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夏目漱石の『坊っちゃん』、あるいは幼な子の叙事詩(1)(1992)

夏目漱石の『坊っちゃん』、あるいは幼な子の叙事詩
Saven Satow
Oct. 31, 1992

「地獄といわれようが、何といわれようが、ほんとうは楽しいはずですよ。たしかに地獄は苦しいものかもしれませんが、若い人にとって、はたして天国が楽しいものかどうか……、蓮の花の咲いた綺麗な池の横で、お釈迦さんと一緒にじっと座っているなんて、お年寄りにはいいでしょうが、若者は退屈してしまうんじゃないですか。そんな退屈なところに較べれば、地獄なんて、むしろ楽しさいっぱいの面白いところといえるでしょう」。
長嶋茂雄

1 学校と文学
 父直克50歳、母千枝40歳の時に、五男三女の末っ子として生まれた夏目漱石(1867~1916)が、それまで務めていた高等師範学校を辞職して、松山中学に赴任したのは、1895年、29歳の時である。しかし、彼は、はやくも翌年には、熊本の第五高等学校へと転じる。同じ年に、中根鏡子と見合い結婚している。1903年、漱石は、イギリス留学から帰国して、一高と東大講師となるものの、次第に留学中から悩まされていた精神疾患にひどく苦しめられ、一時は妻子と別居するまでに悪化、教職を辞めたいと考えるようになっている。

 1905年、彼は高浜虚子に神経症の自己治療のためにと勧められて『吾輩は猫である』を書く。それが好評だったため、続けて『倫敦塔』他四つの短編を発表する。翌年の1906年に、漱石はたった一年たらずしか務めなかった四国の中学校を舞台にし、江戸っ子を主人公とした二作目の小説『坊っちゃん』を書く。『坊っちゃん』は、『吾輩は猫である』に劣らない、ベストセラーとなる。

 『坊っちゃん』は、小宮豊隆によると、わずか一週間あまりで、ほとんど字句の訂正もなく、一気に書きあげられている。同じ年に次の小説『草枕』を発表するが、『坊っちゃん』と同時期とは思えないほど趣が異なっている。漱石は、わずか二年間に、まったく違った形式と内容の作品を書き上げたことになる。

 『坊っちゃん』のプロットは次のようなものである。物理学校を卒業後、四国の中学校に数学教師として赴任した主人公坊っちゃんが、そこでさまざまな人や出来事に遭遇するが、最後には職をなげうって、東京に帰り、街鉄の技術職員になり、女中の清と、彼女が死ぬまで、一緒に暮らしたというものである。

 『坊っちゃん』は、主人公が教師であり、中学校が舞台の一つになっている。当時、学校や学生、教師は、文学的・社会的に特別な意味を持っている。明治に入って初めて出現したそれらは日本近代文学の最初の対象たからだ。『小説神髄』において写実主義を提唱した坪内逍遥が1885~86年に発表した最初の小説は『当世書生気質』である。もっとも、これは小説と言うよりも、諷刺的・百科全書的なルポルタージュ形式の作品だ。日本の小説は学生を描写することから始まる。

 1885~86年当時、東京だけでも、東京大学のほかに、高等教育機関が創立されている。慶応義塾や東京専門学校(現早稲田大学)、明治法律学校(現明治大学)、東京法学社(現法政大学)、英吉利法律学校(現中央大学)などがある。『当世書生気質』から20年後の『坊っちゃん』の時期には、さらに、多くの学校が創立されている。日本法律学校が改称した日本大学や東京高等工業学校(現東京工業大学)、東京高等商業学校(現一橋大学)、東京外国語学校(現東京外国語大学)、学習院、さらに女子教育も進み、女学校や女子師範学校(現お茶の水女子大学)、女子英学塾(現津田塾大学)、日本女子大学校(現日本女子大学)などがある。なお、「大学」の名称でも、法的にはそれと認められていないケースもある。

 日本近代文学が学校や学生、教師をめぐって出現したことには理由がある。江戸時代までの文学者と明治以後のそれとの違いは、学校という近代国家の教育機関に通った経験があるか否かである。明治20年代に日本近代文学が形成されていく際、主な文学者は学校経験者である。学校に通ったことがない文学者はこの時期に抑圧されている。

 明治以前にも、確かに、教育機関はある。江戸時代には、私塾や著名な学識者に弟子入りして学問を学ぶ他、読み書きや算術などは諸藩が藩士の師弟教育のために開設された藩校やその延長もしくは庶民教育を目的とした郷校、庶民教育のための寺子屋に行って学んでいる。しかし、学校制度は、明治に入って初めて登場する。

