ドラゴンアイの季節(4)(2020)
7 エゾハルゼミ
「ケケケケケケケケケケ」
2020年6月8日、岩手県八幡平市松尾市寄木にある「森のイタリアン・ラミアマンマ」にランチに入ろうと、クルマのドアを開けた瞬間、その笑い声の洪水に襲われ、圧倒される。たじろぎつつ、この声は何かと記憶をたどり始める。しかし、思いつかない。空間がこの笑い声に支配されている。こうした経験は過去にない。
唯一思い出したのはワライカワセミである。小学生の頃に、ノイズやハウリング、混線の中から聞こえてきたそのワライカワセミの声に重なる。オーストラリアABCの海外放送「ラジオ・オーストラリア」の日本語短波放送はオープニングにワライカワセミの鳴き声を使っている。この鳥は主にオーストラリアに分布する大型のカワセミである。日本語短波放送は1960年6月19日から1990年12月31日まで続けられている。
ここがオーストラリアではなく、八幡平だと確かめるために、辺りを歩いてみる。アスファルトの車道をブナやナラ、ヒバ、アカマツなどが生い茂る雑木林が覆いかぶさっている。それはトンネルと言うより、緑の鍾乳洞だ。その天井から笑い声が降り注いでくる。しかし、それは鍾乳洞の滴り落ちる水滴などではなく、東南アジアのスコールのようである。笑い声のスコールはここが八幡平であることの確証を怪しくする。
しかし、実は、この笑い声のスコールがあるからこそ、ここは八幡平である。それはドラゴンアイの季節にだけふもとの雑木林に響くからだ。
笑い声の主はエゾハルゼミ(蝦夷春蝉)である。エゾハルゼミ(Terpnosia nigricosta)はカメムシ(半翅)目セミ科ハルゼミ属に分類される。体長はオスが31~33mm、メスが22~24mmの小型のセミである。体色は全体的に黄褐色で、頭部や胸部はやや緑色を帯び、黒い線や斑紋の模様がある。同属のハルゼミより色が淡いため、むしろ、小型のヒグラシという外見をしている。日本産のセミで、エゾ、すなわち北海道・東北地方の修飾の通り、冷涼な地域のブナなどで構成された落葉広葉樹林に生息する。成虫はハルゼミより少し遅く、5月下旬から7月にかけて発生する。森林性の蝉であるため、市街地で鳴き声を聞く可能性は低い。広葉樹林の伐採、スギやヒノキの植林などで生息域が減少している。つまり、人間中心主義的環境破壊である。
8 蝉と文学
セミは日本において古代より馴染み深い昆虫で、文学にもしばしば取り上げられている。日本文学における最も古いセミの言及の一つは、『万葉集』の「石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば京師(みやこ)し思ほゆ」である。大石蓑の作とされている。古来よりやはりセミは鳴く動物として文学において扱われている。
蝉をめぐる比喩表現に「蝉声」がある。これは絞り出すような蝉の鳴き声に似た声を意味する。清少納言の『枕の荘』の「すさまじきもの」と呼ばれる段にこの用法が次のように認められる。
験者の、物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に、独鈷や数珠など持たせ、蝉の声しぼり出だして誦みゐたれど、いささかさりげもなく、護法もつかねば、集りゐ念じたるに、男も女もあやしと思ふに、時のかはるまで誦み困じて、
「さらにつかず。立ちね」。
とて、数珠取り返して、
「あな、いと験なしや」。
とうち言ひて、額より上ざまにさくり上げ、あくびおのれよりうちして、寄り臥しぬる。
いみじうねぶたしと思ふに、いとしもおぼえぬ人の、おし起こして、せめてもの言ふこそ、いみじうすさまじけれ。
