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和算、あるいは日本文化の絶滅種(2)(2013)

第2章 和算の時代
 こうした和算の発展期に登場したのが関孝和です。アイザック・ニュートンの同時代人である彼は「算聖」と呼ばれますが、バイオグラフィには不明の点が多いのです。最大の理由は関家の断絶です。しかも、彼は下級役人ですから、ただでさえ事跡が残りにくいのです。近世、数学研究は公的制度化されていません。数学研究は業務の合間に行い、生前発表したのは1647年の『発微算法』だけです。死後に弟子たちが彼の研究の多彩さを世間に伝えたのが実情です。ですから、ソクラテスとプラトンのように、孝和と関流の業績は異なっているはずですが、区別するのも困難です。

 孝和の功績は独自の記号法を和算に導入したことです。それは当初は「傍書法」、後に「点鼠術」と呼ばれています。その意味は筆算による記号代数学の成立です。数式処理が非常に容易になったため、解法も簡潔に示せるようになっています。従来、複数の解がある問題や条件を満たす解がない問題は「病題」として避けられてきたのですが、それも通常の問題へ変換することが可能なのです。孝和のイノベーションにより公式が次々と発見され、和算は飛躍的に発展します。

 18世紀前半にはこの表現形式が定着します。関流の絶頂期は和田寧(1787~1840))の「円理豁術」でしょう。「円理」は円や球などの周・面積・体積を求めることで、「円理豁術」は積分公式を無限級数展開で導き出すことです。これは専門的数学研究で、実用性は念頭に置かれていません。

 なお、和算の記述形式は西洋と異なります。最初に数値を含んだ問題の「今有」が示され、次に値のみの解である「答」が続き、最後に計算法の「術」が来ます。ただし、術の論証性は甘い。そのため、読者は個々の問題に挑んでも、それらの背後にある方法論を直接学ぶことができない。問題を通じて帰納的に見出すほかない秘術である。この記述法は中国に由来します。和算は自立して発展しながらも、その特徴は保持されます。

 18世紀から和算は家元制度を採用します。諸流派が併存し、修行を積み、免許皆伝された弟子によって技法が継承されていきます。和算は生け花や茶の湯と同様の芸道の一つです。最有力は関流ですが、他にも田安明を開祖とする最上流などがあり、流派間には激しい対抗心があります。サブカルチャーの格好の素材です。

 数学には実用性がありますから、江戸時代の政策決定の際にもそれが用いられています。暦の作成の測量、航海術、財政など数学なしでは政治・経済の活動ができません。下級役人には業務上必要ですから、幕府の部署が和算を支え、一部の藩校でも教えられています。しかし、高度な専門研究を行っていたわけではありません。

 このように和算は公的に認められた制度ではありません。和算が自立して発展していくには、家元制度が欠かせないのです。それは和算が武家や公家ではなく、民衆の文化として定着していたことを意味します。

 和算家は世間にアピールするため、算額奉納を活用しています。無事解けたことを神仏に感謝する数学絵馬で、神社仏閣に奉納されています。宗教スペースは前近代において最も人が集まる場所の一つです。問題と解答、それに奇抜な幾何学模様の図案が表わされた派手な彩色の絵馬ですから、人目を惹かないわけがありません。

 都市には多くの和算塾が開校されています。他方、農村ではないところも少なくありません。けれども、山口和や佐久間續のように、各地を回って和算を教える「遊歴和算家」がいて、彼らを通じて最新の和算情報が地方にも伝播しています。遊歴和算家を介して全国に和算ネットワークが形成されているのです。

 江戸時代に出版が活発だったことはよく知られています。和算も同様です。数多くの和算書が刊行されています。先に触れた算書だけではありません。教科書も多く出版されています。和算の需要はそろばん・天元術・傍書法の順でしたから、入門書もこの流れで構成されています。特に、そろばんによる割り算が難しいので、その計算法に最もスペースが割かれています。

 和算はさまざまな身分や職能、地域の人々が入り乱れて一つの総体を成しています。その相互浸透・対立がダイナミズムにつながっています。市井で盛り上がれたのも公認された制度でなかったからでもあるでしょう。

 ただし、民衆文化として数学が伸長したのは日本だけではありません。18世紀の欧州、すなわち啓蒙の時代でも、数学に民衆が親しんでいます。特に、女性たちが数学を愛好していたことが知られています。中でも、『レディーズ・ダイアリー』が彼女たちにとって最高の数学道場です。これは、当時、唯一の数学雑誌であったため、読者には男性も含まれています。近代原子論を唱えたジョン・ドルトンもその一人です。

 江戸末期に、和算は蘭学を通じて西洋数学と接触します。可能性は推測できるものの、オランダ数学、すなわち蘭数以前の日本への移植は不明です。母親が日本人で平戸出身のペーター・ハルツィンクがデカルトの孫弟子としてオランダで西洋数学史に残る研究をしていますが、和算との関係は現時点では認められていません。本格的出会いは蘭学の勃興以降と考えて差し支えないでしょう。

