小池千枝、あるいは日本デザイナーの母(2014)
小池千枝、あるいは日本デザイナーの母
Saven Satow
Jun. 04, 2014
「教育とは、一人ひとりの学生を揺さぶってみて、眠っている才能を掘り起こしていくこと」。
西村勝『小池千枝ファッションの道』
1965年、高田賢三は恩師の小池千枝文化服飾学院デザイン科科長に渡仏の計画を伝えます。その話を聞いた彼女は彼に船で行くことを勧めます。それは自らの経験に基づくアドバイスです。
小池千枝は、1916年、長野県須坂市に生まれています。33年、文化裁縫女学校(現文化服装学院)に入学、卒業後、同学院の助手になっています。40年、商社勤務の男性と結婚、彼の転勤に伴い北京へ移ります。翌年、彼女は2人の娘を連れて帰国。45年、夫が沖縄で戦死しています。彼女は、戦後、文化服装学院に復帰、51年、デザイン科を新設、初代同科長に就任します。
モンペから解放された女性の間で急速に洋装化が進み、全国各地で裁縫教室が誕生、洋裁ブームが起きます。文化服飾学院はこの新しい環境によって成長していくのです。
小池は、54年、母に娘2人を預けて単身渡仏します。彼女は、南回りの船に乗り、1ヶ月かけてパリに到達しています。当時、海外渡航は自由ではありません。また、外貨準備もさびしい状況でしたから、円は弱く、その持ち出しも制限されています。個人による渡仏は全財産を使い果たす覚悟が必要です。
パリ・クチュール組合学校サンディカで学びます。イヴ・サン=ローランが同級生、カール・ラガーフェルドが同期生です。ここでオートクチュールの立体裁断と出会います。1年後、フランス製の人台1つ抱えて船で帰国、その時の彼女は無一文です。
小池は持ち帰った人台を使って立体裁断を日本で初めて紹介するのみならず、文化服飾学院でその方法を教えます。人台に布を巻きつけ、ハサミで裁つのが立体裁断です。たたんで折り目をつけるように和服の基本線が直線であるのに対して、洋服は曲線です。立体裁断は洋服の裁縫に適した方法です。服飾は物理的実体でもありますから、その特性を理解していないと、うまくつくることができません。初めて見る本格的な洋裁の技術に学生も衝撃を受けます。
小池はこの船の経験を高田賢三に語って聞かせます。船はフランスに着くまで各地に寄港します。そこで、民族衣装を始めさまざまなファッションを目にすることができるのです。そうやって見たものが自分の財産になっています。ですから、行くなら絶対に船を使うべきだと先生は弟子に諭すのです。渡仏することだけ目的なら、飛行機の方が速いでしょう。けれども、その過程にも宝物があり、それを見逃してはもったいないというわけです。
小池は民族人形を収集しています。現在、文化服飾学院では彼女が50年に亘って集めた100数ヶ国3,700体に及ぶ民族人形を収蔵・展示しているのです。それを見ると、服飾に関する自らの認識が相対化されます。
高田賢三は恩師のアドバイスに従い、船で渡仏します。彼はインドやアフリカなどで寄港する度に目をみはります。世界にはいろいろなファッションがあると痛感するのです。
パリに住んだものの、高田賢三の生活は苦しく、フランス語も上達せず、芽も出ません。資金も底をつき、とうとう帰国を決意します。けれども、せっかくだから当たって砕けろという気持ちで、デザイン画を雑誌社に持ちこみます。そこで認められ、これが運命の転機になります。70年、デザイナーとして独立するのです。
高田賢三のファッションはパリで間をおかずに注目されます。頭角を現していく中で、高田賢三はエスニックを取り入れていきます。船で見た民族衣装を思い起こし、それを組み合わせて新たなファッションを生み出したとも言えるでしょう。学院に入学した直後は裁縫バサミさえ満足に扱えない不器用な青年が努力の積み重ねでここまで到達しています。高田賢三は、船の経験がなかったら、自分はすぐに枯渇してしまっただろうと回想しています。大胆でカラフルなケンゾーはフランスのみならず、世界的なブランドに成長していくのです。
高田賢三の渡仏に刺激され、自分もこうしてはいられないと思い立った日本人デザイナーがいます。小篠順子です。
彼女は高田賢三と同じ1959年に文化服飾学院に入学しています。この時の入学者には彼らの他に、松田光弘や金子功、北原明子など後のファッション界をリードする人材が揃い、「花の9期生」と呼ばれることになります。その中でつねにトップに君臨したのが小篠順子です。新人デザイナーの登龍門の装苑賞を最年少の19歳で受賞します。高田賢三は、在学中、ただの一度も彼女の上を行くことはありません。
