ミステリーと金田一耕助(4)(2016)
4 人類学者的探偵
すでに述べた通り、探偵は近代都市の産物意である。ミステリーの主な舞台は都市とならざるを得ない。ところが、金田一は都市で探偵業をしているけれども、地方で起きた事件に挑むこと多い。それも地縁血縁が濃密で、閉鎖的な伝統的村落である。ミステリーの常識を覆している。
アガサ・クリスティのミス・マープル・シリーズは基本的な設定が金田一と類似している。主な舞台は地方で、古くからの人間関係が濃密で閉鎖的な村落であり、内婚を繰り返す旧家がある。殺人事件が発生するが、それは過去の犯罪と関連している。犯人を調べている間に、新たな事件が起きる。物語の構造も金田一と似ている。
けれども、ミス・マープルは金田一と地方の都市化の点で異なっている。ミス・マープルでは舞台が地方である必然性はない。作者の意図は、いかなる地方であっても都市と同様の殺人事件が起きるという主張である。『蒼ざめた馬』にはかつての魔女裁判を観光の目玉にする村が登場している。近代化は地方にも進展している。社会構造が静的ではなく、村落も動的になっている。
一方、金田一においてはその犯罪は地方でしか起き得ない。近代化が入っていても、それは従来の秩序を解体してはいない。社会構造は依然として静的である。伝統的共同体の地縁血縁がその殺人事件を引き起こす。
『八つ墓村』の八つ墓村では以前に大量殺人事件が発生している。村はこれを観光の目玉にしてなどいない。
『八つ墓村』は津山の三十人殺しをモデルにしている。津山の三十人殺しは津山事件とも呼ばれる。1938年5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村(現岡山県津山市加茂町)で発生した大量殺人事件である。戦時下で、武器の入手が容易であったため、これだけの殺人が短時間で実行できたとされている。犯人は自殺、共同体内での屈辱感が動機だったと見られている。
こういう大量殺人を「アモック(Amok)」と呼ぶ。動機なき無差別殺傷事件が起きると、現代の都市社会の病理などと語られることがある、しかし、前近代のマレー文化圏でしばしば見られる。英語に「見境をなくす」という意味の”run amok”がありますが、これに由来する。
アモックは、大航海時代、マレー半島にやってきたポルトガル人などからヨーロッパへ伝えられている。アモックは文化結合症候群あるいは文化依存症候群の一つで、特定文化との結びつきが強い病と考えられている。そのため、マレー語の名称がそのまま使われる。その後、マレーは英国の植民地になり、渡ってきた医師がこの症例の記録を残している。19世紀末に元警官が10人近くを無差別に殺傷した事件も起きている。
アモックの症状はこんな具合だ。突然、無差別と思われる対象に激しい暴力的行為を加える。刃物を振り回すことが多く、取り押さえられるか、その際に殺されるか、自殺するかといった結末に至る。記録によると、こうした症状は主に男性のマレー人の間で見られる。
津山の三十人殺しもアモックとして広いコンテクストにおいて検討されるべきだ。かつてはアモックが都市型ではなく、むしろ、地方型の犯罪と認知されている。濃密な地縁血縁や強い規範意識が支配する伝統的共同体が引き起こす。『八つ墓村』のアモックはその共同体の前近代性を印象づけている。
ミス・マープルと違い、金田一の事件には前近代的な人間関係や慣習が影響を及ぼしている。日本の場合、地縁血縁には婚姻で生じる姻縁も含まれる。ただ、煩雑になるで、それを含意したものとしてここでは地縁血縁を用いる。
日本の家族制度の特色を考える際に考慮しなければならないのがこの姻縁である。日本人で家の先祖を数代遡って業績を語れる人は多くない、また、祖々父母8人全員の名前を覚えている人は珍しい。祖父母4人と父系の祖々父母2人がいいところだろう。日本の家族規模は伝統的に大きくない。
中国の場合、父系の血縁の継承を相続と言う。儒教はこの先祖祭祀と関連している。夫婦は別姓である。養子は伝統的に認められない。父系の血縁の先祖祭祀が中国人の一つの特徴である。中国は科挙による競争社会である。しかし、競争には勝敗がある。その際に、この血縁のネットワークがセーフティー・ネットとして機能する。
