東京デモクラシークルー(2014)
東京デモクラシークルー
Saven Satow
Sep. 22, 2014
「非暴力に徹したデモが、これほど継続しているのは世界的にも新しい。自信を持つべきです」。
高橋若木
今、特定の党派・組織に拠らない安倍晋三政権批判のデモが繰り広げられている。それを仕掛けているのは「東京デモクラシークルー」と呼ばれる有機体である。2014年9月13日付『朝日新聞』の「デモと民主主義」はその主催者の一人である高橋若木講師のインタビューを掲載している。
眼鏡をかけたモリッシ―という風貌のこの政治学者によると、メンバーは脱原発デモやヘイトスピーチに対するカウンター活動、特定秘密保護法反対デモなどの現場で知り合っている。東京デモクラシークルーは社会関係資本の蓄積の産物である。そこに新しさがある。
「ソーシャル・キャピタル」とも呼ばれる「社会関係資本」は近年その重要性が広く認識されつつある。それは人々が持つ互酬性規範や信頼を基盤とした人間関係を始めとする社会的ネットワークである。資本である以上、蓄積が可能だ。
政治学者のR・D・パットナムが提唱したこの概念に対して、測定法が曖昧である、あるいは排他性が強くなりイノベーションを阻害するといった批判が寄せられている。小山弘美せたがや自治政策研究所特別研究員は、この指摘に応える形で、社会関係資本を「住民力」と再定義している。
彼女は、『世田谷区民の「住民力」に関する調査研究』(2012)において、世田谷区を事例に社会関係資本の定量化を試み、その強さが開放性とイノベーションと共存することを実証している。「住民力」は「地域社会の形成に主体的に参加するための住民自身が保有するソフトな資源」であり、「行政と対等に公共的領域に対して責任をもち、意思決定過程に参画しうる住民の力量」と規定している。
住民力を示すように、社会関係資本の蓄積した地域は、災害時の復元の速度が速い。ダニエル・アルドリッチ(Daniel Aldrich)東京大学客員教授は、13年4月20日付『朝日新聞』の「生活を復元する力」において、ソーシャル・キャピタルを育み、「レジリエンス(Resilience)」、すなわち「被災によって奪われた日々の暮らし、日常生活のリズムを、集団としていち早く取り戻す能力」のある街をつくることを提唱している。
災害後の復旧の速度は地域の復興に影響を及ぼす。歴史は元に戻らない。災害によって避難した住民は復旧が長引けば、新たな環境に適応して生活せざるを得なくなるため、帰ることができなくなってしまう。これまでの調査で強い復元力を見せる地区にはソーシャル・キャピタルの蓄積が認められる。その定量データの一つがデモを始めとする社会運動の発生件数である。
同客員教授は、1923年の関東大震災について、東京の40の交番が把握していた10数年分の資料を入手、デモや騒動など社会運動の発生件数が多く、投票率が高い区域ほど人口回復が早いと分析している。知人や友人に誘われてデモに参加したり、地区のために一緒に抗議したりすれば、人とのつながりが強くなる。政治的・社会的運動への参加はソーシャル・キャピタルを増大させ、それは震災復興にも機能を果たす。
3・11後、「きずな」の重要性が確認されている。それは掛け声だけでおのずと出来上るものではない。社会関係資本の蓄積によって強化される。デモがそうしたソーシャル・キャピタルの増大を促進する。東京デモクラシークルーは3・11との人々の向き合いから発展してきたと言える。
東京デモクラシークルーはある社会集団からではなく、その横断によって生まれている。パットナムは社会関係資本を二種類に分けている。一つは「橋渡し型(Bridging)」、もう一つは「結合型(Bonding)」である。前者は外部志向的で、異なる社会集団を連結させる。他方、後者は内部志向的で、社会集団の構成員の連帯を強化する。東京デモクラシークルーは橋渡し型のソーシャル・キャピタルである。
