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水村美苗の『日本語が亡びるとき』、あるいはコミュニケーションが亡びるとき(1)(2009)

水村美苗の『日本語が亡びるとき』、あるいはコミュニケーションが亡びるとき
Saven Satow
Feb. 22, 2009

「真の背反関係は、永遠に相容れえないものを和解させようとする誘惑と、その誘惑の拒絶とのあいだにある」。
水村美苗『リナンシエイション(拒絶)』
「茶室であるから和服でなければならないなどとうのは伝統ではない。ジーンズでもさまになってしまうのが茶室の伝統というものである」。
森毅『ジーンズでもさまになってしまうのが茶室の伝統』

1 漢字が読めない首相
 かつては首相を含め閣僚の演説は官僚の用意した原稿を読むだけと揶揄されていたが、今ではそれさえも懐かしい。国会で、麻生太郎首相は「詳細」を「ようさい」、「頻繁」を「はんざつ」、「未曾有」を「みぞうゆう」、「踏襲」を「ふしゅう」、などと読んでいる。

 「踏襲」を「ふしゅう」とするのは、いわゆる湯桶読みであり、日本語のお約束が頭に入っていないのかと言われても仕方がない。また、「頻繁」を「煩雑」とした場合も、日中の関係の文脈で使われているのだから、その流れをたどっていれば、間違えるはずもない。ワープロによる打ち間違いをよく目にする御時世であり、ケータイ・メール好きで知られる吉田茂の孫も推測力は普通なら自然と身につきそうなものである。

 政治演説は近代日本語における書き言葉の誕生のきっかけの一つである。自由民権運動の活動家は街頭に出て、民衆に自らの主張を演説で訴えている。街頭演説は近代日本政治の原点である。維新以前、演説という政治行動は日本には存在しなかったため、新聞はこの新奇な光景を読者に伝えようとどうしたら臨場感が出るか四苦八苦している。読むだけで、その姿が目に浮かぶような今までにない新しい書き言葉が必要だ。

 読み間違いだらけの演説は活字媒体よりも、You Tubeで動画として見られ、広まっている。ここから新たな書き言葉の芽は出てきていない。

 水村美苗の『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』はこのような状況下で刊行され、文学界で話題となっている。各種のグローバル化とインターネットの伸張と共に、英語の覇権が強まっている。こうした状況に危機感を覚える水村美苗は「日本語をいかに護るか」を訴える。旧英植民地だったインドやシンガポールではローカルな言語と英語を公用語とする政策をとってきたが、このような二重言語圏は今後アジアで拡大していくだろう。さらに、ウェブを通じて英語の図書館には、ますます情報が蓄積されていく。日本語は話し言葉としては存続するかもしれないが、事実上、書き言葉は消えていくだろう。それは日本語にとっては致命的であり、死語も同然である。英吾の世界制服という危機意識に基づき、水村美苗は、七章に亘って、日本語が生き残る術はどのようなものかを明らかにしようとする。

 私たちが知っていた日本の文学とはこんなものではなかった、私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。そう信じている人が、少数でも存在している今ならまだ選び直すことができる。選び直すことが、日本語という幸運な歴史を辿った言葉に対する義務であるだけでなく、人類の未来に対する義務だと思えば、なおさら選び直すことができる。
 それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。
(水村美苗『日本語が亡びるとき』)

 この三島由紀夫の『文化防衛論』を彷彿させる挑発的な著作について、『ウェブ進化論』の梅田望夫が自身のブログで2008年11月7日に絶賛し、論争に火がつく。

 英語がラハールか津波の如く押し寄せ、日本語も飲みこまれてしまうという水村美苗のヴィジョンには、賛同もさることながら、反論も数多く寄せられる。日本は植民地経験を持っていないし、日本語の話者数は1億人以上と決して少なくない。少子高齢化が進んでいるとは言え、世界的に日本語への関心も高まっており、書き言葉の市場規模は小さくなく、いかに英語が支配的になろうと、そう簡単に亡びるわけがない。または、日本語がデカダンスであるとすれば、「正視」にとどまらず、フリードリヒ・ニーチェや坂口安吾のように、よりよく亡んでいくべきだろう。こういった反論が示されたとしても、不思議ではない。

 水村美苗の主張がカサンドラの予言であるかどうかはともかく、これまで無数の言語が亡び、今でも多くの言語が存亡の危機に直面していることは確かである。

2 危機に立つ世界の言語
 ユネスコは、2009年3月19日、全世界で約2,500の言語が消滅の危機にさらされているという調査結果を発表している。最も危険な「極めて深刻」には538言語、続く「重大な危険」に502語、「危険」に632語、「脆弱」に607語がそれぞれ分類されている。また、1950年以降に消滅した言語は329語にも及び、最近では、08年にイヤック語がアラスカ州にいた最後の話者の死亡に伴い途絶えている。

