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生きられた超人─長嶋茂雄(2)(1992)

 第2章 長嶋とは何であったのか
第1節 大下弘のデビュー
 デビューが後々まで語られることは、特に野手においては、少ない。例えば、川上や王のデビューを、記念としてではなく、後の活躍と照らし合わせながら、熱く語るものはいない。長嶋はデビューが熱く語られる数少ないプレーヤー、いや最も熱く語られるプレーヤーである。それは、デビューにおいてすでに後の活躍につながる何かを予感させるものを示していたからだ。

 長嶋以外に、デビューが熱く語られるプレーヤーとして、故大下弘の名をあげることができる。と言うよりも、むしろ、野手としてデビューが熱く語られるプレーヤーは長嶋と大下の二人だけである。

 大下は一九四六年から五九年までの実働十四年の間に、MVP一回、本塁打王三回、首位打者三回に輝き、通算二〇一本塁打、終身打率三割三厘の実績を残している。また、大下は一九五六年から五八年までの三年連続日本一になった西鉄ライオンズ黄金時代の主軸打者である。さらに、大下も、長嶋と同様、生涯記録だけによって規定されるプレーヤーではない。

 しかし、大下弘と長嶋のデビューには二つの相違点がある。第一に、大下はデビューするまで無名だったのに対して、長嶋はすでに「ゴールデンボーイ」の評判が高い。第二に、大下がデビュー戦の東西対抗でホームラン、スリー・ベースと長打を打ちまくったのに対して、長嶋は四打席四三振である。

 にもかかわらず、二人の登場には共通してそのデビューにおいてすらプロ野球を変えた意義がある。二人のデビューの違いはその意味合いの違いから派生している。

 大下は六大学時代(明治大学)では無名のプレーヤーにすぎない。当時の六大学の野球は、早稲田大学野球部監督の飛田穂州の野球観が支配的である。飛田は「一球入魂」や「修養の野球」を標榜、フライを「テンプラ」打法として邪道と否定し、内野手の頭をこすような極端な短打主義を打ち出している。こうしたコツコツ銀行預金をするような高出塁率を重視する短打主義は、アメリカにおいても確かにあったが、それはベーブ・ルースの登場前のタイ・カッブらの時代の野球である。その当時の野球は作戦を楽しむというもので、飛ばないボールでしかもボールの質にムラが多く、スピット・ボールが合法化されていた時代背景のもと生まれている。タイ・カッブらは、物凄い変化球に対応するために、バントのように左右のグリップの間を開け、チョコンとあてて内野手の頭を越す打球を放っている。それは、現在で言えば、ちょうどマリーンズの西村徳文のバッティング・スタイルを思い起こせばよい。そうした野球の中、大下は打球をポンポン打ち上げるので、大学時代は重要視されていない。大下は、大学時代について、「あの頃は、どこもかしこも早稲田式野球で、絶対にフライを打ち上げちゃいけなかったんです。ライナーしか打てない。だから、僕は大学では、あまり野球を学ばなかったですね」と告げている。戦後、大学のグラウンドでポンポンとフライをあげている姿が明大OBでセネタースのオーナーだった横沢三郎の目にとまり、大下はプロ野球に入ることになる。

 大下は、ベーブ・ルースがアメリカ野球でそうしたように、ホームラン・バッターとして日本プロ野球の新しい地平線を切り開いている。一九四六年に大下の放ったホームラン二〇本という数は、プロ野球(一リーグ時代)の総本塁打数の九・五%を占めている。この比率は日本プロ野球の歴史上最も高い。大下の比率を九〇年に当てはめると、セ・リーグは七四本、パ・リーグは八六本となる。全体でのホームランの総数が大下一人の打った数に及ばないチームもざらである。岡崎満義は、『川上哲治と大下弘』において、大下の二〇ホーマーの驚きは王の五五ホーマー以上だったと回想している。大下が登場するまで日本プロ野球の本塁打数は最高が日本初の三冠王になった東京ジャイアンツの中島治康の十一本である。十本以上の本塁打を打ったのは、中島以外に、南海ホークスの「親分」鶴岡一人だけである。二〇ホーマーは当時としては驚異的な記録であり、大下の登場によって、プロ野球はホームランの時代へと変わったのもうなずける。大下弘は一つの時代において抜きんでた存在である。大下は、そうした意味においてなら、日本プロ野球史上最高のホームラン・バッターと言ってよい。無限の彼方へと放つ虹のような放物線のホームランの美しさは、大下の甘いマスクとあい重なって、日本プロ野球の新たなシーンである。

