9+ 1=10《ジュー》(2014)
9+1=10(ジュー)
Saven Satow
Nov. 02, 2014
「ある土曜日、ニューヨークに到着したばかりの亡命ユダヤ人が街角を歩いていると、タバコに火をつけるラビの姿を目にした。彼はほっとしてこう言った。『助かった!確かに、ここは自由の国だ!』」
元外交官杉原千畝の半生を描いた映画『杉原千畝 スギハラチウネ』の撮影がポーランドで進められている。この映画に関して監督の絵薬歴を知る時、歴史の綾を感じる。チェリン・グラック監督の母は日系アメリカ人で、父の仕事の都合で和歌山に生まれである。
日系アメリカ人を母に持つ監督が「日本のシンドラー」の映画を撮影する。それは「九一」を思い起こさずにいられない。
今から100年ほど前の20世紀初頭のアメリカに居住した日本人は、谷譲次の『めりけんじゃっぷ』によると、仲間内で、ユダヤ人を「九一(クイチ)」と呼んでいる。ユダヤ人を英語で”Jew”、すなわち「ジュー」と言う。「ジュー」は、日本語なら、「一〇」と置き換えられる。「10=9+1」だから、「一〇」は「九一」となる。
『めりけんじゃっぷ』の作者谷譲次は筆名で、本名は長谷川海太郎である。彼は他にも林不忘や牧逸馬というペンネームを持っている。林不忘の名で書かれたのが『丹下左膳』である。谷譲次は人気時代小説家の別名だ。
長谷川海太郎は、1918年、オハイオ州のオベリン大学に入学する。なお、日本の桜美林大学はこの「オベリン」に由来している。20年に退学し、職を転々としながら全米を放浪する。帰国後の25年、『新青年』に掲載したのが「めりけんじゃっぷ」である。これは滞米中の実体験に基づき、同地で単純労働に従事する日本人の姿をユーモアとペーソスある筆致で、書いた物語である。
現在、「じゃっぷ」は蔑称であるため、使用が好ましくないとされている。この語による差別の歴史を考えるならば、使うべきではない。そのため、『めりけんじゃっぷ』は『テキサス無宿』と改題されて刊行されている。
谷譲次は米社会におけるユダヤ人にこんな印象を抱いている。東洋人である自分たちからは白人に見えるのに、米社会で違う感じの人がいる。言わば、非白人的白人だ。彼らは「ジュー」と呼ばれ、一般の白人と異なる宗教や習慣を持っていて、差別されているように思える。自分たちが彼らのことを話ししているのを耳にして気を悪くするかもしれないから、日本人同士では「ジュー」ではなく、「九一」という隠語を使っている。この用法に、だから、差別意識はない。
近代以前、日本人がユダヤ教徒と接していたかどうかは定かではない。イエズス会の宣教師の中に、ユダヤ教からの改宗者、いわゆるマラーノがいたことは確認されている。欧州に派遣された使節団がその過程で出会っていた、あるいは東南アジアに進出した際に商業活動等で面識があった、オランダ商人にユダヤ人がいたなどさまざまな可能性も考えられるが、それを示す記録はない。
いわゆる開国・開港以降、日本を訪れる欧米人の中にユダヤ人がいたことは想像できよう。ただ、交流も限定的で、ユダヤ教徒がキリスト教徒と違うことに当時の人が気づいていたかどうかははっきりしない。
日本人がユダヤ人と本格的に接触したのは日露戦争である。戦費調達にアメリカのユダヤ人ジェイコブ・シフが協力したことはよく知られている。一般の日本人にとって出会ったのはロシア軍の捕虜である。中に大半と異なった宗教を信仰している人がいることに収容所関係者が発見する。彼らは日曜日に礼拝をしない。それがユダヤ教徒であり、キリスト教徒と異なると知る。
「九一」は、キリスト教が主流の社会において、日本人がユダヤ人と接触した中で生まれた隠語である。そこには彼らが差別されているという認識が認められる。東洋人からすれば外見上は同じ白人に見える、けれども、白人が白人を差別するのを目の当たりにする時、違いがあるだけでなく、階層があると気づく。日本人も西洋のユダヤ人差別を認知したというわけだ。
イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、『ホモ・サケル』(1995)において、「ゾーエー」と「ビオス」の関係から前近代並びに近代の権力を検討している。前者は生物学的生、後者は政治的実存である。近代では生物学的生と政治的実存の間が乖離していてはいけない。生物学的に生きているのみならず、政治的権利がなければならぬ。属性による差別はゾーエーとビオスの不一致である。
他方、前近代において生物学的生と政治的実存は別々に扱われている。政治的権利が認められないまま、生物学的生を営む人が大多数である。権力は生物学的生でのみ暮らす人々に対して死活を行使する。言わば、殺す権力である。
この権力の性格は江戸幕府を見ればわかる。幕府の刑罰の基本は死刑である。また、生類憐みの令を発して捨て子や姥捨てを禁止しても、そのために予算を組んで制度を整備することなどしない。生物学的生の人々は自らだけでその命令に対処しなければならない。
それに比べて、近代は生かす権力である。刑罰の中心は自由刑である。また、福祉は予算・制度・法案に基づく政策として実施される。人々は生物学的生のみならず、政治的実存も伴っている。権力は彼らを生かさねばならぬ。
しかし、ゾーエーとビオスの密着した社会では、生かす権力が抹殺するそれへと反転してしまう。政治的実存を否定するためには、生物学的生を奪う必要がある。ナチスはかくしてユダヤ人を絶滅させるべく行動する。
杉原千畝が行ったのは政治的実存を保障することで生物学的生を守ったことだ。リトアニアのカウナス領事館に赴任していた彼は、ナチスの迫害により欧州各地から逃れてきたユダヤ人を始めとする難民に、外務省からの訓令に反し、大量のビザを発給する。約6,000人を救ったとされる。近代では政治的実存が生物学的生に欠かせない。
「九一」の生物学的生を政治的実存の保障によって救った杉原千畝の半生を日系アメリカ人を母に持つ監督が映画化するのは、歴史の綾と言うほかない。しかし、こんなできすぎた話を偶然と片づけたくはない。
〈了〉
参照文献
谷譲次、『谷譲次テキサス無宿/キキ』、みすず書房、2003年
ジョルジョ・アガンベン、『ホモ・サケル』、高桑和巳訳、以文社、2007年
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