中国は科挙を基盤にした知識人が民衆を指導する社会である。皇帝による最終面接に到達できなければ、中央官僚にはなれない。けれども、利中の合格だけでも地方の役人や教員などへの就職が可能である。
日本は科挙がない。地方における知識人と言えば、僧侶などの聖職者である。彼らは修業を積んで聖職者になっている。しかも、教団内で異動・昇進が制度化されている。この知識人は村落において敬意を払われている。ただ、経済的基盤には村からの寄付が大きい。そのため、有力者との結びつきが強い聖職者もいる。『犬神家の一族』にそれを見て取ることができる。
日本の場合、お家が続くことが重要で、夫婦同姓、養子も認められている。家長に権限が集中している。家長が亡くなったけれども、後継者がまだ幼いなどの事情から稼得の相続ができない時、制約はあるものの、女性が代理を務めることがある。
有力者の邸宅には親族以外も住んでいる。多くの使用人が屋敷の敷地内に居住している。彼らは近代的な雇用契約を結んでいるわけではない。村落の衆慣習や家長の裁量によって屋敷内に住居る。こうした使用人の存在が習わしや掟の支配する村であることを強調する。
金田一では、家長の死後に女性が代理ないし事実上のそれを務めている設定がしばしば認められる。しかも故人が地域でも有力者である。『犬神家の一族』や『八つ墓村』など具体例をいちいち挙げるまでもない。この状態は過渡期であるため、不安定である。地縁血縁の秩序が揺れたことを背景に事件が生じる。
その際、死んだ家長は家族ネットワークを恣意的に力で支配している。構成員のコンセンサスなどない。家長の彼らへの扱いには偏りがあり、格差が生じる。こうした状況では、構成員同士のコミュニケーションが不十分で、彼らには相互不信がある。暴君の死により鬱積した不平不満が一気に噴き出す。しかも、相続には、優先順位はあるものの、養子でも非嫡出子でも可能である。家族ネットワークの秩序を揺り動かす。
伝統的社会を調査する際に重要なのは地縁血縁だけではない。金田一には人間関係としてこの他にも、知縁が登場する。これは趣味や好奇心の同好のパーソナル・ネットワークである。近世において都市や村落の境界を超えて知縁が広がっている。中には、各地を回ってそうした知識を指導する移動師匠も出現している。松尾芭蕉の東北機構もこの文脈を踏まえて理解される必要がある。知縁の人間関係は自ら選択してその集団に入って形成される。他の縁と比べて、個人的色彩が強く、内面の世界を表わす。それは犯人の心理を示す情報として機能する。金田一にこの人脈が登場するのは、パーソナリティの理解に必要だからだ。
知縁には音楽も含まれる。『悪魔の手毬唄』ではお琴の教室が登場し、盲目の師匠の感想が容疑者を特定する際の手助けになっている。盲目の琴の演奏家と言えば、江戸時代の八橋検校が思い起こさせる。近世は身分・職能の遺産相続社会である。視覚障碍者には医療や音楽の専門家として位置づけられ、盲官という役職が用意されている。検校はその最高位である。彼女はこの伝統を踏まえている。
金田一には歴史的出来事や事件、制度、伝説などが明示的・暗示的に取り入れられておる。村落の社会構造は、都会が動的であるのに対して、静的である。舞台となる共同体が伝統的社会であることがそれによって印象づけられる。
文学や音楽が殺人の見立てとされる事件もある。『獄門島』の俳句や『悪魔の手毬唄』の手毬唄がその好例である。それらは共同体もしくは関係者間で共有されている。空間的のみならず、時間的にも共通の理解である。犯罪は刹那的ではなく、歴史に深い根を持っている。ふ事件はその共通基盤の範囲内で起きる。探偵はそれを手掛かりに誰が狙われているかを探る。
実は、これは近代以前の特徴でもある。前近代において芸能や芸術は自己表現ではない。共同体や人間関係の結びつきの強化のために欠かせない。祭に歌や踊りはつきものである。また、年寄りが子どもに民話を語って聞かせる。
芸能や芸術は共時的・通時的な関係を確かめ、強める前近代の表現は典拠を必須とする。思うままに表現することなど許されない。共同体があって個人がいるという発想である。共同体は自然的社交の場だから、関係が重視される。表現は認識を共有することである。
表現の利用は犯人からこの犯罪をめぐる関係者へのメッセージである。文学や音楽の作品は犯人を含めその人間関係の間で共有されている。共通理解はコンテクストの共有に基づいている。殺人が地縁血縁から発生していることをよく物語っている。
