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傷ついた果実たち─寺山修司の抒情詩(7)(2002)

7 抒情詩とは何か

 なみだは
 にんげんのつくることのできる
 一ばん小さな
 海です
(寺山修司『一ばんみじかい抒情詩』)

 寺山修司の文学に関する認識は最も抒情詩において顕在化している。と言うのも、ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、「このジャンルは、文学の核心を最も明らかに示す──すなわち、叙述と意味を逐字面において、語順と語のパターンという形で示すのである」からだ。

 そこに
 見えない花が咲いている
 教えてあげよう
 ぼくの足もとだ

 数えてみると
 花びらは四枚 色は濃いオレンジ
 花ことばは知らないけれど
 いつも風にゆれている

 そこに
 見えない花が咲いている
 ぼくにだけしか見えない花が咲いている

 だから
 さみしくなったら
 ぼくはいつでも帰ってくる
(『見えない花のソネット』)

 抒情詩は「見えない花」である。完全無欠な「虚」もなければ、完全無欠な「実」もない。

 また、抒情詩は視覚的だけでなく、憑依的で、夢想的、意外で不規則なリズムを刻む。

 はるがしんだら
 どこにうめればいいのでしょう
 はるがしんだら
 どんなおはかが にあうでしょう?
 はるはじさつか たさつか
 それとも
 びょうしかな
 よってたかって はないちもんめ
(『よってたかって はないちもんめ』)

 抒情詩は「見るもの」=「聞くもの」ではなく、「見えるもの」=「聞こえるもの」を具現化する。抒情詩は聴覚と視覚に訴える。抒情詩を構成する「旋律」と「映像」に関して、ノースロップ・フライは、『批評の解剖』において、その基本形を「呪文(Charm)」と「謎(Riddle)」と呼んでいる。

 寺山修司は『ポケットに名言を』というユニークな名言集を発表している。「『名言』は、だれかの書いた台詞であるが、すぐれた俳優は自分のことばを探し出すための出会いが、ドラマツルギーというものだということを知っているのである」(『ポケットに名言を』「改訂新版のためのあとがき」)。「名言」とは「呪文呪語の類」、「複製されたことば、すなわち引用可能な他人の経験」、「行為の句読点として用いられるもの」、「無意識世界への配達人」、「価値および理性の相対化を保証する証文」、「スケープゴートとしての言語」と定義している。「思想家の軌跡など一切無視して、一句だけとり出して、ガムでも噛むように『名言』を噛みしめる。その反復の中で、意味は無化され、理性支配の社会と死との呪縛から解放されるような一時的な陶酔を味わう」。『ポケットに名言を』の「言葉を友人に持とう」によれば、「言葉は凶器になることも出来る」が、同時に、「言葉は薬でなければならない」し、「思い出」でもある。「ほんとうは、名台詞などというものは生み出すものではなくて、探し出すものなのである」(『ポケットに名言を』「暗闇の宝さがし」)。「宝石はいっぱいあるのに わたしはいつまでもひとりだった(『さがす』)。この名言に対する考えは彼の抒情詩が体現している。

 花田清輝同様、力石徹の葬儀委員長は、『ポケットに名言を』に、ジュリアン・ソレルが言った「青い種子は太陽の中にある」というスタンダールの『赤と黒』にはないでっちあげの言葉を引用している。監督としてのデビュー作『レザボア・ドッグス(Reservoir Dogs)』(一九九一)が林嶺東監督による香港のアクション映画『友は風の彼方に(City on Fire: 龍虎風雲)』(一九八六)のコピーだと指摘されたとき、クエンティン・タランティーノは「好きだから盗んだ」と言い放っている。

 『パルプ・フィクション(Pulp Fiction)』(一九九四)の脚本に「旧約聖書エキゼル書25章17節にいい言葉がある。心正しき者の歩む道は心悪しき者の利己と暴虐に阻まれる。……我が復讐がなされる時、汝は我を神だと知るべし」と記して絶賛されたが、これはエキゼル書とはまったく関係がなく、千葉真一主演の『ボディーガード牙』(一九七三)のアメリカ公開版に配給会社がつけていた序文の引用である。実際の章句は口語訳で次の通りである。「わたしは怒りに満ちた懲罰をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。

 タランティーノの映画は見事な泥棒市場であり、「市場のイドラ」のパロディである。「うそつきな女がいました うそつきな男に恋をしました 空にかかったうそのお月さま かわすことばもうそばかり うそでかざった城に住み うそのしぐさで愛しあい くたびれきってわかれました」(寺山修司『ぼくの作ったマザーグース』)。