この天才小篠順子も渡仏します。ただ、彼女が使ったのは飛行機です。
小篠順子はパリを見て、失望します。恩師が授業で熱く語っていたファッショナブルさなどどこにも見当たらないのです。東京の方がはるかにオシャレで、刺激的だと感じ、そそくさと帰国しています。もちろん、帰りも空路です。
ただ、小篠順子は手ぶらで帰国したのではありません。「ブティック」という単語を持ち帰っています。フランス語で”boutique”は「小さい店」という意味です。けれども、彼女は、1966年、青山に自分の販売店「COLETTE」を開く際に、それを使います。以後、「ブティック」はデザイナーズブランドの衣料品の小売店として日本語の語彙に入っていきます。なお、「キラー通り」の命名も彼女です。当時、その道路の交通量が非常に多く、殺人的だとしてそう名づけています。
コシノジュンコのファッションは新し物好きで、感性に自信があるアーティストや俳優、セレブの間で人気が出ます。彼らは服飾規範に否定的身振りをし、個性の表現を重要視する革新的採用者、すなわちイノベーターです。オシャレな東京のナイトライフにコシノジュンコは欠かせません。
国内を制覇した後、コシノジュンコも、1978年、パリコレを開催します。その後から在に至るまで、彼女は国際的に活躍しています。ただ、まさに彼女にしかできないSF的なファッションが話題になるものの、全般的に評価は、率直に言って、賛否が割れます。コシノジュンコは好評と不評に二分され、ケンゾーと違い、認知が安定的ではありません。
ケンゾーとコシノジュンコに対する評価の違いはファッションに関する両者の認識によるものでしょう。
高田賢三にとってファッションは文化であり、その出会いです。さまざまな文化が出会い新たなファッションが生まれるのです。
他方、小篠順子にとってファッションは個人の表現です。個人の感性を表わし、その美意識を他者と交歓するものです。
ファッションは同時代的な共通理解を得なければ、人々に共有されません。発表しても、すぐに消えてしまいます。ケンゾーは文化を基盤にしますから、理解を共有しやすいのです。ただし、伝統衣装は共同体内の次世代への継承が前提ですが、ケンゾーにその意識は必ずしもありません。
他方、コシノジュンコは個人の感性に立脚しますので、共通理解が成り立ちにくいのです。美意識が合えば理解できますが、違うならそうなりません。美意識が共有しやすい共同体内部では圧倒的な強みを持てる反面、その外部では共通基盤を失い、評価が安定できないのです。
ところで、二人の恩師である小池千枝は少々異なる考えを持っています。ファッションは文化でも個人の表現でもありますから、両者の認識を否定しているのではなく、もっと包括的に捉えています。異文化からイメージを得てきた高田賢三、言葉を持ってきたコシノジュンコに対して、小池千枝は人台という物を持ち帰っています。ここが違うのです。
前近代の職人は過去のパターンに通じ、注文に応じてそれを縦横無尽に引用しましたが、現代のデザイナーは誰とも違う他ならぬ個性を作品化します。けれども、服飾は人工物であり、それを介してコミュニケーションが行われます。送信側はアイデンティティや印象管理、暗黙のパーソナリティ、個性と社会規範への同調の相克が示されます。一方、受信側は服飾そのものに関する情報や送信者の属性、置かれている状況を了解します。制服の場合、被服規範や所属集団の自己概念・役割をめぐってコミュニケーションがなされます。モードは共時的・通時的認識を踏まえた同調性と独自性の弁証法でしょう。
服飾は時代的・社会的・風土的背景や個人的嗜好・心理・事情が表われます。それは物であり、心なのです。小池は教育者です。最大の功績は多くの人材を育成したことです。教育では、服飾に関する通時的・共時的知識を明示化し、それを次世代に継承する必要があります。自分が新しい表現を行えても、持続的育成ができなければ、それは教育とは言えません。教師はコミュニケーションを通じて認識の相対化を学生にもたらします。2014年5月28日に98歳で亡くなった小池千枝名誉学院長は、日本デザイナーの母として、そうやって時代の先を教えつづけているのです。
〈了〉
参照文献
西村勝、『小池千枝ファッションの道─時代の先を教えつづけて』、文化出版局、1992年
『ファッション伝説TOKYOモード60年史』、WOWOW、2009年
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