金田一には読者が舞台となる地方に対して想像上の現実と認知できるように、よく知られた歴史的伝説が効果的に用いられている。『八つ墓村』は毛利と尼子の合戦を踏まえている。この戦記話は中国地方でポピュラーである。水木しげるの見合いの際にこの毛利と尼子の話が出ている。水木しげるが毛利方の出身、相手の飯塚布枝は尼子方だったので、彼の父親が二人をロミオとジュリエットに譬えて場を盛り上げている。
戦国時代の1566年、尼子氏の家臣8人の落武者が財宝を持ってある村に逃げ延びてくる。歓迎していた村人も、毛利の捜索が近づくと恐れを抱くようになる。財政にも目がくらみ、8人を殺してしまう。その者大将は呪詛を残して死んでいく。その後、村では奇妙な出来事が相次ぎ、祟りを恐れた住民は武者の遺体を手厚く葬る、これが「八つ墓明神」の由来である。
また、『獄門島』の舞台は瀬戸内海の小島「獄門島」である。ここは、中世の頃、海賊の本拠地で、「、北門島(ほくもんとう)」と呼ばれている。江戸時代に流刑地となり、死刑の一種である獄門に由来して「獄門島」と変化している。作品では、住民のほとんどが海賊と罪人の子孫と記されている。
なお、獄門は、斬首刑の後、死体を試し斬りにし、首を台に載せて3日間晒す刑罰である。対象は庶民で、武士には適用されない。江戸時代の刑は見せしめの効果を狙うので、流刑地で獄門を執行することはない。
この物語では釣鐘が重要な役割を果たす。その際、『安珍清姫』の昔ばなしが踏まえられている。これは和歌山県に伝わる話で、西日本では広く知られている。紹介しよう。
安珍という若い修行僧が熊野大社への途上に庄屋の家に一泊し、一人娘の清姫と出会う。二人は惹かれ合い、安珍は帰途の再会を清姫に約束する。ところが、熊野大社の僧侶に心の迷いを見抜かれ、修業の身であることを諭される。
説得された安珍は清姫と会わないために帰路を変更する。清姫は安珍の帰りを待ちわびて、通りすがりの旅人に彼の消息を尋ねて回る。清姫は別の道で帰ったと聞かされ、必死に安珍を追いかける。日高川を船で渡る安珍を見つけた清姫が流れに飛びこむ、姫は赤い火を吐く大蛇の姿に変え、安珍を追い続ける。
安珍は道成寺(どうじょうじ)に逃げこむ。事情を知った僧侶は彼を釣鐘の中に隠す。彼はそこで一心に読経する。大蛇の姫は釣鐘に身体を巻きつけ、真っ赤な炎を吐き、安珍を焼き殺してしまう。
『獄門島』はこの昔ばなしを踏まえている。読者はそれを思い起こして作品世界の謎を追う。
事件の真相は関係をたどることで明らかになる。ここでの探偵は人類学者であることが必要だ。彼の調査はフィールドワークである。人類学者は研究テーマに即した地域を訪れ、対象を直接観察し、関係者に聞き取り・アンケート調査を実施、史料・資料の採取を行う。ただ、これはあくまで学術研究なので、科学性が要求される。旅行や冒険の体験を記録するのとは違う。
捜査という科学性が要求される活動であるから、村の暗黙の前提を明示化する必要がある。暗黙知をそのままにせず、形式知へと変換しないと、科学にならない。金田一はミステリーであるからこそ、伝統村落の取り扱いが人類学的にならざるを得ない。
金田一も事件の解明というテーマを持って対象を調べる。刑事事件であるから、その立証には科学性が必須である。金田一の主な調査法は事件に関連する人間関係やパーソナリティの丹念な検証・分析である。事件はそこから発生しているのであり、それを解き明かすことが真相解明につながる。村や人々を観察、聞き取り調査を実施、史資料も採取する。殺人事件が起きると、それは過去の犯罪と関連している。さらに、第二、第三の殺人事件が起きる。殺人の連鎖は人間関係のみならず、歴史や芸能も調べなければ、解き明かせない。
刑事コロンボの登場により、うだつの上がらない風采の主人公も一般的に知られるようになっている。なお、破綻した性格の持ち主は都会的であり、必ずしもこのタイプではない。しかし、金田一耕助と刑事コロンボは推理方法が好対照である。
ミステリーの鍵は動機とトリックである。主人公によってこのウェートが異なる。金田一がトリック志向であるのに対し、コロンボは動機志向である。前者がどのように犯罪が行われたかを明らかにして犯人を特定すする。ボトムアップ型の論理の組み立てだ。他方、後者は誰に殺す動機があるかを絞り、犯行再現する。トップダウン型の論理の組み立てである。