 「魔法使い、忍術使い、ということばがあるように、ことば使いという不思議な術師もいます。それが、詩人というものです。建築家が、石で城をつくるように、詩人はことばで城をつくる。ここに紹介する詩はぼくのお遊びかも知れません。でも、こんなふうに書きながらたのしむことが出来るのも詩人の特権というものでしょう」(寺山修司『ことばの城』)。「呪文」は「さびしいときの口の運動」(『呪文』)である。「だいせんじがけだらなよさ」は「さみしくなると言ってみる ひとりぼっちのおまじない わかれた人のおもいでを 忘れるためのおまじない」(『だいせんじがけだらなよさ』)である。

 抒情詩は、歴史的には、主に聴覚に訴えてきたが、印刷術の発達により視覚も含まれるようになる。「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである」(アンリ・ベルクソン『笑い』)。抒情詩はそこに何が書かれてあるか以上に、どう書かれてあるかが、すなわち印刷された活字自体によって意味を伝達することが、ときとして、重要となる。活字は読むものではなく、見るものであり、と同時に、リズムをとるものである。「本は、あらかじめ在るのではなく、読者の読む行為によって〈成らしめられる〉無名の形態にほかならない」(寺山修司『幻想図書館』)。

   みずえ
  一本の楡の木
 恋の本恋の本恋の本
 モーツァルトを聴いた夏
 愛さないの愛せないの愛さな
  いの愛せないの愛さないの?
   ぼくは口笛を吹けなかったんだ
   一羽の蝶も哲学をするだろうか
  いの愛せないの愛さないの?
 愛さないの愛せないの愛さな
 ローランサンを読んだ夏
 恋の本恋の本恋の本
  一本の楡の木
   みずえ
(『ハート型の思い出』)

             一段目に夏
            二段目にぼく
           三段目にみずえ
          四段目に腰かけて
         五段目で初恋だった
        六段目で何をしたのか
       七段目で神さまが見て他
      八段目でみずえが立上ると
     九段目でぼくは淋しくなった
    十段目で哲学し自省し感傷して
   十一段目で訪れる秋をむかえよう
  十二段目で翼のように両手ひろげて
 十三段目さま人生さまみんなさよなら
(『階段』)

 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ
 みずえ みずえ みずえ

 消しゴムで一つ消したら
 必ず二つ書いてください
(『黒板』)

 こういった詩において、韻律を耳で判断するのは不可能である。ハート型や階段に見える言葉の配置はもちろん、魏を消しゴムで一つ消したら二つ書き足せという指示は視覚に訴える。このカスケードな抒情詩は視覚的である。この中でも『黒板』は視覚や聴覚を通じてリズムを具現化している。感情は力であるが、その直接的な発散は芸術的表現を損なってしまう。抒情詩は「魂の叫び(cri de coeur)」に基づいてはいない。記憶やイメージが喚起する感情はリズムによって導入・選択・結合され、抒情詩上でその全体像をバッファされる。

 いらんなとりがいます
 あおいとり
 あかいとり
 わたりどり
 こまどり むくどり もず つぐみ

 でも
 ぼくがいつまでも
 わすれられないのは
 ひとり
 という名のとりです
(『ひとり』)

 木という字を一つ書きました

 一本じゃかわいそうだから

 と思ってもう一本ならべると

 林という字になりました

 淋しいという字をじっと見ていると

 二本の木が

 なぜ涙ぐんでいるのか

 よくわかる

 ほんとに愛しはじめたときにだけ

 淋しさが訪れるのです
(『ダイヤモンド』)

 爪たい女
 あのひとは

 爪寄る 忘却までの一駅
 爪をきる 断章
 爪をみがく 夜霧の石灰倉庫
 爪をかむ 情欲の猫
 爪弾く 古い歌
(『爪』)

 愛リス  花の名前。
 恋ル   線。〔動〕ぐるぐる巻く。
 愛スクリーム 〔名〕氷菓子。
 恋ン   〔名〕硬貨。貨幣。金。
 愛アン  〔名〕鉄。鉄器(pl)手かせ足かせ。
 愛イスタイン 人の名前。相対性原理を説いた。
 恋ンサイド〔名〕一致。合致。
 愛シャドウ 日の翳。(美容用語)
 恋タス   辞書をひいてごらん?
(『二人のための英語のお稽古』)