東京デモクラシークルーは主権者という「強者の感覚に根差した」デモを実践する。自分たちは「社会の『内側』をつくっている市民」である。主権者であり、「強者」であって、決して「弱者」ではない。この「強者」や「弱者」はフリードリヒ・ニーチェの用語であり、ルサンチマンのありようを認知しているのが前者、囚われているのが後者である。
主権者の権利行使は投票行動に限定されない。選挙を通じて選出される国民の代表者は主権者から全権委任されているわけではない。選挙は争点が多いので、コンドルセのパラドックスにより、個別政策の民意が結果に反映されにくい。選挙以外の政治行動による主権者の意思表示を代議制民主主義は原理的に必要とする。デモも主権者の持つ政治的権利である。
一連の抗議活動の目的は民主主義の再起動である。デモクラシーもデモンストレーションもギリシャ語の「人々」を意味する”demo”から始まる。デモンストレーションは説教ではなく、そのためのプレゼンテーションだ。シュプレヒコールもプラカードもスタイリッシュで、クールに将来を訴えるものである必要がある。
デモには共通認識が要る。それによってメッセージが「世間」に伝わる。そのために、東京デモクラシークルーは抗議の対象を具体的にする。「指をさす」ことができるものでなければならない。「戦争をやめよう」や「軍国主義の始まりだ」ではない。「安倍、辞めろ!」だ。
参加する若者は高度経済成長もバブルも知らない。過去を懐かしみ、現在を嘆くことがない。また、墜落の恐怖に苛まれ、抜本改革に焦る気もない。彼らは自分たちの生きている今の日本にある「自由」や「平和」を守りたいと思っている。強者であるから、ルサンチマンを抱く必要がないというわけだ。ルサンチマンに囚われ、自身を認めることができず、他者を攻撃して優越感を味わい、自尊心を満足しているのは強者ではない。
東京デモクラシークルーは、アナルコサンディカリズムと違い、選挙の重要性も認知している。デモに参加することで社会関係資本が蓄積される。実は、ソーシャル・キャピタルの高い地域は投票率も同様の傾向を示す。「デモが日常の光景になれば、そのような投票層の拡大」につながる。2012年末の衆院生徒翌年の参院選の投票率はいずれも戦後最低クラスである。安倍晋三が絡む国政選挙は投票率が低い。彼は社会関係資本を減少させるのであり、対抗するデモは投票率の改善を含め民主主義の赤字解消への道である。それは「きずな」の復元だ。
東京デモクラシークルーのデモは非暴力的である。にもかかわらず、与党の政治家はしばしば官邸や国会の周辺でのデモ規制を口にする。効いたと音を上げたも同然だ。
途上国の場合、デモが暴動や殺し合いに発展することがままある。国民国家としてのまとまりが悪くて、セーフティネットも未整備、格差が大きく、生活水準が一向に改善しない。これらによって人々の不満が蓄積し、社会が不安定化する。この状況でデモが起きると、一気にエスカレートして暴力沙汰へ至る。途上国の統治担当者はこの暴動リスクを考慮して慎重に政策の舵を取る必要がある。
こんなリスクもないのだから、今の日本の担当者には選択の幅も裁量権も途上国に比べて広く認められている。ところが、デモの規制を事あるごとに口にしている。ルサンチマンに囚われた弱者としか言いようがない。
ナチズムが示したように、選挙も失敗する。だからこそ、デモが要る。「デモの究極の役割は、どんな政権ができても完全には押し込まれない、公正な社会の枠組みがボロボロにされないような政治文化をつくること。『これは自分たちの社会だ』という確信と『社会は変えられる』という希望をよみがえらせ、拡散することです」(高橋若木)。社会関係資本の蓄積がその革新と希望を伝播させる。デモはそのために機能する。
〈了〉
参照文献
森岡清志、『都市社会の社会学』、放送大学教育振興会、2012年
小山弘美、「世田谷区民の『住民力』に関する調査研究」、『都市とガバナンス』第19号、2013年3月
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?