 本には、日本語は載っていないが、8言語がリスト・アップされている。アイヌ語が「極めて深刻」に指定されたほか、沖縄県の八重山語と与那国語が「重大な危険」、沖縄語や国頭語、宮古語、鹿児島県奄美諸島の奄美語、東京都八丈島などの八丈語が「危険」と分類されている。国内では、アイヌ語以外は放言と見なされているが、国際的な基準においては独立した言語として扱われている。 

 ユネスコは96年と01年にも危機に瀕する言語の調査を実施し、今後も定期的に継続する。「言語は常に変化する。その変化の実態を知るため」とその目的を説明している。ユネスコのフランソワーズ・リビエール事務局長補は、09年2月20日付『朝日新聞』によると、「言語消滅の原因には、次世代に伝える意思を失うという心理的要素が大きい。自信を持って少数言語を話せるよう条件づくりに努めたい」と語っている。
 
 アイヌ語は、近代日本政府による非妥協的な同化政策もあって、アクティヴ・スピーカーがもはや15人しか生存していない。もし金田一京助が生きていたなら大いに嘆くことだろう。現在、各方面で四人称を持つこの言語の継承活動が続けられている。共同通信は、09年2月23日、道立釧路明輝高校が新学期から自由選択科目としてアイヌ民族の歴史や文化を学ぶ「アイヌ文化」科を設けると伝えている。

 また、特定の共同体内でのみ使われている言語もいくつかある。かつてはアケメネス朝ペルシアの公用語だったアラム語は、シリアのマルーラを代表としてレバノンやトルコ、イラク、イランなどに点在する共同体が使われている。

 このアラム語が示す通り、歴史的に、政治的・経済的な大国の公用語が国の衰亡の後に、衰退していく現象が何度か見られる。古代ローマのラテン語も同様のケースである。覇権を持っているから、永遠不滅だということはない。

 日本語の心配もさることながら、長期的に考えると、こういった歴史的経験を踏まえるなら、英語も亡びる運命が待っていないとは言えない。事実、アメリカ合衆国を英語の国と考えるのには、いささかためらいを感じる。ヒスパニックの人口は4,400万人にもおよび、世界第3位のスペイン語の話者を抱える国である。各種の選挙でも、テレビ・コマーシャルやネットを通じ、スペイン語を使った運動が必須である。合衆国最大のマイノリティであるヒスパニックの声を政治家も無視できない。

 しかも、アメリカにおけるヒスパニックは移民問題に限定されない。16世紀、合衆国は、戦争によって、メキシコの領土の半分やスペインの植民地を支配領域に組みこんでいる。アメリカの膨張主義がスペイン語圏を統治することになったのであり、この言語の問題は一筋縄ではいかない。こうした経緯から、アメリカ合衆国は、今後も、ラテン・アメリカ色がさらに強まっていくだろう。

 さらに、ローカルな話し言葉としては一般的であるが、書き言葉には用いられていない言語もある。アラビア語には、フスハーとアーンミーヤが存在する。両者は漢文と白話の関係に似ている。

 フスハーはアラビア語を公用語としている地域で共有されている標準語である。印刷物や電波媒体など各種メディア、ならびに政治・経済・学問・宗教の場で使用される。子ども向け番組もフスハーが用いられる。なお、フスハーは、『アル・クルァーン』や古典作品などで使われている古典アラビア語と文法的に若干簡略化された現代標準アラビア語に大別される。『アル・クルァーン』は翻訳が聖典の価値を失うとされているため、読んだうちに入らない。

 水村美苗も親交のあったポール・ド・マンは、柄谷行人によると、前置きの長いエドワード・サイードの文章を「考える以上に書く(He writes more than he thinks)」と評したが、これはアラビア語の文章の書き方を英吾でも通しただけのことである。アラビア語に慣れ親しんだものにとっては、英語の文章は非常に事務的で、気持ちがこもっていないという印象さえする。

 他方、アーンミーヤは各地域で日常会話で用いられている非公式な言語である。これはフスハーの文法を簡便化しており、発音や語彙の点で違いがある。メディア上では、テレビや映画、文学の現代劇、ポップ・ミュージックの歌詞に使われる。概して、アルジェリアのアーンミーヤをカタール人は解さないし、イラクのアーンミーヤをモロッコ人にはわからない。ただし、エジプト制作のテレビ・ドラマや映画が中東地域で広く楽しまれているため、エジプトのアーンミーヤは例外的に他地域の人々も理解できる。それは日本における関西弁の状況を思い浮かべればよい。

 もっとも、亡びるだけではなく、言語を生き返らせようという活動も生まれている。国民国家が抑圧したエスニシティ復権の動きが世界的に進み、各地で、話し言葉として細々と存続してきたローカルな言語を拡充させようという運動も起きている。ケルト語やコルシカ語、ブルトン語などがそうした例である。さらに、事実上、死語となった言語が人々の努力によって復活する場合もある。その代表がヘブライ語である。ただし、現代ヘブライ語は聖書ヘブライ語と多くの点で異なっている。いずれの場合も、アイデンティティの確認・共有という動機が見られる。


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