手はできるだけ安く買いたいのですが、思い通りになりません。同様に、市場としての議会なら、公開の場で交渉してお互いに妥協し、合意を探る必要があります。確かに、これらは民主主義の意思決定過程に欠かせません。ただ、戦前は言うに及ばず、戦後の国会であっても、必ずしも十分に実行できていません。
いずれの場合も、村垣は民主主義を市場との類似性から捉えています。彼には、デモクラシーがオークションの発想を決定過程に取り入れたものと見えています。民主主義は経済社会の制度を政治社会に拡張したものだというわけです。
この村垣の直観は的を射ています。近代民主主義は複数政党制や選挙を採用するなど競争原理に基づいています。競争的民主主義と呼ばれることもあります。西洋では、J・A・シュンペーターのように、民主主義を市場経済の発想から基礎づける思想家がいます。しかし、日本においては、政治理論への経済社会の援用は、最近こそ変わりましたが、限定的です。
福沢のエピソードのみがよく知られていますが、このように、使節団のメンバーの印象も現代を考える際に示唆的です。使節団が帰国した時、日本の状況は依然とお菊様変わりしています。この事業を進めた大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、幕府の権威の失墜が決定的となり、尊王攘夷運動が勢いを増していきます。この万延という元号は、1761年3月29日に文久へ改元されたため、1年足らずしか使われていません。しかも、その7年後の1868年に明治維新に至ります。一行は帰国するなり、この激動の渦に飛びこむことになるのです。
使節団の一行のその後はさまざまです。福沢諭吉のように維新後も活躍したメンバーは死少数です。村垣は維新後隠居し、官職に就かず、1880年に東京で亡くなっています。また、玉虫は1868年に戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟の成立に尽力し軍務局副頭取となりますが、1869年、すなわち明治2年、敗戦後に捕縛され獄中で切腹しています。
使節団がアメリカで見聞したことの多くはその後の日本に生かされたわけではありません。万延元年のデモクラシーが戦前の日本に見られることはなく、それは戦後民主主義において現われています。「民主主義の危機」に直面する今だからこそ、デモクラシーに初めて接した彼らの直観から得るものは少なくないのです。
〈了〉
参照文献
玉虫左太夫=山本三郎、『仙台藩士幕末世界一周』、荒蝦夷、2010年
福沢諭吉=富田正文、『新訂 福翁自伝』、岩波文庫、1978年
宮永孝、『万延元年の遣米使節団』、講談社学術文庫、2005年
宮本又郎、『日本経済史』、放送大学教育振興会、2012年