 サミュエル・テーラー・コールリッジは、『文学評伝』において、「情熱の活動を食いとめようとするあの自然発生的な努力によって生じた心の釣合にまでさかのぼろうとする。(略)この健康な対立作用は、この作用が反対している状態そのものによって援助されている。そして、対立する二者のこうした釣合は、これに意志または判断力が加わることによって、所期の目的である快楽のために意識的に組織されている韻律となる」と指摘している。これは韻律に限ったことではない。感情の組織化におけるリズムの必要性の説明である。

 抒情詩は、感情の直接的表示に抵抗を加えるため、リズミカルな形式をとる。リズムは変化の中の秩序ある変動である、このリズムに含まれる領域は粗雑なものから洗練されたものまで幅広い。それはたんなる多様性でも、たんなる流動性でもなく、変化する関連の中にある多様性である。リズムの重視により、そこに保守的・調和的傾向を見つけ、感情を表現することへの否定的認識へと論証され、批判されることもある。このリズム形式の選択により、抒情詩の創造には知性が不可欠である。

 抒情詩は精神的伝達だけでなく、視覚と聴覚を通じて、身体に訴える。その身体性の追求のため、ふざけた言葉遊びとしてかたづけられてしまうことも少なくないとしても、言葉遊びは決して捨てたものではない。

  Habia un perro
  debajo de un carro,
  vino otro perro
  y le mordio el rabo.

 これはスペイン語の早口言葉であるが、古今東西、エスニックな歌謡には言葉遊びが見られる。歌舞伎一八番にも早口言葉がある。抒情詩は音楽や映像と密接な関係にあるが、それらに支配されているわけではない。今日のヒップホップにしても、抒情詩の一種である。

「海で死んだひとは、みんなかもめになってしまうのです」

 これはダミアの古いシャンソンの一節です。ダミアの好きだったぼくは、このレコードを大切に持っていました。このレコードの中の水夫の恋の物語を教えてくれたのは、船員酒場に出入りしている娼婦でした。
 少年時代、ぼくの持っているレコードは、傷がひとすじついていましたから、ぼくは一度もその曲を聞いたことはなかったのです。
 レコードの深い傷がとぎれさせたかもめの物語──そのつづきを空想して書いたのが「かもめ」です。
(寺山修司『かもめ』)

 詩人は、抒情詩において、ジェームズ・ジョイスの『若き芸術家の肖像』によれば、自己との関連によってイメージを示す。この自己は一つではない。フライの『批評の解剖』によると、抒情詩に見られるイメージの具体性と抽象性の融合は必ずしも比喩に依存していない。それは「連想のリズム」である。抒情詩ではリズムが重要な機能を果たし、リズムをもたらす身体によって世界を文節化する文学形式である。

 二〇世紀前半活躍した「音痴の歌姫」フローレンス・フォスター・ジェンキンス(Florence Foster Jenkins)はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『夜の女王のアリア』を歌ったとしても、既存の音程・リズム・テンポに従属してはいない。まさに身体が歌っている。

 抒情詩のリズムは連続性と非連続性の二つの要素によって構成されている。リズムを支えるのは本質的には語りであって、声楽とはなじまない。と言うのも、抒情詩は一つの旋律に束縛されることを拒絶するからである。寺山修司は、『男の詩集』の中で、「詩人はなぜ肉声で語らないのだろうか? がみがみ声やふとい声、ときにはささやきや甲高い声で『自分の詩』を読みあげないのはなぜだろうか?」と言っている。リズムが意味に先行し、それに、語呂合わせのごとく、言葉を埋めていく。この場合、そのリズムは息遣いや鼓動といった肉体的なものであり、マザーグースに典型的に見られるように、言葉は戯言にすぎず、意味自体はナンセンスということもある。これは試創作のパロディであろう。

 有名な詩人の手によるもの以上に、抒情詩は童歌や民謡といった民衆の歌の中にその本質が生きている。民謡には、殺人や姦通、犯罪、戦争といった忌まわしく血なまぐさい素材が欠かせない。そこで社会の集合的記憶が抑圧から自由に連想されている。自由に連想させるという観点から、抒情詩を考える場合、フライはジークムント・フロイトの検閲の理論を参考にすべきだと提案している。

 抒情詩は夢、すなわち願望の部分的表現、検閲された願望の表現であり、まるでクロスワード・パズルである。夢の潜在内容は顕在内容に形を変えて人に表われている。創造的エネルギーは現実原則によって検閲される。反復作用は催眠術の時計の機能を果たす。語呂合わせは言語的なユーモアのセンスや憑依的効果を感じさせる。前者は覚醒を、後者は催眠を与え、この二項は弁証法的止揚によって抒情詩を構成する。

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