近代においても、幸田露伴が『連環記』(1940)の中で「樹間の蝉声、聴き来って意に入るもの無し、といふ調子にあしらって終った」 と記している。「蝉声」には、単に絞り出すだけでなく、聞く人にとって耳障りな攻撃性のある声のニュアンスがある。ただ、近年でこの用法を耳にすることがなくなっているように思える。
「蝉(せみ)」は俳句において夏の季語である。それを詠んだ最も有名な句は松尾芭蕉の次の作品だろう。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
これは『おくのほそ道』の立石寺の章に収められている。セミは、夏に樹木などにとまって声量豊かに鳴く動物として俳句ではしばしば扱われる。それは静寂や厚さを強調する効果を持つ。音は空気の振動であるから、静けさには動きがない。静寂は運動の感じられない状態である。セミは鳴く時は樹木などにとまっているので、動きがない。しかも、暑い夏の昼間には、人も動かないようにしてそれをしのごうとする。風音は空気の動きであり、涼しさを感じさせる。しかし、セミの鳴き声は空気が動かず、ただ振動が暑い空気を通して伝わってくる。それは岩にさえしみ入るようだ。動きのない暑い夏の景の中でセミの鳴き声だけが響き渡る。景の静けさとセミの声がお互いを引き立てている。
また、散文でも、セミは夏の暑さと静けさを強調する効果として言及される。「玉音放送がラジオから流れ出たときには、焼け跡に立っていた。つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手でぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた」。これは寺山修司の『誰か故郷を想わざる』の一節である。彼はセミを木にとまって鳴くものと扱っていない。セミさえも鳴けずに捕まえられてもがき、それが身体的・精神的な心に響いてくる。玉音放送の時の押し殺した静けさが子の文章から伝わってくる。
セミの季語にはこの上位の他に下位概念もある。初蝉、蝉時雨、朝蝉、夕蝉、夜蝉、油蝉、みんみん蝉(深山蝉)、唖蝉、にいにい蝉、熊蝉、落蝉、蝉捕りなどがある。また、関連季語としては松蝉、春蝉、法師蝉、蜩、秋の蝉、空蝉、蝉生るなどがある。
「初蝉」はその年の最初に鳴いたセミを指す。俳句の季語は旧暦である。5月5日の端午の節句は、2020年で言うと、新暦の6月25日に当たる。旧暦の5月は新暦の6月下旬から7月中旬までに相当し、「五月雨」は梅雨のことである。この「春蝉」は新暦の6月に夏の季節を先駆けて鳴くセミのことで、「松蝉」とも呼ぶ。旧暦であれば、この時期は春である。ハルゼミは本州に広く分布し、4月末から6月にかけて鳴く。マツゼミという呼び名は松林を生息域にするからである。このように、俳句において「春蝉」や「松蝉」は夏を間近にセミが鳴き始める時期を指す。
梅雨明け頃から「にいにい蝉」がニイニイと鳴き出す。夏を迎えると、「油蝉」のジジジジ、「みんみん蝉」のミンミン、「熊蝉」のシャーシャーなどの声が響き渡る。秋が近づくと、「法師蝉」がツクツクホウシ「や蜩(ひぐらし)」のカナカナカナに鳴き声が変わる。そのため、この二種類のセミは初秋の季語である。また、「落蝉(おちぜみ)」は、死期が近づき地面に落ちてもがいている蝉、あるいは息絶えた蝉で、哀れさを表わす。この語を直接用いなくても、「秋」や「落」などによってセミを捉えている場合、同様の意味がある。
蝉が一斉に鳴いて賑やかな状態を俳句では「蝉時雨(せみしぐれ)」と言う。凡茶の「亡き父の挿みし栞蝉時雨」がそれを詠んだ句として知られている。また、セミはオスが求愛の目的で鳴くのであり、メスはそうしない。そのため、俳句では雌のセミを「唖蝉(おしぜみ)」、すなわち鳴かない蝉と呼ぶ。これを詠んだ句としては正岡子規の「唖蝉のかしこさうなり浮世也」がある。