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キワモノ候補と政治参加(2016)

キワモノ候補と政治参加
Saven Satow
Jun. 20, 2016

「キワモノ上等!でも、でもなのよ。アタシ、『笑わせる』のは大好きだけど、『笑われる』のは大嫌い。が、現実は厳しくて、アタシを笑っている人の八割は、『笑わせてる』のではなく『笑われている』ことぐらいは百も承知よ」。
マツコ・デラックス

 都知事選や参議院選をめぐってメディア上に候補者として橋下徹を始めキワモノの名前が挙がっている。有名でなければ、票を集められないからというのがその理由だ。しかし、キワモノはメディアの作り出した虚像である。キワモノ政治家が行政や立法にどれだけ混乱や腐敗をもたらすかはもはや明らかである。キワモノ政治家でえらい目に遭っていながら、また同類を求めるとしたら、有権者として政治に不真面目だ。

 選挙に有名人が有利だということはポリスの市民がすでに承知している。古代ギリシアにおいて選挙は民主政の手段と見なされていない。金持ちや有名人に有利だからだ。ポリス市民は貴族政に選挙が属していると認識している。

 民主政は民会と輪番制による政治参加を意味する。民会は男性市民全員が参加する総会で、政治的課題の意思決定はそこで決められる。また、輪番制は将軍を除く公職をくじ引きで選ばれた市民が交代で務める制度である。

 この輪番制の起源は裁判への参加である。司法から行政へと範囲が拡大している。市民の裁判参加が民主主義の基礎であり、それは現代においても同様である。そのような制度を持たない、あるいは市民が裁判参加忌避するとしたら、その社会は民主的ではない。

 今日、選挙は民主主義の制度の一つである。ポリスでどうであったかがこの共通理解を覆すことなどない。ただ、民主主義が市民の政治参加を基盤とすることは確認すべきだろう。今の民主主義的制度はこの前提に立脚して整備・運営される。

 自民党の一党優位体制の下、大半の市民の政治参加は長らく投票行動がほとんどである。自由民主主義に則った競争的選挙が実施されていると信じ、政治家や官僚、有識者に統治を委ね、マスメディアの監視や解説でそれらをフォローする。完全ではないけれども、ある程度うまくいっていると信用した上で、時間的余裕がないとか縁遠いいとか何をしても変わらないとかの理由をつけて他の政治参加を諦めている。

 抗議集会・デモに参加したり、請願や反対の署名を集めたり、議会や公聴会に足を運んだりすることも平和的政治活動である。けれども、声を挙げなければ自分たちの意見が無視されると危惧する市民を除けば、そうした行動にさえ距離をとっている。民主政の基盤が市民の政治参加にあるという伝統も顧みられない。

 もちろん、今ではこの態度も改まっている。投票率は最低記録を更新し、政治家や官僚、有識者はぐるになり、マスメディアも彼らの犬であり、いずれも信用できない。政治参加に尻込みしていては、社会がおかしな方向に進んでしまう。暮らしに支障を来たさない程度に政治参加へと向かう。市民は信頼を求めて政治参加しようと試みる。

 問題を自分の事として認識し、意識を他者と共有し、議論する。言うまでもなく、政治参加しても、現状がたちどころに変わるわけではない。だからと言って。諦めはしない。政治参加を通じて信頼の絆を広げ、強くする。それは協力の人間関係、社会関係資本である。これが蓄積された社会ではキワモノ候補などお呼びでない。

 キワモノ候補は信頼とお互いさまの人間関係が希薄な社会に登場する。政治に無関心ではない。けれども、参加していないから、立候補者や選挙公約を見てもよくわからない。ただ、キワモノならメディアを通じて名前と顔、言動を知っている。

 政治家は協力の人間関係が社会に強くなるように取り組むものだ。政党がキワモノ候補を考えるのはそうしたことを果たしてこなかったからだ。有権者を信頼していない。その状況の中で現われたのが安倍晋三政権だろう。このキワモノ総理は信頼とお互いさまの人間関係を分裂させ、政治参加を抑圧、支持者を動員することに熱心だ。社会に不信が渦巻いている。今、政治参加の目指すものはキワモノ政治からの脱却である。
〈了〉。

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