 当初、伝えられた蘭数は実用数学でしたから、和算は、その影響を受けつつ、変化します。しかし、幕末には、幕府や藩、私塾でも採用されただけでなく、関流も導入するなど蘭数の優位は決定的になります。

 明治政府は、1872年の学制公布で、数学の学習・研究は洋算に限ると定められます。教育課程から和算は排除されたわけです。和算は、元々、インスティテューショナル・公的にではなく、パーソナル・私的な関係によって維持されてきましたから、公教育から追放されても、存続します。和算書が出版され、和算塾も開設されます。しかし、需要は先細り、後継者は育たず、和算家の高齢化につれ、明治末に和算は自然消滅してしまうのです。

 ただ、和算の中にも例外があります。それがそろばんです。議論の末、これだけは公教育に入ることが許されています。そろばんは唯和算唯一の生き残りとなっています。

 和算は、近代化の中で、絶滅しますが、これは近世に支配的だった芸・学術の中で比較的珍しいケースです。芸道や芸能の大半が明治以降も規模を縮小させたり、形態を変えたりしながらも存続していきます。また、医術も、正規の教育課程からは排除されたものの、漢方や鍼灸といった民間治療として伝承されていきます。しかし、和算もそうした転身を図りましたが、成功しません。

 その最大の理由は和算が自己目的化していたからです。西洋の近代数学は物理学を代表に自然科学と関連して発展しています。近代の科学技術を輸入する際に、その背後にある西洋数学も受容せざるを得ません。和算は、他の自然科学から独立して発達し、それ自体が目的であり、手段ではありません。

 西洋数学に接触した際に、大胆に自己変革してそれを取り入れることは和算にはできません。和算は保守的ですし、守備範囲も狭いのです。草創期から成熟期に至るまで、主に扱っていたのは幾何学問題で、そこでの計算数学を極度に発展させています。全数学の領域から見ると、非常に偏重しています。蘭数に接した時、計算に便利な対数はすぐに取りこみますが、そうではない微積分には慎重です。微積分を組み入れない数学が近代に通用するわけがありません。

 和算には独自の記号法がありましたが、西洋数学と比べて、未知数の欠数や係数が整数に限定されるなど未整備の点も多く残されています。計算さえできていればいいという意識が見られ、論証性を示す表現形式が乏しいのです。後期の無限級数展開に見られるように、論理の厳密性を捨てて計算処理を優先させています。

 近代数学の重要な契機は解析幾何学の誕生です。和算は座標概念が発達していませんから、解析的研究が困難です。「和算」と呼ばれるように、計算数学に終始したわけです。和算は西洋数学を統合することはできません。ミシェル・フーコーの『言葉と物』以来、近代に向かう西洋と非西洋との認識の差異が論じられていますが。それらには「座標」が抜け落ちています。和算から西洋近代を見るならば、座標を手にした後、他の地域の数学を凌駕しています。「解析」に和算は到達し得ず、近代数学と接した時、生き残る可能性はもはやなかったと言えるのです。

 和算はアマチュアの数学です。アマチュアは具体性には強いのですが、抽象性に弱いものです。縦書きで記号化も乏しく、角度の概念もありません。個別の物事に向かうのは得意でも、その背後にある一般性を体系化するのが不得手です。和算は新たな数学理論を提示するよりも、問題を解くことに主眼が置かれています。和算家は既存の方法論でどれだけ難しい問題を解けるかを追求しています。和算は家元制度に依拠している以上、弟子が師匠の枠から外れたことはできません。戦略的思考は育たず、戦術的思考が成長します。

 和算には、いわゆる日本文化のガラパゴス化の特徴が見て取れます。戦術的思考には暗黙の前提があります。立脚する条件が不変だということです。しばしば自分たちのいる環境を自明視してしまいます。戦略的思考が動的認識であるとすると、戦術的思考は静的です。環境変化に弱いのです。和算にもそれが認められます。環境に適応して自己目的化したがゆえに、外来との接触という変化の中で滅んでしまうのです。

 他の自然科学との連携は数学の扱う範囲を広げます。また、専門研究者は獲得した知見を体系の中に位置づけて共有し、それを精緻化したり、再構築したりします。しかし、和算はいずれも欠いています。和算は蓄積された知見を共有し、科学的真理の探究やよりよい社会建設のために利用する発想がありません。

 そうした限界の一方で、和算は数学することの面白さで広く世間に受容され、発展しています。和算の頃以上に日本社会が数学を楽しんだ時代はなかったでしょう。和算には民衆にとって数学の等身大の魅力があったというわけです。そこには数学の快楽の原点があります。今日、和算が振り返られるとしたら、業績もさることながら、民衆文化としての数学を体現しているからなのです。
〈了〉
参照文献
佐藤賢一、『近世日本数学史』、東京大学出版会、2005年
佐藤賢一監修、『和算の事典』、朝倉書店、2009年
平山諦、『和算の歴史』、ちくま学芸文庫、2007年
三浦伸夫、『数学の歴史』、放送大学教育振興会、2013年
森毅、『数学と人間の風景』、NHKライブラリー、1995年

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