 時代が要求しなければ大下のホームランもそれほど脚光を浴びなかっただろう。戦前にはすでに中島治康というホームラン・バッターがいる。彼も六大学時代(早稲田大学)の評価は二流にすぎない。彼の打法は、玉木正之の『4番打者論』によると、「ステップした左足をバケツに突っ込むようにはねあげ、さらに外側へアウトステップする、田淵幸一と山本浩二を合わせたダイナミックなもの」である。彼は上から落としても膝くらいまでしか跳ね返ってこない粗悪なボールの時代にワンバウンドのボールをライトスタンドに叩き込んだり、五試合連続で本塁打を打ったりするなどパワフルなバッターであり、一九三八年の秋シーズン(当時職業野球は春と秋の二シーズン制)に日本で最初の三冠王に輝いている。しかし、彼は「邪道」の打法として、一部の職業野球のファンを除けば、注目されていない。寺山修司は『誰か故郷を想はざる』において大下の登場を次のように述懐している。「一九四六年、わが国のホームラン王は東急セネタースの大下弘であった。セネタース自体が、この年発足したばかりの新球団だったので、新しいものに『期待』していたファンの喜びは大きかった。大下は打率は〇・二八二で二十位にも入らなかった。しかし、敗戦で何もかも灰燼に帰してしまったファンは、人生だけでなく野球に於いても『一挙挽回』を望んでおり、打撃王のタイガースの金田正泰などの数十倍の拍手を新人のホームラン王の大下に送ったのである」。なお、当時は「東急セネタース」ではなく、「セネタース」である。大下が野球の歴史の転機となる存在だったのは、類いまれな打球の飛距離を出す力だけにあるのではなく、新しさを待ち焦がれているファンから歓迎されたからである。

 さらに、野球におけるその新しさは戦前の色を払拭していなければならない。ファンは、戦前野球において主流だった学生野球ではなく、虐げられてきた職業野球に新しさを期待している(4)。しかも、大下のバッティング・フォームがグリップを腰より低く手前におき、右足を軽く浮かし前傾の構えでボールを待ち、アッパー・スイングでボールをバットにのせてスタンドまで運ぶという変則的なものだということも新しさをファンにら印象づけている。それはニューヨーク・メッツのスラッガー、ダリル・ストロベリーの打撃フォームである。どんなに素晴らしい力を持ったものでも、受け入れるものがなければ、歴史を変えることはできない。吉目木は、『記録の見方』において、「過去の記録を評価する際にポイントとなるのは、それがその時代においてどのような意味を持ったか、つまり、時代の中で傑出していることはもちろん、歴史の中で分岐点となるものであったか、後継者を生みだし得たか、という点である」と述べている。本塁打王は戦前には連盟表彰のタイトルとして認められておらず(5)、バッターの勲章はあくまでもアベレージである。それが、大下の登場によって、藤村や小鶴、青田、別当といったロング・ヒッターが次々に現れる。さらには、すでに確立した名声を持った「神様」川上までもが、バッティングを変え、ホームランを打ちにいっている。

 ところで、その時代において、川上と大下を支えたものは何だったろうか? 少なくとも、それはハングリー精神なるものではない。ハングリー精神は結果と原因を置き換えることによって生じただけであって、それは幻想にすぎない。

 スポーツの分野に関する最も優れた批評家の一人である岡崎満義は、『川上哲治と大下弘』において、ハングリー精神を「基本的には生活の貧しさからくる飢えの恐怖というものだろう」として、それが、川上哲治や大下弘だけでなく、偉大な選手を生むことはありえないと次のように指摘している。

全き貧困の中から野球選手は生まれるわけがない。少なくとも、戦前なら中学、戦後なら高校に進学して、硬球を手にするだけの社会的・生活的基礎がないかぎり、野球選手にはなれない。進学できる程度の貧困以上の生活水準がなければ、「ハングリー精神」の発揮のしようもない。(略)
 物のない、いつも腹減らしていた終戦直後から、「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれた昭和31年ごろまで活躍した二人は、もちろん「ハングリー精神」の持ち主であったにちがいないが、腹が減っていたから首位打者やホームラン王になるほど努力したのだ、とはどうしても思えない。腹が減っていたのはその他の野球選手も、また試合を見に来たファンも同様、いや、早い話が日本人の99%は飢えの恐怖にさらされていたはずだ。いわば「ハングリー精神」は社会全体に蔓延していた。そんな中で素晴らしい記録を残した川上や大下を、とくに「ハングリー精神」の発現者として特筆大書するのはあまり意味があることとは思えない。
 また、物のあふれた現在と昭和20年代とをくらべて「ハングリー精神」を語るのは、方向違いだろう。
 川上の著した『ジャイアンツと共に』『悪の管理学』から最近の『常勝の発想──宮本武蔵「五輪書」を読む』にいたるまでの著書、大下については『大下弘日記──球道徒然草』を読んでみると、この二人をつき動かしたのは「ハングリー精神」というよりも人一倍強い「親孝行」の心、とでもいうべきものではないか、と思った。野球をするのは自分であるが、その自分の後ろには親があり家がある、そのことに自分は責任を負っている、ということを信じて疑わなかった。多分、その単純明快な強さを「ハングリー精神」といったのだ。