 1871年、明治政府は文部省を設立、72年に、学制を公布する。それは、フランスの学制にならい、全国を八大学区にわけ、その下に中学区・小学区を設置するというものである。政府は、同時に、「学事奨励に関する被仰出書」(太政官布告)を出し、そこで、国民皆学、教育の機会均等の原則と実学の理念などを明示している。

 小学校は学制によって設立し、政府は、1886年の小学校令で義務教育四年(尋常小学校)を導入、さらに、1907年、それを6年に延長する。当時は、文部省編纂の『小学読本』や福沢諭吉の『世界国尽』などが教科書として使われている。

 中学校は学制で上・下等中学が創設される。1886年中学校令で高等(2年)・尋常(5年)中学校となり、94年、高等中学校は高等学校(第一高等学校以下五校)に、尋常中学校は(旧制)中学校になる。戦前において最もプレステージのある教育機関はこの旧制高校である。進学率は最も高い時でさえ同年齢男子の1%にも満たない。帝国大学には旧制高校を経なくても入学できる。そのため、戦前の学閥は大学ではなく、旧制高校である。

 1869年、昌平学校に開成学校・医学校を統合して大学校(大学に改称)を創設するが、71年、廃止となり、開成学校は大学南校、医学校は大学東校として残る。77年、東京開成学校、東京医学校を再び統合し、文部省所管の下に創設され、法・理・工・文・医の分科大学と大学院により構成される大学校となる。さらに、86年、帝国大学と改称、90年、東京農林学校と合併、97年、京都に京都帝国大学が設立したため、東京帝国大学と再度改称(以後全国に増設し計九帝大)することになる。1919年、大学令によって学部制が採用される。

 1879年、文部省はアメリカの教育制度を参考にした教育令を制定する。学区制がその代わりに廃止となる。そこでは小学校の設立経営を町村の自由裁量とし、義務教育を16ヵ月としている。しかし、翌年、政府は全面的に改正、中央集権化を強めた改正教育令とする。政府は、86年、学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令)を公布、90年には、あの教育勅語を発布し、さらに、1903年、国定教科書制度が採用される。

 こうした教育に関する法令は、実は、軍事的な法令と同時に公布されている。徴兵告諭は学制が公布された1872年であり、翌年、徴兵令が公布されている。学制と徴兵制は中央集権的な近代国家建設の中心的な役割を担っている。政府は、学制と徴兵制によって、明治以前に存在した多様な差異を破壊し、中央集権的な同一性を形成することを企てる。

 このような近代国家建設の制度が幕藩体制に生きていた人々に受け入れられるわけもなく、血税騒動に代表される各地で学制と徴兵制に対する反対運動が1873~74年の間起こっている。しかし、政府による取り締まりの強化の結果、それは次第に沈静化していく。74年から士族の反乱も相次ぐが、政府は強行策によって78年ごろまでにはほぼ完全に鎮圧する。徴兵によって組織された新しい軍隊に武士は敗北する。武力に基づいていた武士の存在意義は、江戸時代まで非戦闘員だった身分のものたちに負けたことによって完全に失われる。その後、士族の運動は自由民権運動に吸収されるが、明治20年代には消滅してしまい、中央集権化は達成される。

 このように形成された近代国家の世界にあって、日本近代文学は出現する。青春文学はその伝統の一つである。新しい学生生活を描いた小説により新人作家が登場し、時代の寵児となる。戦後、そうした光景が何度となく見られたものだが、90年代から出現していない。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が最後だろう。また、学校を舞台に新旧世代間対立が展開され、社会の進歩主義的期待が示される小説も久しく登場していない。かつては石坂洋次郎のような青春小説の名匠も活躍したものである。こういった作品において大学や学校は進歩的近代化の戦闘の最前線で、若手教員や若者はその前衛である。

 もちろん、津原泰水の『ブラバン』など学校や大学を舞台にした青春小説は今でも発表されている。ただ、それは時代の象徴や社会の縮図と言うより、精神性や道徳性の発達を描く教養小説に属する。島崎藤村の『破戒』が本格的な近代小説の始まりだったとすれば、近代文学の終焉にその理由を見出すこともできよう。近代小説の真の主役は近代社会である。社会における近代の理念と現実の関係を扱う。学校は近代の理念に立脚しているから、近代小説の舞台としてふさわしい。また、新旧世代間の価値観対立は理念と現実の拮抗で、新人作家がそれを表象捨て登場する。しかし、韓流ブームが示す通り、最近の流行は若者だけが発信者ではない。教育問題もいじめや不登校など必ずしも新旧世代間の摩擦に起因しているものだけではない。けれども、中央・地方政府による教育制度の変更も繰り返され、『坊っちゃん』の時代とそう遠くない状況である。非近代人の主人公が大暴れする『坊っちゃん』は青春小説の原点の一つでありながら、それを相対化する。そこに新たな青春小説の可能性用意しているのであり、『坊ちゃん』を読む意義がある。

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