金田一は関係者の行動や事実、コロンボは心理や気分を探る。シャーロック・ホームズはパーソナリティ心理学者よろしく、鋭い観察眼からその人のロファイリングを行う。刑事コロンボはあくまでも事件に関わる程度に分析をとどめる。
また、金田一もコロンボも、通常と例外に着目する。犯罪は特殊な事件であるから、例外に解明の糸口がある。行動主義者の金田一は関係者に対して直接的に質問し、訪問回数も少ない。他方、心理主義者コロンボは雑談や外交儀礼を交えるなど間接的に質問し、訪問回数も頻繁である。
さらに、金田一は関係志向である。地縁血縁知縁などの関係に関する聞き取りを行う。他方、コロンボは個人志向である。被害者に対する感情や利害を聞き出す。
ただし、金田一もコロンボもエビデンス型と言うよりも、ナラティブ型である。前者は科学技術を用いてエビデンスを積み重ねていくタイプである。主人公は法医だったり、分析官だったりする。後者は語りから事件解明の根拠を引き出す。科学捜査は必要だが、彼らはその技術の活用に直接かかわらない。伝統的な主人公は概してこのタイプだ。
金田一の主要作品は地方を主な舞台にしている。そこは前近代的な風習が色濃く残り、地縁血縁が濃密である。人間関係が全人格的に及び、権力を始め独自の秩序がある。金田一の容姿や恰好はそんな地方の調査には適している。都会的な探偵であれば、住民は警戒して話をしてくれないだろう。伝統的共同体では何十年にもわたって同じことが繰り返されている。その過程で独自の習慣や掟、規範、力関係が形成されている。
村落の中心産業は農業である。これは失敗すると飢餓の危険性があるので、革新が歓迎されない。失敗コストを回避するため、毎年同じことを繰り返す。村人の同調行動にはこうした合理性があり、皆と違うことをするへそ曲がりは咎められる。
同じ作業を繰り返しても、天候も同様であるとは限らない。天候不順を予想し、それに対処する方法は経験によって身につくものだ。長い年月の中で体得した知識と知恵を持った高齢者が村で敬われる。彼らは生きた図書館である。『悪魔の手毬唄』で高齢者の手毬唄の歌詞の記憶が重要な意味を持つのもこうした事情を前提にしている。
探偵はよそ者である。事件が解決すれば村から去っていく。しかし、住民はその後も住み続けなければならない。伝統社会の犯罪は地縁血縁から発生している。けれども、住民にとってその人間関係は暮らしの暗黙の前提である。探偵の質問に答えて、住みにくくなるようなことにならないかを恐れる。
伝統的村落はあいさつを交わさない社会である。今日の日本語でも家族や同僚に「おはよう」以外の時間のあいさつを使わない。親父がせがれに「こんばんは」とは言わない。伝統的共同体は全員が顔見知りなので、挨拶を必要としない。家族観でも「おはよう」と交わすようになったのは、戦前に政府が見知らぬ人との出会いが増えるとして音頭をとったからである。それでもその必要性を感じない地方には定着しない。全国にこれが浸透したのは戦後のことだ。
村落は市場経済が普及していない。それは人への依存が大きいことを意味する。先に述べた通り、市場は場であるから、人々が自由で平等、独立した個人として関与できる。それがないと、人と人が支配や従属、協力などによって直接的に結びつく。風土病の撲滅のような全住民に恩恵があるトピックならともかく、この関係の網の目の中で生きている人はよそ者に慎重な対応をするのも当然である。
こうした事情があるから、探偵は住民にとって親しみやすくなければならない。威圧感も、洗練さも、頭脳明晰さもなく、聞き上手、口数の多くない平凡で頼りない人物が望ましい。村人の信頼を得ないことには調査にならない。
伝統社会はそれぞれ個性的であるから、方法に拡張性や再現性を期待できない。その村独自の秩序を知り、どの方法が適切であるかを検討しなければならない。思考違法はトップダウン型ではなく、ボトムアップ型にならざるを得ない。伝統社会の捜査は人類学者的探偵でなければ務まらない。その資質をまとめ上げると、金田一耕助になる。
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