 人はそれぞれある時代の中で生きていく以上、誰の出発点となるのも時代の中でありふれたものであろう。時代に蔓延していた雰囲気を後から特権的にとりだすことは、その時代にあってなぜ他ならぬその人となった理由を明らかにしないどころか、それを隠蔽するだけだ。見るべきなのは、時代の気分から自分をどうおいつめていったかということである。川上と大下を支えたのは「親孝行の心」である。それは、確かに、現実的な感触を持ったものだったが、それを信ずる「単純明快な強さ」を持ったのは彼らだけである。母の不安定さに苦しんだ大下は無批判的な美談に転換されやすい危険性を知り、それを広言しなかったが、川上は「親孝行の心」を語り、「単純明快な強さ」もなく、支える現実がなくなってからは、イデオロギーへと転換させてしまう。川上と大下の差異はそこにある。

 よくアメリカの選手は日本に比べてハングリーだとプロ野球の評論家が言うようだが、ハングリー精神の伝説に対する批判はアメリカのプレーヤーからもあがっている。

 七〇年代ニューヨーク・ヤンキースのエースだったスパーキー・ライルは、『ロッカー・ルーム』において、ハングリー精神の伝説を次のように非難している。

貧困の中から脱出するために野球をやるとか、ハングリーだから強くなったとかいう“伝説”はみんな嘘だ。金のためにプレーすると言うのは、後からとってつけたお話であって、プレーしている時の人間は(あるいは“猛獣”は)そんなことなど全く考えていない。「チームのために」とも思っていない。ただひたすらその一瞬に集中し、己れの本能をさらけ出し、全能力を発揮しようとしているだけだ。客観的に見れば、それがより充実した「生」の瞬間を過ごそうとする人間の、男の姿でもあるかもしれない。

 その上で、ライルは、「『チャーリーズ・エンジェル』を見るため、試合中にベンチを離れる選手がいた」とも付け加えている。試合中にテレビを見ることと「その一瞬に集中」することはまったく矛盾せず、「より充実した『生』の瞬間を過ごそうとする」ことの表出だ。マーシャル・マクルーハンは、『メディアはマッサージである』において、テレビを「クール・メディア」と定義し、「画面を見ているものを、次の行動に導かないメディア」と言っている。

 大下はそれまでの四番打者像を転倒する。玉木の『4番打者論』によると、大下以前の理想の四番打者像とは、「チームを代表する選手として、“心・技・体”ともに優秀であるという、相撲の横綱審議委員会が、力士を横綱に推挙するときのような条件が、イメージとして付加」されていた。川上哲治はそうした戦前からの四番打者像を代表していた。川上は当時の「誰もが“正統派”と認める素晴らしい“弾丸ライナー”をかっ飛ばした。また、『ボールが止まって見える』といった発言に示される“精神”も“正統派”そのものだった」。川上に対して、プロ野球一の高給取りの大下は宿酔いで一試合七打席七安打を記録するなど豪放磊落な性格と柔らかな笑顔で、さまざまな女性スキャンダルとエピソードを欲しいままにしている。つまり、大下は、無名性の持ついかがわしさを十二分に発揮することによって、既存の階序を転倒する。大下は生きられた階級闘争である。要するに、大下は、無名性とホームランによって、四番打者像や日本プロ野球を変える意義があり、デビューはその象徴として語られている。

 さらに、大下の影響はプロ野球界だけにはとどまらない。大下はファン・サービスをこころがけたプレーヤーでもある。当時流行した並木路子の『リンゴの唄』の「赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空」という歌詞から自分のバットを青に塗り(実際の色は青よりもむしろ緑に近い)、「青バットの大下」と呼ばれ、その「青バット」に憧れて少年たちは野球を始めている。つまり、戦後から始めたプロ野球選手大下は、プロ野球選手になることを少年の夢とした初めての教育者的なプレーヤーである。大下の登場によって、プロ野球選手になることが少年の夢として世の中で認知されていく。


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